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2021/08/03 誰がためのオリンピック

仕事でお台場へ行った途中、有明エリアへ架かる「夢の大橋」に設置された「第2の聖火台」の前を通りかかった。国立競技場の聖火台の三分の一の大きさだが、デザインは同じで花びらの芯に火がともる仕掛けだ。

夜闇の向こうから、かがり火のように揺らめいていた。テレビで見るような圧倒的な存在感はなく、ばらばらと人がいるので気づくぐらい。時折、強風にあおられ、よじるように炎が揺れた。もちろん、長期燃焼できる液体水素が燃料なので、消えるわけはない。炭酸ナトリウムによる炎色反応で着色された聖火は、ガスバーナーに似ていた。

立ち寄ったのは午後8時前ごろ。「人だかりができている」と報じているメディアもあったが、実際、足を運んでみると、その日は数十人がいただけ。群衆というほどのことはない。少し拍子抜けしてしまった。観覧自粛要請と感染爆発が影響しているのだろうか。

フェンスに囲まれ、聖火台の直前まで近づくことはできなかった。接触を避けて距離を保つよう呼び掛けるアナウンスが流れ、汗だくの警備員が時折、柵に触れないよう促す中、観覧者たちは礼儀正しく写真を撮っていた。はしゃぐ声も少なく、静々と粛々と。

迷惑にならないよう、でも、せめて少しだけ、五輪が開催された東京の真夏を体感したい―。何てささやかで慎ましやかな民衆の願いだろう。そう思うと同時に、怒りがこみあげてきた。

聖火台の観覧自粛を呼び掛けるなら、いっそのこと、設置しなければいい。感染爆発が起きているから距離を保てというなら、そもそも五輪を中止すればいい。開くだけ開いて、設置するだけ設置して、「無観客」を強制するのは、何という欺瞞なのか。

五輪が行きすぎた商業主義に毒されている構造は知っていた。それでも、世界から集まった人たちが競い合い、交流し合う五輪は、祝祭感があふれていた。母国で開催される五輪を楽しみにしていた。

しかし、「無観客」という未曾有の事態の中で開催された東京五輪は、まとっていた祝祭感という装飾を奪われ、醜い利権構造という骨格だけがあらわになった。まだ体の重い午前中の決勝や、気を失うような暑さでの開催など、選手ファーストとは程遠い運営も。こんなオリンピック、一体、誰がために開催されたのだろう。今回のことに懲りて、日本では少なくとも数十年は五輪を誘致しなくなるだろう。私の人生では、恐らく再び聖火がともることはないだろう。

第2の聖火台の周囲にめぐらされた何本もの棒状のモニュメントが、無残な夢の跡の墓標のように見えた。

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