見出し画像

躾って、何のためですか?

「タイタニック」観ましたか?
レオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットが出ていた1997年の映画です。

私があの映画の中で印象的だったのは、名家の娘として厳しく躾られたケイト・ウィンスレットが演じるローズが、レオナルド・ディカプリオ演じる労働者階級の絵描き志望の青年・ジャックに出会って、人生が変わったところです。映画の最後には、ドレスではなく、カジュアルなパンツを穿いて、馬や飛行機と一緒に笑顔で写っているローズの写真が映っていました。女性の人生が一人の男性と出会ったことで、彼女らしい挑戦に満ちた道を歩む方向に開けた物語ということで、当時まだ20代だった私に強烈な印象を残したのです。

映画の冒頭部分で、ローズが体をコルセットで縛りあげられるシーンがあります。ウエストを細く矯正しドレスを着て着飾る必要があったのは、それが上流社会で受容されるために必須の「礼儀」だったからです。また、ローズが膝にナプキンを丁寧に広げて背筋を伸ばし、周囲の言動に気遣いながら作法を守って食事をする場面もありました。それは、上流階級社会での交流が、スムーズにかつ活発に運ぶために必要な「方式」だったからでしょう。

「相手を尊重する心」「周りに配慮する心」は素晴らしいことですし、
「礼儀作法のきちんとした人」という評価には、好印象しかありません。
それなのに、礼儀作法を重んじる上流階級の娘・ローズが、なぜ粗暴なジャックに惹かれたのでしょうか。

映画で描かれていた通り、お行儀なんて関係なく唾を飛ばし合ったり、靴を脱いで裸足で踊ったりということが、単純に新鮮で楽しかったのでしょう。そして、礼儀作法なんかに囚われている自分や周囲の資産家たちに、興ざめしたんだと思います。自分にとって大事なこと、譲れないことを考えることの重要さに気が付いたのでしょう。そしてローズは、フィアンセの元には戻らず、大きな宝石も海に捨てた。

さて、ここで考えてみたいのは現代家庭での躾についてです。
躾は、礼儀作法を教え込むこと、と辞書にもありますからね。
みなさんのご家庭では、どんなことを言い聞かせていますか?
・玄関の靴はそろえなさい
・食事の際は肘をつかないで
・口の中に物が入っている状態でおしゃべりはしないこと
・座る時には足は閉じなさい
・階段は静かに上り下りすること
・ドアの開け閉めは静かに
・洗面所で水が跳ねたら、次の人のためにきれいに拭きなさい
・いただきものをしたら、次にお会いした際にもう一度お礼を言うこと
などなどなどなど、枚挙にいとまがありませんよね?
親として子どもをきちんと躾けるのは当たり前。最低限の礼儀作法を教えるのは親の役目ですよね。「お里が知れる」なんて言葉もありますしね。「お前だけじゃなくて、親が恥ずかしい思いするんだからきちんとしなさい!」などと、私も子どもの頃よく言われたものです。

でもですね、何のために子どもを躾けるのかとよくよく考えてみると、
一つは免罪符なんじゃないかと思うんですよ。「親の責任を放棄している」あるいは「十分に果たしていない」という非難をあびないために、子どもを型にはめることで自身を正当化しようとしている。あるいは、親の責任を十分に果たしていないのではないかという不安や罪悪感から逃れるために、躾を価値の基準として利用している。
もう一つは、躾を、選別の方法として使用しているのではないかという疑惑です。排除する手段といってもいいかもしれない。きちんと躾けられていない人を自分や我が子の周りから取り除きたい。躾はそのために有効な基準となる。ーーいかがですか?

私が注意しないといけないと考えるのは、礼儀作法はもともと、他者優先の視点を持っているという部分です。相手の立場に立って考えることが身についている日本人の性質は海外では広く認知され、その躾は称賛されています。常に自分より他者が優先される分、自分が大切だと考える点についてフォーカスされていないことに気が付かず、躾がされているか否かに依存して人を判断してしまうのは残念だと思うのです。また、自分ではなく他者の在り方を観察するクセは、やはり他者と距離を作ってしまう。仲良くなれない。

自分の美意識や判断基準を躾に依存していると、中身や温かみのない空虚な人間関係や退屈な人生を作り上げてしまうのではないかと、馬にまたがって笑うローズの写真を思い出し、考えるのであります。垣根を取っ払った人間味あふれるジャックとの交流がローズを一瞬にして虜にしたように、いつまでも丁寧できちんとした人でいようとしているが故に興味を持ってもらえないということがないだろうか。さみしさの理由がそこにないかどうか、一度考えてみるのも悪くないかと思います。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?