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試し読み!12月17日発売「ブルームワゴン」 第四話


第四話 ヨークと人魚姫


ヨークは子供のころ、アンデルセン童話の「人魚姫」を繰り返し読んだ。その理由は、ヨークが「人魚姫」と同じように口がきけなかったからだ。ヨークは「人魚姫」が収録された「アンデルセン童話集」を、ある日両親の部屋にあった本棚で見つけた。その本はとても重たく、古びていた。表紙には粗い布が張られていて、ほつれた糸が何本か飛び出していた。ヨークは初めて見るその珍しいつくりの本を開いてみた。中の紙は厚ぼったく、鼻を近づけると古い着物のような匂いがした。

その本はヨークが持っているどの本とも様子が違っていた。ヨークの本棚に並ぶ本の表紙はみんなつるつるした手触りで、大きな瞳をした賢そうな顔の登場人物たちが描かれていた。「アンデルセン童話集」は当時のヨークにも読める文字、分かる言葉で書かれていた。ヨークはアンデルセン童話集を読み始めた。そして彼女は人魚姫と出会った。ヨークはすぐに主人公のお姫様に心を鷲掴みにされてしまった。ヨークはお姫様の身になって物語の中を泳ぎ続けた。ヨークは毎日のようにアンデルセン童話集を広げた。ヨークにとっては、人魚姫はもはや彼女の姉とも、親友とも、祖先とも言える存在になっていた。

ヨークと人魚姫との相違点は、ヨークと人魚姫との共通点よりもずっと多かった。それでもヨークは人魚姫のことをとても身近に感じ、人魚姫の一生を愛さずにはいられなかった。人魚姫とヨークの間にある一つ目の相違点は、ヨークには「五人のきれいなおねえさまたち」はおらず、ひとりっ子だったということだった。そして二つ目の相違点は、ヨークは人魚姫のように「世にもきれいなお顔」も「まっ白な肌の上のバラ色のほお」も持っていないという点だった。ヨークは浅黒い肌をした骨ばった体つきの女の子で、髪の毛はきつく縮れていた。いくら長く伸ばしたところで、人魚姫のような、具合の良いウエーブのかかった優美なヘアースタイルにはならなかった。

三つ目の相違点は、ヨークは海の底にある王国の娘たちのひとりなどではないという点だった。ヨークの両親は、周囲からは宗教家だと思われている夫婦だった。ヨークが住む家には、ヨークの両親を慕い、頼りにしている人たちが町の内外から通ってきていた。彼らは「広場」と名付けられた、ヨーク一家が住む家で一番広い部屋に集まり、そこでヨークの両親に何かを打ち明けたり、相談事を持ち掛けたりしていた。

ヨークは成長してからも、両親の本棚からアンデルセン童話集を抜き出し、「人魚姫」だけを読んだ。中でもヨークは、人魚姫が自分と同じ境遇になった場面を繰り返し読んだ。人魚姫は人間の姿になって愛する人と再び会うために、魔女のところへ行って知恵を借りようとする。魔女は人魚姫が自分のところにくることをなぜか知っていて、手を貸してくれると言う。しかし魔女は人魚姫に、短い寿命と二本の足とを与える見返りに、人魚姫が持っていた、どの姉妹よりも美しい声を手放すことを要求する。人魚姫は三百年が保証されている寿命を手放し、舌を切り取らせ声を魔女に渡してしまう。

ヨークはその場面が描かれた部分を読み返すたびに、ただ覚えていないだけで、もしかしたら自分も、いつか誰かとこのようなやり取りをしたために声が出せなくなってしまったのかもしれないと考えたりした。あるいは自分ではなく、両親が誰かと取引したのかもしれない。たとえばわたしが生まれたての赤ん坊だったころ、その赤ん坊の声を渡せば命は助けてやる、と誰かに言われ、両親は泣く泣く決断したのかもしれない。

でもヨークは成長するにしたがって、そんなふうには考えなくなった。海の底には王国などなく、あるとしたらそこは、おそらく砂と闇でできた、視力を持たない生き物たちの棲み処だろう。それに人魚のモデルとされている動物は、アンデルセン童話集の挿絵に描かれていた人魚たちの姿とはまるで違っていた。ティーンエージャーになるころには、ヨークは彼女なりの真実を掴んでいた。人魚姫と違って、自分に声がないことには特に何の事情もないのだ。自分の場合はただ単に、神様から声を与えられなかっただけなのだ。

