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試し読み!12月17日発売「ブルームワゴン」第五話


第五話 嵐の夜にやってきた女


普段から、家の中に明かりがひとつも灯っていなければ、ドアを叩こうとする人たちもさすがに遠慮するか、数時間後に出直してきた(自宅には帰らず、ふたりが住む家の壁にもたれて眠り朝を待つ人もたまにいた)。でもその晩ヨーク一家が住む家のドアは、そこが開くまでは決して諦めないという誰かの強い決意を反映しているかのように、繰り返し叩かれ続けていた。
「こんな日に」
ヨークの母親が、一定のリズムで続く重々しいノックの音に目を覚ましてベッドの中から声を出した。
「月も見えなくて、街灯も消えて暗いのに」


「行ってくるよ。よほど何かに苦しんでいるんだろう」
ヨークの父親は、そう妻に言って、懐中電灯を掴むとひとりで一階に下りた。ノックされ続けている玄関のドアを開けたとき、そこにいたのはずぶ濡れの、あちこち破れた黒っぽいコートを着た小柄な女性だった。
「困っていらっしゃることがあるんですね」
ヨークの父親は女性に言った。女性はフードを被って顔を隠していた。肋骨を押さえるようにしている彼女の手は赤黒い色をしていて、寒さでこわばっているように見えた。ヨークの父親は彼女の正体にすぐに気づいた。その存在は、彼と彼の妻がまだ子供だったころから彼らを頼ってくることがあった。
「どうぞ入って下さい。動くはずのない体を使ってまでここにいらしたからには、よほどの事情がおありなのでしょう」

彼女はコートの下から、布にくるまれた楕円形をしたものを出すとヨークの父親に渡した。それを受け取ったヨークの父親は、これは、と思わず呟いた。彼の手に預けられたものは、何枚もの衣類できっちりと包まれ、まるで布でできたさなぎの中から顔だけ出しているみたいな様子の、ぐっすり眠っている浅黒い肌をした赤ん坊だった。
「あなたの子供ですか?」とヨークの父親は女性に尋ねた。女性は頷いた。ヨークの父親は赤ん坊を腕に抱いたまま、女性と共に家の中に入った。居間からは明かりが漏れていた。緊急時用にいくつか準備してあったろうそくに、彼の妻が火を点けてテーブルの上に置き、ふたりがくるのを待っていたのだった。彼女はすでにガスコンロを使ってお湯を沸かし始めていた。三人分の温かいお茶を作るためだった。
停電によって暖房が使えない時間が続いたため、居間はひんやりしていた。普通なら、ヨークの母親は雨で体を濡らした女性にタオルを手渡しながら、コートを脱ぐように言って、乾いたガウンか毛布でも貸しただろう。でもその夜、ヨークの母親はその訪問者にそういった世話を焼く必要はなかった。彼女の夫がその女性をひと目見て分かったように、彼女もまた、その女性の正体に気づいていた。それでもヨークの母親は熱い紅茶が入ったポットとカップを盆に入れて居間のテーブルまで運んだ。
「さあお茶をどうぞ。温かいものを召し上がって下さい」


そしてヨークの母親は彼女に紅茶を勧めた。女性はカップに手を伸ばして触れ、しばらくそうして指を温めていた。彼女がもう飲み物を飲むことができない身の上であることは承知していた。でももし彼女が、そのお茶から立ち上る湯気の温かさと豊かな香りとを知っていれば、それはイメージを通して彼女に伝わり、まるで本当にそれを飲んだときのように、彼女の体を温め、気持ちをリラックスさせるはずだった。
ヨークの両親もお茶を飲んだ。それから彼らはその女性が話し始めるのを黙って待った。ふたりは「広場」でもいつもそうしていた。話したいことがある人には、話すべきタイミングもあった。

