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「何故私は『他人』としての女の子を描くのか?」2023年10月18日

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恐怖


キャラクターの女の子をモチーフにした絵を描くことが怖い。
彼女の背後に見るに絶えないおぞましい何かが隠れているような気がしてならない。それは私が見たくない、自身の醜さや愚かさなど、負と形容することが出来る全てである。しかし、あくまでも「気がする」であり、隠された何かを暴いても、結局は何も無かったというオチもあり得るかもしれない。


《習作_1》2023 / S30号カンヴァス2枚、アクリル絵具

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理由


女の子は単なるモチーフでしか無いのに、何故私はそこに自身のことを見出し、恐怖するのだろうか。

まず挙げられるのは、描くことで生じる強迫観念である。一枚の絵を描くのに約一週間の期間を設ける。下絵で描いた一人の女の子に昼夜を問わず向き合う。彼女の輪郭を成す線と塗り、筆を画布に置いて動かす一瞬々々の全てに神経を注ぎ集中する。彼女の表層を構成するのは絵の具でしかないが、私は自身の魂、生命そのものであると捉えている。私はそれを保つために、無下にせず最後まで向き合いながら絵を完成させなければならない。強迫観念にまで陥るのであれば、始めから描かなければいいと思えるかもしれないが、何も作らないことは自身の存在そのものを否定することに等しい。自身の存在を肯定するためであれば、強迫観念に陥ることも厭わないと思わなければならない。

次に挙げられるのは、モチーフとする女の子の不明瞭性。私が描く女の子は大きな目や丸い輪郭、デフォルメされた髪など、「萌え」と呼ばれている俗語の要素を意識している。「萌え」は時代や受け手により捉え方が異なる曖昧な言葉だが、私はキャラクターに対する愛着や好意が根底にあると考える。また「萌え」は性的な要素を含まないと言い切りたいが、その根底には吾妻ひでおや蛭児神建が中心となったロリコン・ファンジン『シベール』や、宮崎駿が監督を務めた『ルパン三世 カリオストロの城』によるロリコンブームなどがある以上、性の問題と切り離すことは難しい。また、東浩紀は『動物化するポストモダン』にて「デ・ジ・キャラット」を取り上げ「萌え」は「アホ毛」や「猫耳」など記号的な要素(データベース)の組み合わせであるとしたが、批判でも多く取り上げられている通り、キャラクターとして自立している以上、そこにはデータベースと呼べない要素、作為が付随している。それはキャラクターに対して向ける性的な目線なのかもしれない。

先の通り、私が描く女の子のキャラクターは私の魂、生命そのものだが、「女」という字がある以上、女性であることは確かである。たとえデフォルメされていても曲線的な身体や膨らんだ胸部などが描かれる以上、性的な要素は付随する。しかし、私は彼女たちを異性として捉えていないことに加えて、トランスジェンダー的な嗜好も今は持ち合わせていない。描くことで結果として画面に現れるのは「他人」である。私が描く女の子のキャラクターが持つ「萌え」と「他人」という曖昧な二つの文脈。双方は彼女の存在を不明瞭なものにしている。

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「萌え」と「他人」


描くことに生じる強迫観念は、私が彼女たちを描き続ける限り背負わなければならないことである。

問題は「萌え」と「他人」について。先の通り「萌え」は俗語であるが故に定義は曖昧であり、その根底にはマンガやアニメーションに登場する少女に対して性的嗜好を抱くロリコンブームがある。ササキバラ・ゴウはロリコンブームが「萌え」に直接繋がる文脈とした上で「女性」からの「愛」は経済成長の終わりと共に失われた男性の価値や根拠を唯一保つものであるとした。しかし、「愛」は描かれた虚構の「女性」に先立たず、それは無根拠で一方かつ性的で暴力的な「愛」である。その「愛」に根拠を見出す為に時代を経て、キャラクターの内面を表現する「顔」に焦点が当てられると共に、その内面を斟酌する必要がある「美少女ゲーム」が登場し、キャラクターを理解することによる「恋愛」から、その根拠によって性的で暴力的な「愛」の免罪を果たそうとした。「萌え」は先のような経緯から、性的で暴力的な「愛」とキャラクターを理解することによる「恋愛」の両方の側面を持つ。しかし、全てに内面としての複雑な文脈を付すことは非現実的であり、結果として残るのは性的で暴力的な「愛」のみであるのかもしれない。

私が描く女の子のキャラクターも表情は弱く、彼女に関する内面としての複雑な文脈は無い。先の通り、私は彼女たちを異性として捉えていないが、先の文脈を考慮すると、私が彼女たちに抱く「かわいい」という気持ちは、潜在的に性的で暴力的な「愛」であるのかもしれない。それが故に、私は一歩手を引き、彼女たちを「他人」と捉えているのかもしれない。