ヨークの両親のもとに通う、いつかヨークがどこかで耳にした、町の人の言うところの「信者たち」の数は、およそ三十人から四十人ほどだった。
ヨークの両親は彼らを何かで縛ったりはしなかった。何らかの規則を守らせるために宣誓させたり、財産を没収したり、階級や役職を作ったり、多額の金銭を「広場」運営のために寄付するようにと迫ることもなかった。

彼らは自分たちを宗教家だと思ったことはなかったが、ある宗教をベースにした確固たる考えを持っている人々ではあった。彼らの先祖は代々その宗教の教えを守り、人々に広める僧侶として努めて慎ましく暮らしてきた。ヨークの両親もまた子供のうちからその宗教について学び、ある年齢に達すると、僧侶になるための試験や研修も受けた。彼らは生まれつき人の気持ちを読み取る能力に優れていて、多くの人の目には映らないものを見ることができた。ふたりに備わっていたその能力は、彼らがその能力を意識し、認め、大切にして信用し続けることでいっそう磨かれ強くなった。

ふたりは家を出て、田舎町に古いが広い家を購入し、「広場」を作った。彼らは「広場」にやってきた人たちの話を聞き、彼らの体のまわりや瞳の中に見えたものについて述べ、意見を言った。やってきた人がまだ「広場」に通い、自分たちと話をしたいと望めば喜んでそれを許したし、「広場」が自分の求めているものではなかったようだと感じた人を、引き止めたり非難したり、考えを変えさせようとはしなかった。

ふたりはもともと従兄妹同士だった。彼らの両親は、彼らが生まれたときにはすでにそれぞれに罪人だった。大きな家に住んで何不自由ない暮らしをし、人々に尊敬される地位を手に入れていてもなお、彼らは罪人だった。勘の良いこのふたりの従兄妹は、そのことにまだ子供だった頃から気づいていた。
代々僧侶という職に就いて、必要以上の欲がどれほど簡単に人を人でなくしてしまうかを常に心に留めながら生きてきた一家だったはずなのに、ヨークの両親の曽祖父の代から少しずつおかしくなり始めた。

彼らは先祖たちがこれまで長い時間をかけて築き上げてきた信用を利用し、罪を犯し始めた。彼らが罪を重ねることによって財産はどんどん増えた。その魔法の虜になった彼らは、更なる罪を犯した。そうして得た財産はやがて、彼らやその子孫たちが住むための何軒もの大きな家になったり、豪華な調度品になったり、宝石類や衣類や希少な美術品に変わったり、次なる罪を成すための材料になったりした。それでもまだ財産は、彼らがたとえ二度、三度と生まれ変わったとしてもその間に使いきれないほど残っていた。

誰にもそれと知られないかたちで結婚したヨークの両親は、やがて遺言に従って自分たちのところに下りてきたその財産を、自分たちが生きている間にすべて使ってしまわなくてはいけないと考えた。両親たちがばら撒いた罪を汚れだと考えれば、自分たちの使命は、その汚れに対抗できるものを力づけ、増やすために働くことだと考えた。ふたりは放棄できる権利はすべて放棄し、受け取ったお金はその活動のために使うと決めた。

ふたりが「広場」を開いて五年ほどが経ったころ、ひとりの女性が彼らの住む家を訪れた。真夜中を過ぎた時間帯のことで、ヨークの母親はすでに眠っていて、ヨークの父親も寝支度を済ませたところだった。そのころは、ヨークの両親と「広場」のことが、急速に人々の間に広まっていった時期でもあった。眠れない人々は夜更けでも朝方でも「広場」で話を聞いてもらおうと家のドアを叩いたし、二十四時間の間に電話が鳴っていないのは深夜から明け方にかけてのほんの数時間だけ、という生活が続いていた。

その晩、彼らが住んでいる町の上空を嵐が通過して行った。そのため断続的に停電が起こり、彼らが眠ろうとするころには完全に電気の供給が止まっていた。家の中は真っ暗で、風の音だけが聞こえていた。

第五話へつづく(毎週水曜日更新)



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