「わたしはこの子を助け出すことができました」
やがて、やっと彼女は話し始めた。
「あるときわたしは妊娠しました。この子を産むために行くようにと言われた産院は山の上にあって、この子が外に出ようとしてお腹の中でもがいていた日も、こんなふうに月の見えない暗い夜のことでした。わたしは赤ん坊を産みました。わたしは誓約書を書いてから赤ん坊を産みました。そうすることがその産院で出産することの条件だったからです。誓約書には、赤ん坊は孤児院に入れる、赤ん坊を産んでもその子供には触らない、生涯会わない、行方も捜さないという条件が書かれていました。わたしはサインをしました。事情があって、そうするよりほかなかったからです。出産後、わたしは分娩室から病室に戻されました。病室でひとりになったとき、わたしはやはり子供を自分の手で育てたいと思いました。それでわたしは看護師をつかまえて訊きました。先生と話をしたい、どんなことでもするから、赤ん坊を自分のもとに返してもらいたいと言いました。看護師は少しも慌てず、先生に伝えておきましょう、と言いました。そして、あなたの赤ちゃんは少し具合が悪いので、落ち着くまで特別な処置をしていますと言いました。体力の回復のためにも、あなたもしっかり自分のベッドで休んでいるようにとも言われました。

その夜、山の上に嵐がやってきて、電気が止まってしまいました。ひとりの看護師がわたしの病室を訪れました。そしてわたしは恐ろしい報告を聞きました。赤ちゃんの体調が急変して、残念ながら天国へ旅立ってしまったのだと看護師は言いました。わたしはとても信じられませんでした。わたしは看護師に詰め寄り、食って掛かりました。でも看護師は顔色を変えずにこう言いました。あなた、一度は子供を手放すという条件を認めてサインをしましたね。赤ちゃんはそれを知って、絶望したのです。母親に自分のことは要らないと言われた赤ん坊は生きる気力を失ったのです。あなたのせいです。あなたが悪いのです。

そして看護師は、点滴を新しいものにつけ替えました。わたしはみるみる体に力が入らなくなり、ベッドに倒れ込みました。わたしは眠ってしまったようでした。目覚めてもわたしはどうしても看護師の言っていることを受け入れられませんでした。わたしは深夜になって、看護師の数が最も少なくなる時間まで待ちました。そして点滴の針を抜いて部屋を抜け出すと、わたしの赤ちゃんがいるはずの部屋を探し始めました。生まれたばかりの赤ん坊専用の部屋がどこかにあるはずだと思ったのです。
ところがその部屋はなかなか見つかりませんでした。病棟は薄暗く、非常灯の明かりだけを頼りにわたしは歩きました。そしてついにわたしは何も書かれていない白いドアを見つけました。それは病棟の渡り廊下を進んだ先にある場所で見つかりました。そのドアには鍵が掛かっていませんでした。ドアの隣に白いパネルがついていて、そこで赤いランプが点滅していましたが、それだけでした。わたしはドアを開け、部屋の中に入ってみました。部屋の中は廊下よりも更に暗く、とても寒い場所でした。わたしは部屋の奥に、透明のケースが置いてあるのを見つけました。ケースのすぐそばにオレンジ色の小さな電灯が一つついていて、その明かりが部屋の明るさのすべてでした。

わたしはケースに近づいて、中を覗き込みました。そこには裸の赤ん坊がひとり眠っていました。それほど土気色をした肌の赤ん坊をわたしは見たことがありませんでした。その赤ん坊のそばには紙ばさみが置いてありました。中にあった紙にはわたしの病室の番号が書いてありました。この赤ん坊こそがわたしが産んだ子供だと思いました。
わたしはケースに飛びつきました。ケースには二重に鍵が掛かっていました。わたしは何とかしてケースを開けようとしました。でも蓋を揺すっても、引っ張っても開きません。

わたしは髪につけていたピンを抜き取ると、それを使って鍵を開けました。そんなことはしたくありませんでした。わたしは若いころ泥棒だったのです。わたしは悪いことをして暮らしていました。泥棒は、生き伸びるためにやっていたことの、最初にした悪いことでした。わたしは蓋を開けました。するとケースの中から冷気が一斉に飛び出してきました。わたしは急いで赤ん坊を抱き上げました。赤ん坊の体は冷え切っていて、それが生きている人間の体温だとは思えないほどでした。肌にはわたしの手を押し返すような力がありませんでした。わたしはその体の冷たさと弱々しさに動揺し、次にカッとなって、体中の血が逆流したように感じました。赤ん坊はまだ死んでいないようでしたが、その体の感触は、赤ん坊がまもなく死んでしまうことをわたしに知らせていました」

第六話へつづく(毎週水曜日更新)

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