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民主主義でも自由でもなく・・

「 今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。」

1970年の市谷駐屯地で起こった三島事件の際、ある新聞記者に渡された最後の檄文にあった言葉。三島由紀夫さんの最後の言葉の一つだ。

彼の繊細さ、一生懸命さ、真っすぐさが伝わってくる。

右翼の誰であっても、左翼の誰であっても、個人的に、政治的な主義主張はとても苦手だ。だが、この檄文の言葉には、何故「政治的な主義主張」に人は拘りたくなるのか、というヒントが見える気がした。

三島由紀夫さんとの出会い

三島由紀夫さんについては、「過激な右翼」の方というイメージしかなかった。小中学生の頃、教科書で学んだ1970年の三島事件の内容も過激なもの、怖いという印象が強かった。

私は大学生になるまで、日本の小説を読んだことが殆どなかった。漫画や学術書、海外文学を専ら読み、日本文学には興味がなかった。(一度読んだある有名な方の小説が、(個人的に)あまり面白くなかったという理由もある)

フランスの大学に入学する前、父から、「フランス人の年配エリートは日本文学に詳しいから、芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫は、渡仏前に読んでおきなさい」と言われた。

芥川龍之介さんや川端康成さんは、教科書でいくつか作品を読んだことがあったので、三島由紀夫さんから読むことにした。図書館で、金閣寺仮面の告白の二冊を借りて読んだ。

最初は、子供の頃のイメージだけで過激なことを書いてらっしゃるのかな、と思って恐る恐る取り組んだ。すると、読み進めるにつれて、その繊細な文章と、人間の心への丁寧な考察と、その考察に基づいた生生しい人間の描き方、「右」も「左」もない複雑なその世界観に驚かされた。むしろ、描かれている人達が須らく皆、人間臭く、「神」臭く、物凄く哲学的だと思った。(*事実彼は、東大時代にドイツ哲学を学んでいる)

私が日本の文学を好きになったのは、三島さんのおかげだと思う。

完全に個人的な感想だが、其の後改めて読んだ川端康成さんも芥川龍之介さんも霞むほど、三島さんの筆力、表現力は並外れたものだと思った。事実、フランスで出会った日本文学に詳しい方たちは、皆、三島さんは天才だと言っていた。私も素直にそう思う。

三島さんの作品に対して、苦手・得意はあるかもしれない。私も、三島さんの作品に出てくる登場人物の誰に対しても「簡単に共感」出来ない。どちらかと言えば、登場人物は総じて「好きではない」。でも好き・嫌いを超越した、彼の人間を抉り出す表現力のすごさに、苦手であっても、共感できなくても、ただただ脱帽する。

今でも、私の一番好きな作家は三島由紀夫さんだ。

「右」と「左」はコインの表裏

三島さんの死ぬ直前、1960年代後半は、所謂学生運動真っ盛りの時代だ。

1968年10月の新宿騒乱(ベトナム反戦運動)から、1969年1月の東大全共闘らによる安田講堂事件へとピークアウトしていく。いずれも趣旨はともかく、実際に行われたことについて、私は個人的には支持できない。

それは、二つの意味でだ。①暴力や暴動行為で物事を変化させようとする姿勢は、理性や話し合いという人間にしかない手段を諦めている点、②若者対大人、右対左、という簡単な対立軸を作って、政府も学生も、それぞれ相手に通じない安易な問題提起に逃げているようにしか見えない点。

若者特有の至極個人的な「自己憐憫」を、国家という公共性に対して爆発させている方々も多々いるような印象だった。一方で、当時の日本政府を擁護したい訳でもない。日本で2020年現在も大きなイノベーションが起きないのは、こうした若者の声に向き合って、真摯に拾おうとしない癖やこの時のうやむやにする「成功体験」が権力側についたからかな、とも時々思う。

この安田講堂事件の後、三島由紀夫さんは東大の全共闘に招かれて、「右翼最高の知性と左翼最高の知性の対話」として、議論を交わしている。

その時に、三島さんは以下の発言をしている;

「・・安田講堂で全学連の諸君が立てこもった時に、天皇という言葉を一言彼らが言えば、私は喜んで一緒に閉じこもったであろうし、喜んで一緒にやったと思う。これは私はふざけて言っているんじゃない。常々言っていることである。」

これを聞いて、私は三島さんは、機知に富んでいると思った。当時のTHE「共産主義的」なタームである「連帯(solidarité)」表現を「右翼の代表者」である三島さんが発信しているのだ。

「天皇」という言葉を全共闘の学生(左翼)が言えば、三島さん(右翼)は「一緒に喜んで閉じこもった」と言っている。あの安田講堂事件の行為自体、三島さんは少なくともこの議論の時には、決して非難していない。

この三島さんの発言を聞いた時、私は右も左も、ターミノロジーが異なるだけで、内に籠ったエネルギーは似ているんだな、と感じた。少なくとも、三島さんは、そのターミノロジーさえ異なったが、エネルギー自体に共感と連帯を示している。

多分、右の反対は左ではない。右の裏が左であるだけなのだと思う。(左についてもVice Versa)

戦争世代文学に染みる敗戦という個人的事件

そんな複雑で、高尚な知性と機知を兼ね備えている三島さん。

私は三島文学に触れた後すぐに、疑問に思った。何故、三島さんはあんな最後を選択したのかと。

後期の彼の作品(憂国など)は、個人的な感想として、勿論文章は美しいのだが、複雑性が抜けてとてもシンプルになった印象がある。私が小中学校で学んだ三島事件の三島さんのイメージに嵌ってくる。彼の中に溢れる幾多の複雑性から逃げるように、単純な場所を探しているように感じた。

恐らく彼にとって安心できる、単純な場所が「日本」や「天皇」という彼が幼い頃から心を込めて、信じていたものだったのかもしれない。「日本」や「天皇」が敗戦直後に全否定されて、彼が死ぬまで25年間。彼の作品を読むと、三島さんは「戦後」の新たな自分を一生懸命形作ろうとして、もがいていたのかな、とも思う。恰も、他でもない三島さんが敗戦後に全否定されたかのように。

この当時の学生運動に代表される対立は、実はアメリカという勝利者を間にして、戦争を導いて来た「古い」世代と戦争に反対する「新しい」世代の世代間対立のように思う。それがたまたま「右」や「左」という分かり易い仮面を被っただけのように思う。

それほど、あの「戦争」が個々人の個人的な感情や心、魂に齎したものは大きいのだと思う。それをがむしゃらに、国家や政治や右や左に昇華して、整理しようと激しく躍動したのが、あの時代なのではないか。

過激になることは、単純になることに似ているのかもしれない。シンプルになることは、ある種その人にとって、メンタル上、良い意味の逃げになるのかもしれない。政治的に過激なことを言う・行うことは、裏を返せば、相手にとっても自分にとっても、頭と心で分かり易くなる。

「 今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。」(三島事件の檄文の一部(再掲))

豊穣の海の最終巻(第四巻)、天人五衰で、「清顕を知らない」と聡子に言わせた三島さん。三島さんの消え入りそうな言葉の儚い魂を感じた。私は、民主主義でも自由でもなく、三島さんに、そこにいてほしかった。そして、三島さんの複雑な物語をもっと読みたかった。

私はもがいている時の三島さんの文学が、本当に大好きだ。

How wonderful life is, while you are in the world. 


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