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「なんでもない」の正体

勤めている会社では、毎月自分で目標を立てそれを達成すると500円分のQUOカードがもらえる制度がある。
今月立てた目標は「noteの記事を二本以上書く」。
なので、500円のために、サクサク書いていこうと思う。

さて、表題の件。
これはスナップ写真について考える機会があって、そのなかに「なんでもない写真」というフレーズがあった。
この言葉に引っかかる自分がいた。

「なんでもない写真」と呼ばれている写真や、そう言う意味合いのタグ付けをされている写真を見てみると、

・被写体のいない写真
・「目的」なく撮った写真
 (そのへんで撮った、みたいな意味合い)
・ふと目に留まった、恣意のない写真

などを指すだろうと推測する。

撮影者の中から出てきた「なんでもない」という気持ちは確かにわからなくもないけれど、そのシャッターを切ったその先のモノにも、そこに「在る」意味があるし、その何気なく撮った撮影者の心にもなにか「ある」のではないだろうか。


不自然に見えるところに看板にも、誰かの道標になるようにと誰かが建てたものであるし、
不揃いに並んだ鉢植えも、幾年かけて家主があつめた大切ないのちたち。
レトロな磨りガラスも、期待と込めて持ち家を作るために誰かが選んだそれなのだ。
ただの「景色」のようで、そうじゃない。

そこにあるモノ/コトのストーリーを考えると、そんな景色たちを「なんでもない」とタグ付けるのはちょっとせつない。

そして、撮影者は、そのモノ/コトを見て何某かの感情が揺れ動いたから、シャッターを切った。


その日、その時間、その瞬間にあなたが居て、あなたの視線の先に撮りたいものがあった。

それって全然「なんでもなくない」と思う。

むしろ、その意図しないときに写真を撮りたくなったというその衝動そのものもあなたらしさであり、あなたらしい写真なのでは、とも思う。

こう思ったきっかけは、従姉妹と一緒に歩いている時の一言だ。
私が高架下にいい影ができているのを見つけて「ちょっと立ち止まっていい?」と声をかけシャッターを切ったあと「すごいね」と言われた。

私の中では日常的な場面であり、特にカメラ友だちと出かけるとこんな時間ばかり過ごしてから、全然すごくはないと思ったのだけど、「良いと思う瞬間を見つけられるのがすごい」のだ、と伝えてくれた。

確かに、それを"わざわざ写真で残そうと思う人"ってそんなにいないのかもしれない。と、思った。

何気ない一言で、私は写真という表現行為が好きな人間であると教えてもらえたのだ。



改めて「なんでもない」を使いたい人の気持ちを考える。


たぶん、ちょっとこわくて恥ずかしいんだろう。


調べなくても素敵な写真が目に飛び込んでくるSNS社会に生きていると、つい比べて、上手い人との差ばかり気にしてしまう。
自分に足りないものばかり求めてしまう。

だから、"うまく撮れた"と思うものが撮れるまで、それ以外に意味を与えるのが怖くなってしまうのではないだろうか。

「なんでもない」の正体は、剥き出しになりそうな自分を守るための鎧みたいなものなのかもしれない。
それと同時に、いちいち意味付けせず、評価の海から解放されるための御守りでもあるのかもしれない。

「別に狙って撮ったわけじゃないからね」と。たまたま撮れちゃった「なんでもない」写真なんだよ、と。

でも、そんな鎧は必要ないと言いたい。

そもそも、日常から撮ること/残すことを意識して生きている人がどれくらいいるだろう。
実はそんなにいないのかもしれない。
居たとしても、結局、あなたの撮りたい写真はあなたにしか撮れないんだから、比べる必要もないことだと思う。

だから、胸を張って伝えてほしい。

これが「私の見つけた愛すべき世界」だと。


余談

写真×なんでもない、といえばコハラタケルさんの
#なんでもないただの道が好き というハッシュタグを見かけたり、SNSの投稿で引用したりしたことのある人は少なくないのではなかろうか。

このタグをつくられた経緯は、
日々を編むなかで、絶景でなくてもただの道も
あなたといれば最高のシチュエーションなんだというメッセージと共にある。(かなり意訳しているのでコハラさんのInstagramを見てほしい)
撮り手も被写体もすべてを包み込む素敵な「意図」を持った言葉だ。

同じ「なんでもない」なのに意味は真逆で面白い。
そして、とても共感できたし、そういう想いを言葉に乗せられるのって簡単なことではないから、すごいなと思う。

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