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シャバーサナ

 「最後のシャバーサナのポーズに入ります。」
インストラクターの声がすると、スタジオの照明が落ちた。真紀はヨガマットの上に仰向けに横たわった。これが真紀にとって一番好きな時間だ。このために、ヨガのクラスに通っていると言っても過言ではない。
 両手両足を少し開いて、手のひらは上に向け、全身の力を抜いて横たわる――ヨガレッスンを締めくくる究極のリラックスのポーズ。シャバーサナとは、サンスクリット語で「屍」を意味する「シャバ」と、「ポーズ」を意味する「アーサナ」から成る言葉で、魂が抜けたように身体を動かさない「屍のポーズ」のこと。意識も手放した状態になるのが理想だ。
 真紀の場合は、本当に意識が飛んでしまって、深い眠りの世界に埋没してしまうことが多い。下手をすると自分の寝息というか、イビキで目が覚めてしまうこともある。二十人弱が横たわる中、イビキの出所が自分だとばれただろうかと一瞬の羞恥心に襲われるが、その後はまたうとうととまどろんで、眠りの世界に引きずり込まれていく。
 この覚醒と睡眠のはざまを行き来する瞬間が、とてつもなく気持ちいい。温かなお湯の中でぷかぷか浮いているような、雲の上でふわふわしているような至福のひととき。母の胎内で羊水に浮かんでいたとき、あるいはそのはるか以前に天上の世界にいたときの記憶が蘇るのだろうか。

 チリンと鐘の音がして、「手足を少しずつ動かしてみましょう」とインストラクターの声が聞こえた。意識はまだ半分眠りの世界にあるが、なんとか手の指を動かし、足の先を揺らしてみる。自分はちゃんと起きていますよと、示すかのように。
 やがて起き上がって、楽な姿勢で座り、深い呼吸を繰り返したあと、レッスンが終わった。毎回、どこからともなく拍手が起こる。今のインストラクターに変わってから、レッスンの参加者は確実に増えている。事実、真紀も、このインストラクターになってから、ヨガのレッスンが楽しみになった。なにが違うのか説明するのは難しいが、このレッスンが終わると、普段は滅多に動かすことのない身体の節々を伸ばしたせいか、心身ともにすがすがしい気持ちになるのだ。身体も心も開かれて、新鮮な空気が循環したような爽やかさ。「きょうも来てよかった」と思える。

 ロッカールームで着替えていると、ほかの参加者も、「気持ちよかったねぇ」などと話している。真紀も会話の輪に入った。
「ほんとですね。気持ちよくて、きょうも最後のポーズですっかり寝ちゃいました。」
すると、かなりスリムな年配女性がびっくりした表情を見せた。
「本当? 私、こういうところでは絶対眠れないのよ。気持ちよさそうに寝ている人が、羨ましいわ。」
すると真紀と同じ、ふっくらした体型の女性が、「あら、それ私かしら。きょうもイビキをかいたかも知れないわ」と朗らかに言ったので、真紀は内心ほっとした。ほかにもイビキをかいた人がいたのなら、自分のイビキはばれていないかも知れない。
 長くこのジムに通っているのに、いまだに名前を知らないこのスリムな女性は、少し神経質そうではあるけれど、真紀と顔を合わせると話しかけてくれる。もうひとりのイビキの女性も、そうだ。真紀は、自分も、そして自分の母親もふっくらした体型だったせいか、ついイビキの女性に親近感を覚えてしまう。小学生のお孫さんの話になると、すぐに目を細め、ときには涙さえ浮かべる姿に、今は亡き真紀の母親を重ねてしまうからだ。彼女と話していると、真紀の娘、真由のことを愛してやまなかった母の姿が、浮かび上がってくるのだった。
「新しい先生、人気ですね」と真紀が言うと、母に似た女性も同意した。
「このクラスに来る人、増えたわねえ。前はすかすかで、スペースもたくさんあったのに、今はぎゅうぎゅうだもの。」
「前の先生は、ちょっとね」と、スリムな女性が顔をしかめた。
「なんだか失礼な人だったわよね。」
彼女の言葉に、真紀は少しだけ前の先生に同情した。

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 前の先生は、真紀よりも少し若かったはずだ。平日の午後にジムに来る会員は、六十代以上の女性が中心だったので、五十代になったばかりの真紀は若手として周りの女性たちに可愛がってもらっていた。実は昔から運動が苦手だった真紀にとって、ジムの会員になるのは大きな決断だった。十年前、体調を崩して病院を受診した際、「二十代の頃と比べて体重が十キロ以上増えていたら、生活習慣病になりやすいから気をつけてくださいね」と医師に言われ、ずっと気になっていたのだ。自分でも体が重くて、動きにくくなった気がしていたが、ある日、テレビで紹介していた健康体操をやってみたところ、今まで普通にできていたはずの動作ができなくなっていることに衝撃を受けた。「これが老いるということなのか」と恐怖を覚えたことがきっかけで、近くのジムに入会したのだ。
 最初は午前のクラスにも通っていたのだが、午前中は四十代の会員が多く、皆はつらつとしていて、動きも速く、かなり熱心なので、レッスン内容もそれに合わせて激しく、難易度が高いものが多かった。初心者の真紀にはついていけない上に、いきなりの激しい運動で膝に負担がかかってきた。しかも会員の間で既にお友達の輪ができていて、そのスリムでおしゃれな主婦グループに、真紀はとても入っていけなかった。
 それに比べて午後のクラスは、年配の女性が無理のない範囲で、のんびりと身体を動かしているので、真紀も気後れすることなく仲間に入れた。おしゃれにそこまで気を遣うこともなく、必要以上に頑張らなくてもいい。インストラクターの先生も、そんな彼女らに合わせて、気楽なレッスンを心がけてくれていた。

