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命という器とお金という手段

命は大切。そして命はあくまでも器だと私は思う。

私という存在をとどめてくれる器。私という精神を保持してくれる器。私という肉体を機能してくれる器。

従って、「命は大切」というときに、私は盲目に発言をしたくないし、命は大切という命題を思考停止の要因にしたくない。なので、「命は大事だから、安楽死はだめ」とも考えてもないし、同調しない。また「命は大事じゃないので、安楽死したい」とも考えたこともないし、全く論理的ではないと思う。*安楽死や命に限らず、大方物事の視方は、二元論(良い悪い)に落とし込んだ瞬間に本質が見えなくなると思う。

<好きに蓋をしてお金を目的にしたら。。>

20代の頃、社会の「お荷物」(*勝手に私が思い込んでいたイメージ。定義は全くない。一般的に私以外の人には適用されない概念だと強く思っている。なぜなら私が勝手に作っていた概念だから)にだけはなってはいけないと、具体的なイメージはないくせに、漠然と思っていた。就職するにあたって、お金は絶対必要だと考えた。哲学や歴史が好きだったが、大学や周りの「成功している・しそうな」人からは「稼げない」と言われた。色々調べると若いうちから稼げそうな業種は「金融」や「コンサル」であることが分かった。いったん自分の「好き」に蓋をして、稼げることを目指した。

「自分の好き」を自由にやるためには、「勝ち組」になるしかないのだな、と漠然と思った。むしろ、「負け組」になってはいけない、と焦る気持ちが大きかったかもしれない。高学歴の人が集い、テキパキといきいきと働く周り。すごいな、と思うと同時に、皆「勝ち組」を目指すためにお金を稼いでいることを知った。なので、今に至るまで、哲学や歴史を好きだ、という金融業界やコンサルの人に「私は」会ったことがない。何故なら、彼らは「お金」や「勝ち組」が自分の「好き・生きがい」なので、仕事を懸命にするだけで生き生きしている。*断っておくが、全く批判はない。むしろ羨ましい。好きなことが仕事になっているのだから。本当に素晴らしいことだと思う。

自分の「好き」に蓋をし続けると、違和感が出てくる。一生懸命仕事をする、やりがいもある、知識も増える、お客様に頼られる、プロジェクトが成功する。。。

楽しい。確かに楽しい。

でも、気が付くと休日には図書館で大量の本を借りて読んでいる。どんなに残業して日付を超えても、歴史や哲学の本を読みたい。脳内が一人アマゾン状態で、次から次へと、仮定が生まれて、新しいトピックの本を読む。すると、「やっぱり関連していた!」と新たな発見が続き、嬉しくなる。仕事以上の充実感を感じる。翌日、前の夜眠れていないから、仕事が疲れる。大反省をして、読書を暫く封印する。するとまた本が読みたくなる。

<好きは身体と精神で感じられることだった>

「楽しい」けど、「好き」ではない仕事。激務に塗れていると、目が乾燥したり充血が治らなくなった。若いから大丈夫と放っておいたら、健康診断である指摘をされた。これはまた書きたいと思うが、検査の結論全く問題なかったものの、自分という存在が、肉体と精神が不可分である、ということを知った。私は、思考したり、〇〇がしたいと欲望したりすると同時に、それが可能な精神を担保する、健康な肉体が必要だと知った。

*20代の時インフルエンザに罹った冬、いつものように本を読みたい!とか焼肉食べたい!とは思えず、気持ち悪さが早く治ることだけを願った。思考が「できる」はずなのに、肉体が病の影響を受けて、いつもしている思考や欲望が「したい」とも思えなかった。

私にとって、健全(*1:これは今の私の状態を定義・基準とし、私に関する用語とする。他意は一切ない。以下、「健全」という言葉の定義はこれに準ずる)に思考をするためには健全な肉体が必要で、健全な肉体を保つためには、不可抗力な病気を除いて、健全な精神が必要だ。肉体は健全な精神を担保する手段。精神は健全な肉体を働かせる手段。「私」という存在は、どちらが欠けてもだめなのだ。

私という人間は、命という器の中に、この精神と肉体を包んで存在すると思う。もし私が、思考をしたい!欲望したい!と考えられる健全な精神があるのに、身体が不可抗力で動かなくなった時、どう思うだろうか。もし私が、周りに頼られる「大人」として、責任ある「社会人」として働けなくなり、周りの「介護」をお願いせざるを得なくなったらどう思うだろうか。私は子供はいないので、おそらく親や兄弟、親友になるのかもしれない。皆、「そんなの全く問題ない!介護するよ、一緒に生きよう」と言ってくれると思う(私は、病を発して不安を吐露した祖母に全く同じことを言った)。万が一そう言ってくれる人がいなかった場合、やはり私は、自分で生きていくため、莫大なお金が必要になるだろうし、稼ぐために生きるループに嵌る。場合によっては行政のセーフティーネットにお願いせざるを得なくなるかもしれない。

