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絶不調コンディションで記憶の連続を思う

今日はわりと大事な日だというのに、昨日からホルモンバランスが乱れ、そこにトドメを刺すかのように少し落ち込むことがあり、精神状態が崩れに崩れた。

朝方には、どこから見つけてきたのかと聞きたくなるほど、わたし自身も忘れていた"わたしの生きづらさ"の根源を作った幼い頃の嫌な記憶を夢に見た。

ささくれ立った気持ちで朝ごはんを食べていると、恋人がもずく酢を出してきた。
食べなよということらしい。
箸でちまちまと口に運ぶと、「汁まで飲むんだよ」と声をかけられる。
思い切って容器を傾けると、とろっとした食感が喉を包む。
酸っぱくてこめかみあたりがきゅっとなる。

わたしは、小学生の頃、学校を休んだ日の午前中を思い出した。
ここは平和だという安心感と、妙にそわそわとした気持ちが同居しているような、あの感覚。


どうしても不調なので、こういう時は何もするまいと思えど、いつも綺麗でいる必要もないかもしれないと思ったのでnoteを書く。(そもそも平常時もとくに綺麗ではないけれど。)

ツイッターで、"記憶とは連続したもの"という投稿を見た。


この考え方が、とても新鮮で、同時にひどく納得した。

確かにそうなのだ。3歳の記憶も、今はもうほとんどないけれど、きっと4歳の自分は3歳の記憶と繋がっている。
そうしてずっと続いて、今の自分があるのだ。

自分では覚えていなくても、今の自分を形作るような大切な記憶が遥か昔にあったのかもしれない。

わたしは自らの人生にあった出来事や、それらを取り巻く感情や空気、温度や匂い、記憶をいつも結構愛している。

だから、エッセイを書くのが好きだ。風に乗って朧げな記憶がやってくることもあるし、過去の自分に会いに行くような気持ちで記憶の戸棚を少し開けてみることもある。
でも、そういう記憶よりも、もっと純粋で原始的な思い出せないような記憶があるのだろう。
それって、夢のある話だし、一方でどこまでも無慈悲だ。

わたしの人生は映画や小説みたいに素敵じゃない。 
たまに落ち込むけれど、そんな記憶の連続が、自分を作っている。

この文章を書いているいま、妙にクーラーが効いてすこしお腹が冷えてきりきりと痛むことも、昨日からずっと悩んでいることも、何もかも、きっとすぐに忘れてしまうのだろう。

でも、今日の記憶が明日のわたしを作っている。
そう思うと、嬉しいような、苦しいような、逃げ出したくなるような心地だった。




 


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