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黛灰に与えられた選択

先日、5月20日、我々は一つの選択をした。

気持ちの整理がある程度ついた今、今一度あの選択が成してしまった事を考えたい。

昨年のエイプリルフールに遡る。

「敷かれたレールの上」
タイトルに「黛灰」の文字は無かった。
ゲームは至ってシンプル、指示厨のナレーターが居て、それに従うも従わないも自由という物。

この配信で、黛はうっすらと画面の中央に、ちょうどディスプレイに反射するような形でいた。恐らくゲームプレイヤーだろう。
黛は、終始無言のまま物語の筋道通りに動いた。
ゲームの中でプレイヤーは、自分自身がかかっていたマインドコントロールの施設を破壊して、晴れて自由の身となり終わった。

破壊までが筋書きの物語からは逃れられていない。

それから、黛の3Dで「黛はどこにも存在しない」と宣言されたり、
師匠が「黛を現実へ出そう」と協力を求めてきた件などあったが、この辺りに関しては黛灰の非公式Wikiを参照してほしい。

そして、物語は今年のエイプリルフール。
師匠は「一ヶ月後に選択を与える」と言った。
黛灰を現世に解き放つか、
黛灰を空虚なプログラムとしていつまでも手元に置くのか。

「黛灰自身に選択をする権利はないのか」
リスナーの一人が言った。

「黛がどうしたい/どうされたいはストーリーで決まっている事だから、そのストーリーを変えて影響をもたらさなければいけない」
師匠はそう答えた。

そして次の選択は5/20

ではない。

5/4 ICEY

ICEYとは、指示厨(下野紘)に従うも従わないも自由というゲーム。
どこかで聞いたことがある。
この配信では、黛は普通にゲームを楽しんだ。
大多数のプレイヤーがそうするように、指示厨に反逆をして、指示厨の反応を楽しんだ。

5/20 .

我々は野老山を殺し、黛を壊した


ここまでが物語にあった「選択」だ。

聡明な方なら気づいたかもしれない。

2020/4/1に行われた、物語の脚本通りに進むゲーム。

3Dお披露目にて
"2020/4/1" IS... ARE YOU ENJOYING IT?
NOT A LIE THAT'S SAD...
とあったので、この配信も師匠の仕業と断定。

これは
「黛灰は物語の筋書き通り進むことしかできない」
という事を示したかった物だと思われる。

この補強をしたのが、2021/4/1の師匠の発言
「黛がどうしたい/どうされたいはストーリーで決まっている事」
という言葉なのだろう。

だが、実際はどうだ。

2021/5/14、ICEYにて、黛は、自分の意思で指示者に叛逆をした。
黛は、物語の筋道から外れて、まだ見ぬ道へ進んだのだ。
同じように、選択をテーマにしたゲームで。

本来、彼がどうあるべきかは、彼が決めるべきだ。

彼には選択をするだけの自我があった。

物語の筋道から外れるだけの自我があった。

黛灰には自由意志があった。

我々に選択をする権利は無かったはずだ。

野老山の言葉が響く。

「選択をしない事を選べるのは、選択を与えられた君たちだけだ。」

「もし君たちが、本当に彼に選択を与えたいなら、君たちは選ぶべきではない。」

我々は、存在していた黛の「選択する権利」を奪い取り、私利私欲に塗れた選択を、「黛灰のため」という大義名分で包んでいただけに過ぎなかった。

その結果、恩師を失った黛は我々の前から消えた。

私は、ここに至るまでは、「黛の感情を蔑ろにしてしまった。」という罪悪感に満たされていた。
しかしその一方で、「自分の意思を持たない彼に選択を委ねる」という行為が何を生むのか想定がつかず、であれば想定可能な方を選ぼうとした節もあった。

現実はどうだ。

「センタクヲウバイカエセ」
なんて誰の言葉かもわからぬ物に心躍らせ、
彼にはとっくに存在していた「意志」をないがしろにし、
彼の選択肢を奪い、
私利私欲に塗れた選択を、まるで大義かのように首元に振りかざした。

これが、コンテンツでなくなった彼に気づかず、いつまでもコンテンツとして扱ってきた我々に返ってきたツケだ。

呪いは続くよどこまでも。

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