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映画「モロッコ、彼女たちの朝」感想

2019年、モロッコ・フランス・ベルギー合作。
監督/マリヤム・トゥザニ
出演/ルブナ・アザバル ニスリン・エラディ ほか

舞台は北アフリカ、モロッコ最大の都市カサブランカの旧市街。時代はいつ頃だろう…はっきりと明示されてはいなかったと思うのですが、まだ若そうな女性監督の実際の経験に基づいたお話らしいので、現代ではあるのでしょう。ただ、古めかしいカセットデッキや、建物の屋上からの場末感たっぷりのくすんだ風景など全体にひと昔前といった雰囲気が漂います。
モロッコって私のイメージでは、イスラム文化圏特有のエキゾチックかつカラフルな印象があったのですが、一歩市街地を離れると、途端に埃っぽくなっちゃうんでしょうかね。石畳で舗装された街並みのはずなのに、なんだかいつも砂埃がたっているような感じがしました。

で、そんな街並みをさまよい歩くサミア。彼女のお腹はもう随分大きくなっています。イスラム教では未婚女性の妊娠は忌み嫌われるらしく、なおかつ中絶も禁じられ、おまけに彼女は妊娠のせいで仕事も住居も失っていて、どないせえっちゅうねん、というこんな状況で出来る方策はただ一つ。誰一人知る人のない街でこっそりと出産を行い、すぐに生まれた子を里子に出し、そして故郷に戻って素知らぬ顔をして普通に結婚をすることです。生まれてくる子供にとっても、“罪の子”として生きるよりは里親に育てられるほうがよほど幸せだとサミアは言います。
出産までの間、働ける場所がほしい。サミアは街をさまよいますが、いかにも未婚で妊娠してしまって困っているような彼女を助ける人はいません。関わるのも憚られるぐらい、忌み嫌われる存在なのです。一つ一つ、家のドアを叩いて、家政婦として働かせてほしいと頼む。皆が皆、断る。小さなパン屋を営むアブラも、断った。だが、夜になって窓の外を覗き、サミアが路上で寝ていることに気づくと、彼女はそれがどうしても気になって眠れない。アブラはとうとうサミアを家に泊めることにしたのです。
アブラの夫は早逝し、彼女は幼い娘ワルダを一人で育てています。一人親という気負いがあるのかどうしても厳しめに娘をしつけ、いつも険しく寂しげな顔をしていますが、根は心優しい女性だということが、娘に対するふとした言葉や顔つきから察せられます。
ただ、サミアに対しては、しばらくは置いてあげるけど、すぐに出て行ってねというスタンス。
サミアもサミアで、今までの苦労のせいか表情がいつも硬くて、せっかく親切にしてもらっているのにどうにも愛嬌がない。
そんな2人の間で、天真爛漫に場を和ますのがワルダ。この子ども(の演技)がとにかく自然でかわいらしい。サミアもワルダには思わず笑顔を向けます。
ある日、サミアはルジザという伝統的なパンを作ります。手間がかかるので手作りはなかなかできないパンとあって、店先に並べると飛ぶように売れていきます。
そうして少しでも役に立とう、手伝おうとするサミアにアブラの心もいつしか開かれていきます。
この家で出産してもいいよ、というアブラ。そして生まれた子を本当に里子に出してもいいのかとサミアに問いかけるアブラ。
いざ子が生まれ、自分の腕に抱いてみると、サミアの母親としての感情がほとばしり出てきたかのように涙が止まらなくなってしまう。
早朝。まだ寝ているアブラ親子の寝顔を見ながら、サミアは家を出ていきます。

抑圧されたイスラム圏女性の、さらに最下層とされる女性たち。
弱い者どうしが繋がり助け合い生き抜いてゆく、その優しさとしなやかさ。
選択の余地などないような不自由さの中で、あえて選択してゆく力強さ。
そういう女性たちの姿が見事に描かれています。

パン作りが得意だという設定やパン生地をこねる肉感的な手つきから、妙にサミアの力強い生命力みたいなものが伝わってくる。上手いなあ、と思いました。
それと本作の宣伝用に使われている画像が、一見、フェルメールの絵画のようなのです(私が感じたくらいですから、あちこちで同じような感想が散見されます)。女の人の髪の毛を束ねる被り物とか、薄暗い壁をバックにして高い位置の窓から差す光が生む陰影みたいなものが。監督がフェルメールから影響を受けたと公言しているらしいので、さもありなん、ということなのでしょうが、全体を通してフェルメール調なのかと言えば、全然そんなことはありません。全体にはうらぶれた茶色っぽい映像です。ただパン屋の店の奥の壁を前にして彼女たちがパンをこねる時だけ、色鮮やかでクラシックなフェルメールの絵画が出現するのです。

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