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隔たり


明確に彼女たちが「他人」として現れる瞬間は、色面を区切る濃い輪郭線を引いた時である。彼女の実体は線を引くほど増していき、それと比例して私との間に明確な隔たりが生まれる。しかし、それは私の描いた、生み出したものであるが故に、先の通り私の魂、生命そのものが現れていることは確かである。この矛盾した隔たりを「他人」として一蹴するのは、性急なのかもしれない。考えると、ここでいう「他人」は、描かれている彼女たちを「絵画」では無く一人の「女性」として見た時に現れるイメージなのかもしれない。その見方を抑え、一枚の「絵画」として見た時、そこに現れるのは私の魂、生命そのものである。

2022年8月に初めて女の子のキャラクターをモチーフにした絵画を描いた時、私の中に「女性」としてのイメージは一切無かった。それは、下絵を用いなかったことや、筆の扱いに慣れてなく、色面構成の意識からキャラクターを描いていたことが理由として挙げられる。


《敗者の肖像》2022 / F8号カンヴァス、アクリル絵具

そして、2023年2月に再び描いたとき、私は自身が芸術に関心を持つ根底には「萌え」や「イラストレーション」そして「インターネット」があることを思い出すと共に、これは自身の矛盾とコンプレックスを昇華する制作であるとして以下のように記した。

確信には至れないところもあるが、私はキャラクターを自画像として描いている側面がある。普段レディースの服を着ていることや、自身の童顔で中性的な見た目から、少なからず女性……では無く「女の子」になりたいという願望があるように思える。

だからといってトランスジェンダーの意識が強くあるという訳では無い。普通にヘテロである訳だが、恋愛に対する関心が個人的に低いと感じられるのは上記のようなことが原因だろう。

人間の根底に必ずある性愛に関する意識は絵画や音楽など、芸術とダイレクトに接続すると考えている。これまでも、自身の性愛に関するフラストレーションを作品として昇華する表現を何度も観てきて、少なからず影響は受けてきた。

それなのにも関わらず、私自身が性愛に対する意識が低いということは、芸術に対する意識が低いという考えに結びつき、ある種のコンプレックスになりつつある。私は芸術を一つのアイデンティティとして捉えている為、そのコンプレックスは私自身の自己肯定感を著しく下げる。

そのような自身と性愛に関する矛盾、コンプレックスを昇華させる手段としてのキャラクター絵画は、私自身と強い結びつきがあるように思えた。

キャラクター絵画を制作したからといって問題の本質が解消するという訳では無い。それでも、芸術家はそれぞれ固有の傷を抱えているのでは無いだろうか。

「向き合う21歳」2023年2月23日
《泥濘》2023 / F15号カンヴァス、アクリル絵具


「女の子になりたい」という願望は、まだ女の子のキャラクターをモチーフにした絵画を描いた枚数が少なかったことに起因する。絵画に自己投影のイメージがあったことに加え、以前からサイズが倍になったことから、図らずそこに輪郭や表情など「女性」としてのイメージを抱いた。しかし、そこから枚数が増え、ライフワークとしての意識が芽生えると共に絵画に対する自己投影としてのイメージは薄れ、自身の「萌え」を詳細に描いた下書きを用いたところから、画面に現れた女の子のキャラクターは「他人」になった。枚数を重ねる度に輪郭線が太くなることで「他人」としての隔たりは強くなり、性愛に対する意識の低さは彼女たちの固定されたような生気の無い表情に現れている。


《習作_2》2023 / F40号カンヴァス、アクリル絵具

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自覚


ここまでの内容から、冒頭に記した「恐怖」の輪郭が見えてきた。まず、何か作らなければ自身の存在を肯定することができないという強迫観念。そして「萌え」に潜む性的で暴力的な「愛」と、その否定から生じた彼女たちに対する「他人」としての意識と象徴としての輪郭線や表情。

以上の内容の中で重要なのは「萌え」が持つ文脈である。今回取り上げた性的で暴力的な「萌え」に対する意識は勿論正しいものでは無い。ただ、それは私が漠然と抱いていた「萌え」に対する違和感への一つの答えである。それでも、その答えは文献調査を経て考えた内容であり、私が自身の価値や根拠を「女性」に見出した訳でも、ロリコンブームを体験して少女に対して性的な目線を持ったという訳では無い。しかし、それは私の感性や嗜好を形成したコンテンツの根底あるものだと考える。

それでも、当事者性が無く確証が持てないという意識は、私の「萌え」に対する「畏怖」として、彼女たちを隔てられた「他人」として捉えるという考えに導いた。また、そこには彼女たちに対して責任を負えないという性愛に対する意識の低さなどの文脈が付随する。

ただ、彼女たちに内面は無く、固定されたような生気は無い表情をしている。しかし、それは一枚の絵画として、私自身の魂と生命そのものとして、描かれている女の子を捉えたときに現れるイメージである。彼女たちは強い輪郭線で隔てられることで、作者である私自身の魂や生命そのものからでさえも、決して侵され得ない絶対性を持つ「他人」として自立する。

そのような隔たりの自覚は「萌え」に付随する、性的で暴力的な「愛」やキャラクターを理解することによる「恋愛」などの文脈を越えることが出来る可能性を有しているのかもしれない。

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