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声の行方

 これはもう性分としか言いようがないのだが、わたしは声が小さい。

 今、「え?そうかな?」と感じた人はおそらく、わたしの友達なのだと思う。
 そう、わたしは気心の知れた相手だとそうでもないのだが、初対面や職場の相手だと途端に声が小さくなる“典型的なタイプ”なのだ。
 
 声は自信の表れなのかもしれない。
 気をつけているつもりでも、職場で自信のない事柄を聞かれると無意識に言葉のお尻が小さくなっていく。

 前職は接客業ではなかったが、電話対応に力を入れている会社だった。社員全員が定期的に受けなければならない電話研修があり、それがとにかく憂鬱だった。
 思えばそこでも、「対応は丁寧なんだけれど、もう少し声を大きめにね」と言われた記憶がある。
 確かに、ボソボソ声の人より、ハキハキ話す人の方が一般的には好感度が高いし、社会的信頼度もアップする気がする。気がする、なんて言い方をするのは、多少の意地というか、やはりコンプレックスなのかもしれない。

 これはまた別の話だけれど、小学校の頃、担任の先生が母に「りんかちゃんは、答えが分かっているのに手を挙げないんです。たぶん、間違うのがいやなんだと思います」と話していたらしい。
 母からその伝聞を受けた時は、あまりにも図星だったので、なんとも言えない複雑な心境になった。

 声が小さくなるのは、自信がないから。自信がないのは、間違えたくないから。

 三つ子の魂百までとはよく言ったもので(この場合は小学生だけれど)、幼い頃の価値観や性質が大人になっても未だこびりついているのだから、厄介なものだ。
 自覚しても、なかなか直すことができない。

 この年齢になっても直らない短所というのは、短所と自覚していながらも、「直さなくてもここまで生きてこられた実績」がある為、ややこしい。
 まあ、ある意味では、直さなくてもいいか、と心のどこかで胡坐をかいているのかもしれない。

◇◇◇

 声の小ささで損をすることは、数えだしたらキリがない。
 けれど、その中でも普通に嫌なのはやはり「会話中に相手に何も聞こえてない」状態が発生することだ。
 それは、相手がうまく聞き取れず「え?今なんて言った?」と聞き返されることではない。
 
 出来ればそれも避けたいところだが、その更に上の段階、そもそも相手にわたしの音声が全く届いていないのだ。
 つまり、わたしの発した言葉に相手の応答がない、というケースがままある。

 それが重要な会話や質問であれば、「あれ?聞こえなかったのかな」とめげずに再度同じ言葉をかけるのだが、中途半端にどうでも良い内容だと少々悩む。
 たとえば「今日暑いね」とか「天気いいね」とか、そんなようなもの。
こういった内容だと、そもそも聞こえていないのか、または聞こえた上で返事がないのか判断に困る。

 聞こえていなければ、改めて言い直しても良いけれど、もし聞こえていたのであれば、あえて返事をするに値しないと相手が判断をしたのにも関わらず、二度同じ内容を話しかけてしまうことになる。
 それはつまり返事を強要することになるし、「え、なんだこいつ」と思われかねない。相手にとっては、非常に鬱陶しいのではないだろうか。

 そう思うと、聞こえていなかったのであろうと、万が一聞こえていた場合のことを考えてしまい、改めて言い直す気にはならない。
 それに、話しても話さなくても同じくらい、どうでも良い内容なのだ。

 結果、その言葉を相手に届けることは諦めて、「なかったもの」にする。

 それが、その言葉にとって不憫な気がして、自分の中の間を持たせる為に「ふぅ」とか「うーん」とか、謎の音声を小さく発して、「今のは独り言ですよ」というポーズを取り繕うのだ。

 そこに至るまで、おそらく、数秒。そもそも初めから相手に聞こえていないのであれば、本当に意味のない行為だ。まさに、独り相撲である。

 そういうことが割と多いので、自然と「届かなかった声」について考えるようになった。
 何も、大それたことではない。わたしが発して、相手に届かなかった声は、わたしの判断によって「なかったもの」とされる。

 けれど、「なかったもの」にされた声たちだって、確かに存在したはずで、じゃあその声たちは一体何処へ行くのだろうか。

 そんなことをぼんやりと考えるようになった。

 声は、目には見えない。形には残らないから、一度言ったことは録音でもしていない限り、相手の記憶にしか残せない。
 それが文字でのコミュニケーションとの大きな違いだ。
 残らないから、「なかったもの」にされても、きっと誰にも気づかれないまま何処かへ消えて行く。

 もし、声が目に見えるものになったらどうだろう。
 
 たとえば、そうだな。
 漫画みたいに吹き出しが出るのでもいいし、お洒落なミュージックビデオみたいに、文字がふわふわと周囲に浮かぶのもいいかもしれない。
 とにかく、なんらかの形で、声が目に見えるようになったら。

 まさに“会話のキャッチボール”という言葉のように、ポンと投げたり、そっと渡したりするのかもしれない。そんな世界があったら。

 そうすれば、聞こえなかった声たちも、しばらくはわたしの周囲にぷかぷかと浮いて滞在するのではないだろうか。
 きっとそれらを、そっと身体の近くに手繰り寄せて、相手からよく見えるような位置に置いてみるかもしれない。
 二度同じことを言わなくても、気づいてもらえるように、さりげなくアピールしてみるのかもしれない。


 そんなことを考えたところで、「それでも気づいてもらえなかったらどうしよう」と思った。
 多分、声が可視化されたら、きっと声の大きさもそれに比例するだろうし、わたしの声はきっと小さくて読めないかもしれない。
 だから、そんな世界があったとしても、きっと同じようなことは起きるのだろう。

 そうした時に、わたしは多分、気づかれなかった声たちを、慎重にそうっと掴んで、くしゃっと小さく丸めて、静かにカバンの中に仕舞う気がする。

 そして、家に帰ってゴミ箱に捨てるのだろうな。


 空想ですらバッドエンドを迎えてしまう、己の根暗さに辟易する。
 いや、しかしこれは、厳密に言えばバッドエンドではないのかもしれない。
 声が可視化されてゴミ箱に捨てるよりは、目に見えない状態でどこへ消えたかもわからない方が幾分ましなのだと思える。

 思えば、声と違って、文字とは目に見えてしまうから、0か100しかないのだ。あるものとないものの差が激しい。
 書いていないものは、書いていない。だから、「いや、聞こえてなかったかもしれないけど、確かに言ったからね」とは言えないのだ。

 もしくは、文字も声のように形に残らず消えてしまうものであれば。

 この文章たちも自由気ままに何処かへ行って仕舞えば、この話にオチがなくても「消えちゃった」と言えるのかもしれない。




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