 そんな午後のクラスに、なぜかあの四十代くらいの、はつらつとした先生が登場したのだ。まだ子育てに奮闘中と思われる彼女は、小柄ながらエネルギッシュで、スリムな身体におしゃれなウェアが似合っていた。茶色がかったショートヘアに、色白のそばかす顔の大きな瞳も茶色がかっていた。どこか異国情緒のあるキュートな笑顔で、彼女ははきはきと挨拶をした。
「こんにちは! インストラクターの恵美と申します。よろしくお願いします!」
 明るくて素敵な先生だなと思っていると、彼女は話し続けた。
「皆さん、普段は、誰々のお母さんとか、どこどこの奥さんということで忙しく家事などしておられるかも知れませんが、ここでは一個人としての自分に戻って、自分の時間を楽しんでください。そのためにも、ここではお互いにファーストネームで呼び合いたいと思います。」
 普段から会員同士で雑談などして、多少の交流はしているが、名前で呼び合う必要は感じていなかったので、真紀は少し面食らった。しかも自分の苗字を気に入っていたので、普段から苗字で呼ばれる方が好きだったし、よく知らない人にファーストネームで呼ばれると逆に緊張しそうだった。
「では先ほども言いましたが、まず私から。インストラクターの恵美です! では、こちらの方から始めましょうか?」
 恵美インストラクターに促されて、スリムで神経質そうな年配女性から順に、ファーストネームでの自己紹介が始まった。恵美はそのつどメモ帳に名前を書き付けていたが、真紀はスタジオ内にいる十人に満たない顔見知りの会員の名前を頭に入れることすらできなかった。そもそも彼女たちのファーストネームに興味はない。苗字すら、うろ覚えなのに。
 レッスンが始まっても、彼女は新しい動きをするたびに、その意味や、それによる効能などを説明してくれた。けれど、その話がやけに長く感じられ、運動嫌いの真紀ですら、「早く体を動かしたい!」と懇願したくなるのだった。
 それでもほかに選択肢がなかったので、木曜日の午後は用事がない限り、真紀はそのレッスンに参加していた。神経質そうなスリムな女性も、ふっくらした女性も、たいてい姿を見せていた。だが回を重ねても、真紀たちは互いのファーストネームをほとんど覚えていなかった。ロッカールームではいつものように雑談をしていたが、名前を呼び合う必要はなかったからだ。
 恵美と名乗るそのインストラクターは、数あるクラスの中で自分だけの独自色を出したかったのだろうか。自分の個性だけでなく、会員それぞれの個性も引き出して、皆で本来の自分に戻って、ほんの一時間でも、共に密度の濃い時間を過ごそうという意図だったのだろうか。その気持ちは理解できたとしても、私たちを巻き込まないでほしいというのが真紀の素直な気持ちだった。会員の反応を見れば、自分が空回りしていることはわかるはずだ。それでも彼女は、回数を重ねれば、皆、自分の意図を理解してくれると思っているのか、やり方を変えなかった。参加者の人数は最初から十人に満たなかったのに、その後は増えるどころか減り続け、五、六人で下げ止まっていた。

