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【小話】救済と云う名の

 ほんとうはその日、何もかもを終わりにしようと思っていた。

 蒸し暑い夏の日のことだった。病院の帰り道に、いつものように近所のスーパーへ寄った。買えるものも大してないのだけれど、冷房の効いた店内を徘徊しながら陳列された商品を見ていると気がまぎれる。

 珍しく、一輪の花が目に留まった。黄色の薔薇だった。まだ開ききっていない花弁が幾重にも重なった姿は、慎ましく、けれども凛とした佇まいだった。

 花など久しく触れていなかったけれど、その日は何故かその黄色の薔薇がいっとう美しく思えたので、私はポケットから小銭をじゃらりと手のひらに出して、それを迎え入れることにした。


 帰宅すると、屋外よりも湿気を含んだ忌々しい熱が身体中にまとわりつく。築50年のアパートだ。家賃が安いという理由だけで選んだ家。
 薔薇の花を飾るような暮らしはしていなかった。
 裸足で畳を踏みしめると、みしりと音がする。いつもは気にもしていないことだったが、薔薇の花を持った私にはその音が急に不快に思えた。

 花瓶などといった気の利いたものはないので、台所に転がり落ちている酒瓶を使うことにした。
 アルコールは花を弱らせてしまう気がして、念入りに流しで瓶を洗う。蛇口から弱々しくぬるい水が出て、手のひらをつたう。その間、薔薇は小さなシンクの横でじっと私を見つめているかのように沈黙していた。

 赤胴色の瓶の中に、薔薇の花を無造作に挿しこんだ。その姿を見るなり、私は心臓を小さなマチ針で突かれたような心地に襲われた。

「ああ、本当は今日死ぬつもりだったのに。君を見つけたのは誤算だった」

 小さな部屋に、歯切れの悪い小さな声が千切れて消えていった。薔薇は変わらず沈黙していた。

 この薔薇が散ったら、私の人生も終わりにしよう。

 私はもうずっと前から、生きることに向いていないのだと気が付いていた。

 一言で括ってしまえば、私は売れない画家だった。
 藝術大学を卒業し、小さな企業に勤めたこともあったが、どうにも社会との折が合わず数年で投げ出し、職を持たない身となった。
 はじめは他の職業に就くことを考え、職安にも通ったが、やがて私の欲するものは自らの内にしか存在していないことを悟り、それも辞めた。

 それからは、元来の夢であった画家を目指す
毎日を過ごした。
 公募の為に作品を描き、作品を描く為に必要な分だけ働く。定職には就かず、その日暮らしで生計を立てていた。
 元々、人付き合いが苦手だったこともあって、頻繁に連絡を取るような友人はいなかった。
 それでもいいと思っていた。勉強会とは名ばかりの、やれ展示会だ、やれ入賞だなどと言った自慢で溢れかえった飲みの席に呼ばれるのも面倒だったから。

 いや、違う。私は、なかなか評価されない自分の力量を突きつけられたような気がして、憂鬱だったのだ。
 最初から友人がいないわけではなかった。絵画の道で大成するか、きちんとした会社で全うに働くか、二つに一つしかなかった。

 20代半ばとなり、それぞれが自分の人生を歩んでいた。私は卑屈になって、目を背けることしかできなかった。そうすることでしか自分を守る術を持たなかった。

 それでも諦めずに、まるで孤独と抱擁をするかの如く、私は絵を描き続けた。
 そうしていると数年前、小さな賞を受賞した。同級生に自慢できるような立派なものでは決してなかったが、それでも私にとっては自分を認めてくれた人がいることが嬉しかった。

 遠方に暮らす母や妹には報せた。賞金には手をつけられなかった。

◇ 
 
 薔薇の花の世話といっても、大層なことはしなかった。
 ただ、毎日水を取り替えて、少しずつ茎を鋏で切って短くしていくだけ。
 けれど、薔薇の花を台所に置いたり、窓辺に置いたり、テーブルに置いたりと、色々な場所に飾ってそっと眺めた。
 薔薇には意思なんてないはずなのに、柔らかい日差しを浴びている瞬間はとても心地良さそうだった。
 その姿を見ていると、古ぼけたいつかの記憶と重なった。

