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おじいちゃんのシャツ


私は古着が好きだ。
店頭に並ぶ、新しい流行やそれぞれのブランドのアイデンティティを背負った洋服も嫌いではないが、荷が重く感じるときがある。私に似合うように作られてないな、と感じるのだ。
きっと自分より何千倍も素敵で似合う体型の人がいる。同じ服を着たその人と会ってしまうようなことがあれば、私は勝手に比べて、勝手に落ち込んでしまうだろう。
要は、誰かと比べられるのがこわいのだ。

理想の体型に近づく努力もせず、お菓子を好きなだけ貪り食べ、ずんぐりむっくり生きてきた自分の惰性に目を向けないための言い訳、もしくは世の中から求められる<標準>という型にハメられてたまるかという小さな反抗心だったかもしれない。

いずれにしても、こうして世界からちょっぴり距離を置いた自分にぴたりとハマったのが、古着である。

古着はいい。
過去に量産され消費されてきたものだろうけど、この現代においては比べられることがないという解放感。

海を、時間を飛び越え辿り着いてきた古着たちの、色味や柄の面白さ。トラッドな形も大好きだ。現代ものとの"ずれ"が私にとってはこの上なく心地良い。

面白い柄・形に会えたとき、袖を通してサイズが合おうものならもうそれは運命だ。
素敵な洋服に出会えたことで、買った日も、それを着る日もルンルンだ。大好きな友人に「似合う」と言われたらもっともっと幸せだ。

数は多くないけれど、持っているものはどれも大事で特別。それが私にとっての古着である。


そんな古着の中で、特に大切な一枚がある。
私のおじいちゃんがかつて着ていたシャツだ。

中学2年の頃に亡くなった祖父の洋服は、全て祖母がコーディネートしていた。
和・洋裁師をしていた祖母はおしゃれでセンスと自信に溢れている。
ハンサムな祖父に似合う服を選ぶを選ぶのはさぞ楽しかったろう。

祖母が仕立てた背広
左が祖父

そんな祖父に選んだシャツ。
亡くなった後もクローゼットに眠っており、父や叔父に引き取られず佇んでいたところを見つけて、祖母に頼んで譲ってもらった一枚だ。
このシャツは祖母が仕立てたものではなく、海外旅行の際に購入したものらしかった。

これがそのシャツ
(たこやこさんが撮ってくれた一枚)

一目惚れした、渋かっこいいおじいちゃんのシャツ。
私にはオーバーサイズだけれど、似合う人間になってみせるぞと着こなしを色々と考えるその行為ごと愉しい。

ここぞ、という時に着ていくが、その「ここぞ」とは、女友達と思い切りお洒落をして楽しむ日だったり、一人で自分のためだけに過ごす一日だったりと、
彼女、妻、母、みたいな肩書きがつく日を避けている。
これは、家族でいるときはコーディネートのバランスを考えたいので、意図的にしていることである。
今の自分には家族はなくてはならない存在だけど、たまに「私」だけの時間を作るようにしている(夫にも同じくその時間を設けてる)ので、その切り替えのスイッチとして古着が大いに役立ってくれている。

おじいちゃんのシャツを始め、
数々の古着たちは学生時代、未婚時代に比べたら着用頻度は減ったけれど、だからこそ大切な存在だ。


さて、そもそもの話。
なぜ古着の話をしたかというと、先日高校の先輩と遊んだ際、このシャツを着て、同じくお気に入りの古着を着ていた先輩と古着の話で盛り上がったから。
先輩にとって。とても良い古着との出会いがあったという話を聞いて、胸に込み上げてくるものがあったので書いた次第である。

後日、一緒に先輩のおすすめの古着屋さんのポップアップに行って久しぶりに自分用に古着を買ったのはまた別の話。


その日もやっぱり、古着は「私」を謳歌するのに必要不可欠だと再認識。

だってこんなに心が踊るのだもの。

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