 それでも彼女のレッスンは、なんとか続いていたのだが、年明けのレッスンで恵美インストラクターは、「今年実現したいことを発表してみましょう」と言い出した。願いを言葉にして、実際に人の前で宣言することで実現させようという自己啓発本に触発でもされたのだろうか。しかも、会員同士の交流を促すためなのか、願いを発表した人は次に発表する人を指名しろという指示まで出た。
 最初に指された人が、「体重を五キロ減らしたい」と健康上の目標を言ったので、真紀は、「私的な趣味を暴露しないような、当たり障りのない目標の方がいいかな」と頭の中で考えていた。ところが、次の人も同じような健康上の目標しか言わないので、せっかくの恵美先生の試みが盛り上がるよう、もっと個人的な目標を言ってあげようかなと思い立った。
 その真紀の思いに呼応するかのように、ふっくら型の女性が、個人的な話を始めた。「私、小学生の孫がいるんですけどね、もう可愛くてね。でも最近は、息子一家が富士山登山を目指して、週末も家族で登山に出かけるようになって、会えないことが増えてきたんです。だから私も、もっと身体を鍛えて、孫と一緒に富士山登山をしたいと。それが、私の目標です」
「それは、すばらしい目標ですね。お孫さんと一緒にと思うと励みになりますし、ぜひ頑張ってください。」
恵美インストラクターは笑顔で言った。
「じゃあ、祥子さん、次の方を指名してください。」
ふっくらした祥子さんは、「そうねぇ」と首をかしげて、手を差し出しながら、真紀に笑顔を向けた。「ああ、あの方のお名前は祥子さんだったのね」と思いながら、真紀は話し始めた。
 「私は…、娘の影響でイギリスのアイドルグループに年甲斐もなくはまってまして、今年はなんとかチケットを入手して、娘とライヴに行くつもりなので、それまでに一緒に歌えるようになりたいと思います。」
そう言ってから、真紀はスリムな女性を指差した。なぜ彼女かと言えば、雑談をする顔見知りの会員の中で、なんとなく彼女にはあまり好かれていないような気がしたからだ。彼女は中島さんという会員と特に親しくしていて、真紀がたまに中島さんに話しかけるのを快く思っていないのではないかと感じていたからだ。真紀も、中島さんのことは名前を覚えているくらいなので、好感を持っていたが、個人的に親しいと言えるほどではない。真紀がいまだに名前を覚えていないスリムな女性は、真紀よりもずっと前から中島さんとは知り合いのようで、お互いの家族のことも話題にしていたので、真紀はふたりの領域には入りこまないよう注意していた。その上で、真紀は中島さんだけでなく、スリムな女性にも好感を抱いていると示すために、彼女を指名したのだ。
 ところが、スリムな女性が口を開こうとした瞬間、恵美インストラクターが右手を小さく振りながら、真紀の方を見て言った。
「真紀さん、人のことを指さしてはダメよ。」
まるで子供を叱るような言い方だった。少し離れた場所にいたスリムな女性に手を向けたつもりだったのだが、失礼な感じで指さしをしていたのだろうか。真紀は自分の娘に人を指さしてはいけないと注意してきたことを思い出し、余計にバツが悪くなり、黙ってうつむいた。恵美インストラクターの意図を汲んで、雰囲気を盛り上げようと気遣ったつもりだったのに、こんな形で貶められるなんて予想もしていなかった。
 真紀の発言はとっくにどこかに消えたまま、次のスリムな女性が、今年は温泉巡りをしたいなどと語り始めたが、その後のことは真紀の記憶には残っていない。恵美インストラクターとスリムな女性に対する真紀の配慮が粉々に潰されて、吹き飛ばされてしまったからだ。

 そんなことがあっても、真紀は木曜の午後のクラスに通っていたが、恵美インストラクターの独自性アピールに付き合う気持ちはとうになくなっていた。会員たちが彼女の気持ちについていけず、彼女の思いだけが空回りしえいることがひしひしと感じられるようになってきた頃、真紀もいたたまれなくなり、とうとうクラスを休むようになった。
 それから半年もした頃だろうか。新しいスケジュール表から、恵美インストラクターのクラスがなくなり、いまのインストラクターのヨガクラスが始まったのだ。恵美インストラクターのクラスは、どんどん参加者が少なくなり、最後は二、三人いればいい方だったらしい。
「皆さん、本来の自分に、個人である自分に戻りましょう」という思いに賛同する人が殆どいなかったとは、彼女は落胆しただろうか。

 新しいインストラクターは、自分の思いなど口にしないし、こちらの思いを尋ねることもなかった。ただ、「自分の内面、自分の呼吸に意識を向けましょう」と言って、身体の動かし方を教えてくれた。余計なことは言わず、でも必要なことはきちんと説明してくれる。それに従って無心に身体を動かしていると、心までほぐれてきて、最後は気分が爽快になり、「ああ、来てよかった」と思えるのだ。ただ、それだけ。それだけで、みんな好感を抱いた。恵美インストラクターよりも、ずっと若い新しいインストラクターの先生に。

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「なんだか失礼な人だったわよね。」
ロッカールームでスリムな女性が放った言葉に、真紀が「え?」という感じで顔を向けると、彼女は続けた。
「ほら、一度あったでしょ。あなたに向かって、指さすのはダメよって注意したじゃない? あの人こそ、失礼よね。」
 真紀にとっては意外な言葉だった。このスリムな女性が、あのときの真紀の辱められた気持ちを共有してくれていたとは。自分から「次の人を指名しなさい」と言っておきながら、いざ指名すると、「その指名のしかたはよくない」と注意するとは何事かと思ったのだろうか。そもそも、皆の前でひとりずつ話をしなさいということ自体が、彼女は気に入らなかったのだろう。
もしかしたら嫌われているかもと思っていたスリムな女性が、実は自分に同情してくれていたことを知り、真紀はなんともいえない気持ちになった。名前を知らない同士でも、毎週、ジムで同じ時間を過ごしていると、不思議な連帯感が生まれてくるのかも知れない。

 それにしても、なにが恵美インストラクターをあのようにさせたのだろう。

 ヨガマットの上に横たわるだけで、真紀はすぐに母の胸に抱かれて眠った幼い頃に戻り、とてつもない安心感と幸福感で満たされる。シャバーサナの度に真紀が経験する至福感を、彼女は感じたことがあるだろうか。

                     *これはフィクションです。

         

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