「ああ、きみは、あれに似ているな……」

 私は薔薇の花の世話をするうちに、千秋という女を思い出していた。

 千秋は、私の貯金がまだ底をつく前に雇っていた絵画モデルだ。
 学生時代に通っていた画塾の娘で、随分と美しい女だった。
 濡れたような艶の良い黒髪と、長い睫毛に縁取られた三白眼気味の大きな目が特徴的で、一見冷たいような風貌はその実、見つめれば見つめるほど目が離せなくなるような不思議な魅力があった。

 その頃歳19であった千秋は私のことを「先生」と呼び、少女のように無邪気な笑顔を見せたかと思えば、しばらく黙って物憂げに窓枠に頬杖をつき、私を困惑させた。
 妹はいるけれど、あれはとてもうるさくて、彼女とは似ても似つかない。千秋は私の知る「年下の少女」とはまるっきり違っていたのだ。
 私には千秋の考えていることはもちろん、彼女の正体というものを少しも理解できていなかった。
 それでも、彼女がいるだけで、この古びたアパートもいくらかましに見えたし、私も今よりはいくらかまともだった。

 千秋との時間はそう長くは続かなかった。私の作品は、箸にも棒にもかからなかった。
 金もなくなり、これ以上千秋を雇うことができなくなった私は、その旨を彼女に話した。
 すると千秋はしばらく沈黙したのち、「先生、お元気で」と言い、それきり姿を現すことはなかった。
 あっけないものだった。

 千秋の去った部屋はがらんどうのようだった。けれど、私には彼女を呼び戻す気概も金も持ち合わせていなかったので、一人で寝酒を煽る毎日をやり過ごした。

 それからの記憶はあまりない。多分、記憶に残るほどのことをしていなかったから。手入れされていた絵筆は放置されることが多くなった。

 度々、遠方に暮らす母親と妹から心配の便りが届いたが、それに返すのすら億劫になっていた。
 私には絵を描くことはもちろん、生きることすべてにおいて既にやる気がなくなっていた。

 明日は、明日こそは死んでやると思いながら、惰性のように日々を消費していた。

 けれど、一つだけ気がかりがあった。
 それは、千秋だ。彼女とはあれきり会っていないが、彼女がこの部屋を出る時、なにやら不可解なことを訊かれた。
 記憶が曖昧で、彼女がどんな顔をしていたかは覚えていない。
 でも、確かに言っていた。

「……先生。救済と傲慢、どちらがお好きですか」

 私はその問いに、答えられなかった。
 あれは、なんだったのか。

 薔薇の花は意外にも長生きだった。
 私の記憶では、花というものは買ってもすぐに枯れてしまうものだったから。

 ある夜、私は就寝後に目が覚めてしまった。

 夜中に何度か起きてしまうことはこれまでもあったけれど、その日は何故かいつもと違う心地がした。

 ふと気になって窓の方に目をやると、そこには薔薇の花がそれはもう立派に咲き誇っていた。
 まっすぐと重力に逆らい、よく開いた花弁は鳥が羽を広げる時のそれと似ている。

 ああ、なんということだろう。私は、身体を震わせた。

 月明かりを全身に浴びて、爛々と輝くその姿に明日はないのだと悟った。
 その姿は今まで見てきた彼女の中で一番美しく、一番悲しかった。

 私は、いてもたってもいられず、慌ててたんすの下から二段目の引き出しに手を伸ばす。この場所は秘密の場所だった。
 そこには、これまで密かに貯めておいた睡眠薬が大量に眠っている。いつか、これを飲んで死ぬつもりだった。
 それが、今のような気がしたのだ。
 けれど、ぐっと力を入れて引き出しを開けると、睡眠薬が忽然と姿を消していた。
 代わりに予想もしていないものが目に飛び込んできた。
 それは、綺麗に糊付けされた真っ白な封筒だった。

「なんだこれは、」

 今まさにこの人生を終わらせようとしていたのに、肝心の薬がなければ、どうしようもない。
 興を削がれた気分になった私は、半ば投げやりにその封筒を宙にかざした。
 全く身に覚えのない封筒だった。宛名も何も書かれていないので、気味が悪い。そっと指の腹でなぞる。