では、一般的にそれが許容されていて、家族も介護を喜んでする、と言ってくれたとしても、「私」はどう思うのか。「他者」や「社会」や「家族」ではなく、他の誰でもない「私」はどう思うのか。

<命は身体と精神の器:身体=精神。不可分なもの>

私は、命が大切だ。命という、私の健全な精神と肉体を包む器が。この器の中にある健全な肉体が失われた時、私はきっと思考することが難しくなると思う。それは脳機能や病理学的な話ではなく、「私」という人間を鑑みてだ。すなわち、私は、私が「好きな」ことを学び、私の周りの人と分かちあい、私の心を満たしてきたのは、この「身体」があってこそだからだ。身体が、今のように動かなくなった時、きっと私はこの身体を治すことに精神が囚われると思う。治ることが分かっている、インフルエンザの時でさえ、治るからあの本に書かれていたことを思考して気を紛らわせよう、なんて苦しくてできなかったし、あと2,3日で治ることが分かっていても、苦しい最中には思考も欲望もできなかった。

そんな私に、もし善意であっても死ぬ確率が高い苦しみに身体が囚われている時、「お願い、生きて」とか、「命は大切だよ、希望を捨てないで」(*注:これは全て死の際にある「私の」祖母に「私が」慰めのつもりで言った言葉。病で痛みに苦しむ私の祖母が、全く喜んでおらずむしろ子供ような悲しい顔をしていたことを思い出す)と言われても、きっと苦しいだけであろう。何故なら、やはり、「私」という人間が気持ち良く・心地よく、思考や欲望をするためには、健全(*1:これは今の私の状態を定義・基準とし、私に関する用語とする。他意は一切ない。以下、「健全」という言葉の定義はこれに準ずる)な身体が必要だから。なので、「私」は、不可抗力的に、身体や精神が健全(*1)に働かない、ということが分かり次第、「私」の意思で、「私」の人生を閉じるオプションを「私」に用意したい、と強く思う。

お金が目的になって、自分が楽しい人、生きがいになっている人に、私はなれない。何故なら、他に蓋をした好きなことがあるから。この好きなことを達成するために私は、「お金」を手段にしようと思った。「お金」を手段にすることは問題ないと思うが、私の場合、「好き」に蓋をしてお金を手段にしたことで、ある時、お金が目的になった。私の場合、お金の量に比例する「勝ち組」「負け組」という「私の」偏った固定観念から、多くのものを見過ごした。「自分の時間」だけでなく、自分の本当の「好き」も。私にとって、守りたいのは「私の好き」を満たせる、「今」という「私」の時間だ。お金はあくまでも手段だ。お金を手段に留める生き方をするためには、私の場合、お金の量に比例した「勝ち組」になることではなく、自分の「好き」を私の「勝ち組」基準にすることだった。そして、世間一般に儲からない「好き」である限り、やはり、私の人生を自分で決断するように、私の「死」を自分で決断できることは重要だった。

同じように、不可分の健全(*1)な精神と身体が包まれている、器としての命が私は大切だ。器の考え方や健全の考え方は人それぞれだと思う。そして、人それぞれであるべきだ。何故なら、精神も身体も他の誰でもない、「私」や「その人」が生きるものだから。「私」にとっては、「私の」命の器は、私という精神と肉体の手段だ。なので、この「私の命」という手段を目的にしたくない。そもそも「私」の目的はもっと深淵で静謐で、ひょっとしたら驚く程単純で、「私」にさえ未だに「不可知」なものだ。だからこそ、命は「私」の目的を「私が」見出す手段であるが故に、尊いのだし、「他人」に無法かつ無秩序に奪われるべきものではない、と強く思う。*同じように、私は、「自分の好き」を遂行するに当たっても、「他者の好き」を妨げないよう、法や秩序を順守したいと強く思う。そして法自体も「守りたい」と思える法であってほしいと選挙権を持つ国民として願っているし、国民主権の日本において、投票をしていきたい。それが国家でも司法でもない、国民が「法を守る」という精神だと思う。

ハイデガーの言葉:

“Language is the house of Being. In its home man dwells. Those who think and those who create with words are the guardians of this home. ”(言葉は存在の家である、人はそこに住まう。言葉と共に考え、創作する者は、この家を守る者である)*訳 by Hatoka Nezumi(Letter on Humanism)

私の存在は、家族でも、社会でも、個人的なつながりの中でもなく、私の言葉に宿るのだと思う。自分の言葉に、存在が宿っていなければ、他者には届かない。私が本当にその慰めの言葉に「宿って」発言しなかったからこそ、病で痛みに苦しむ私の祖母には届かなかったのだと思う。この存在の家(=言葉)に住まう時に、私は初めて家族や、社会や、個人同士の「つながり」を、居場所を得られるのかな、と思う。

命は大切、という言葉を発する時に、私の存在が宿っているか。私の存在が宿るためには、「命」を一般化することに逃げず、「私」にとっての命と真剣に向き合うことが肝要だと思う。


 

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