 不信に思いながらも、同時に妙な高揚感が胸を襲う。どきどきと心臓がうるさい。脈が速くなっていくのがわかる。
 多分私は、封筒の中身がなんなのか、誰がここに仕舞ったのか、心の奥底で気づいていた。

 私はそれを開けずにはいられなかった。

 糊付けされた部分を乱暴に剥がすと、封筒が破けてしまった。しかし、今はそんなことなどどうでもよかった。
 中には数枚の手紙が入っている。ごくりと生唾を呑む音が静かな部屋に響き渡った。

 小さくも行儀よく並んだその文字は、こう始まった。

「先生、この手紙は傲慢です」

 傲慢、どこかで聞いた言葉だ。数秒後、あの日の記憶が蘇る。
 そうだ、傲慢とは彼女がーー千秋がこの部屋を去る時に私に投げかけた言葉だ。

「先生は、きっとお答えにならないだろうと思ったから。
 救済なんて柄じゃないですし……失礼だったかしら?
 とにかく、傲慢ですから、受け取っていただかなくても結構です。

 先生、あなたは狡い人です。私は、あなたのことがずっと嫌いだった。
 私の父が経営する教室にあなたが通っていた頃から。

 私は、あの頃とても鬱屈としていて、この人生に嫌気が差していました。
 私には父のような芸術の才はなかったし、兄や姉と違って大した学もありませんでした。
 末っ子が一番可愛がられるなんて嘘です。私など、いてもいなくても同じでしたから。

 初めて先生に会った日、あなたと私はどこか似ているような気がしました。
 生に執着がない。いつも何かを諦めている。そういうところが同じだと。

 けれど、教室に通い、真剣に絵筆を走らせるあなたを見ているうちにそれは見当違いだったことを悟りました。

 あなたは誰よりも人生に期待していたし、必死に足掻いていた。
 正直、がっかりしました。でも、同時に私はあなたから目が離せなくなっていた。
 狡いですね。私はあなたに嫉妬していたのかもしれません。

 絵画のモデルなんて、退屈だし本当は嫌いです。
 でも私はあなたに描かれている時だけは、自分を価値のある人間だと錯覚できたのです。

 先生、この手紙を読んでいるということは、きっとこの人生に期待することを終わりにしようとしているのですね。
 あなたはやっぱり狡い人です。

 先生、私はあなたの人生を背負うことはできません。あなたが苦しくても、その痛みを取り除くことはできないし、いつもそばで背中をさすることもできません。所詮、そんなものです。

 でも、私はあなたに期待をすることで、この命が惜しいと思えたのです。

 だから、簡単に終わりにしないでください。あなたが幸せにならなければ、私が報われないじゃありませんか。」

 手紙は、あの小さくて美しい彼女が書いたとは思えないほどに随分と感情的で、まさに傲慢という言葉がよく似合っていた。
 私は彼女が去り際に問うて来た言葉の真意を理解したような気がした。
 視界が滲んで、ぼやける。
 これほどまでに乱暴でわがままで、優しくて不器用な手紙をもらったのは初めてだったから。

 その夜、私は年甲斐もなく大声をあげて泣いた。

 もうすべて諦めたはずなのに、涙が出るのはどうしてだろう。

 隣人が鍵を閉める音で目を覚ます。
 いつの間にか空は明るくなっていて、私はあのまま眠っていたことを知る。

 はっとして窓際に視線をやると、やはり薔薇の花は散っていた。
 昨日の姿が彼女にとって最期だったのだ。
 不思議と悲しくはなかった。

 私は、急いでたんすの引き出しの上から三段目に手をかける。
 この中には、手をつけられていなかった賞金が仕舞われている。

 万札を乱暴に掴みポケットに入れ、家の扉を開けた。
 早く、出かけなくては。
 あの薔薇の花の姿が脳裏に焼き付いているうちに。

 ちょうど、黄色の絵の具を切らしていたから。


「追伸
 先生、最近美しいと思えるものに出会いましたか。
 出会ったのであれば、あなたはまだこの人生に期待をしているのだと思います。
 生意気なのは承知していますが、もし良ければ、それを絵葉書にして私に送ってはくれませんか。」



この作品は、2021年11月23日に開催された文学フリマ東京にて、購入者特典として配布した短編です。


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