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あの日の手紙に、「ありがとう」と「ごめんなさい」

宝物入れの上に乗せて保管していた、レターボックス。
小学生からの手紙が入っている。

手帳を整理したその後、手紙を整理していた。


麻ひもで、ある程度束になっているけれど、
もはやどんな分類でまとめたか、わからない紙類。
紐を解いて、ひとつひとつ手にとった。

封筒の消印、名前、その文字の形で手紙を置き分けていく。

たくさんやり取りしている友達はそれでひとまとめに。
おかあさんからのものはこっちに。
おばあちゃんからのはこっち。
年賀状はその年ごと。

捨てずに残していた、授業の合間にもらった手紙やバースデーカードとか、そういうのは、小学校・中学校とか、同じくらいの時期に分けていく。


あらかた分けたもの。
その一つ一つを改めて手にとって
消印を見てその一個ずつの封を開けた。

付箋や封筒に入ってないような紙切れも開くと
なんで当時の私はこれを取って置いたんだ?と
笑いたくなるようなくだらないものもあったりする。

その一個一個を開いて畳んでを
繰り返しているうちに

なんだか、

わたし見えていなかったとしみじみ感じて、ボロボロと涙が出る。
なんだかその文章を一つ一つ読みながら

「ありがとう」
「あーごめん」が口からついて出てしまう。


わかってなくて、ごめん。
気づいてなくて、ごめん。
気にしてくれていて、ありがとう。
答えられなくてごめんなさい。

ちゃんと返せなくて、ごめんなさい。
嘘をついていてごめんなさい。

満足にかえせなくてごめん。

たくさんのどうしようもなさと、
過ぎ去ったものの後として。

今のわたしがいる。

ちゃんと受け取れていただろうかと、いつも、ずっと申し訳ない。


兄が死んだ後、家族も親族も私になにもくれなかったと少し感じていた。
けど、私が受け取れなかっただけの部分がある。

誕生日も親に祝ってもらえないから、というところにこだわって、
祖母にもらっていた手紙の中にある、誕生日を祝うメッセージ。もらっていたのに、なんだかないように感じてた。

数年後のわたしが見て、
やっと当時のわたしが見える、その殻の狭さ。
一人で勝手に苦しんでいる。受け取る余裕のなさ。

わたしができなかったこと、
しなかったことを考える。


兄から小学生の時にもらっただろうバースデーカードも出てきた。
名前はないけど、多分兄からの。

こういうものと、
昔の兄妹仲が良かった時の写真を見ると思う。
家族で撮った写真を眺めると思う。

『良い時間は確かにあったのに、崩れてしまう』
その事実。

そういうことを考える。
その不思議さ。

じゃあ、初めからない方がいいのかというと、違う。
これははっきりしている。


子供の産まれる瞬間に、仕事柄向き合っていて。
難しい状況下でも、
こわごわと赤ちゃんに触れる家族の様を見てきて。

どんな家族も、家族になりたての両親も
持っている、あの時間。
けど、それを持ってしても
それだけで叶わないものがあったりする。


そこも含めて、いきもの、なのか、と思ったりしながら。


ただ素直に大切で何も疑っていなかった頃の自分と
大切よりも、切なさが勝るようになった部分を思う。



果ノ子

(その不思議さを考える時、千と千尋の神隠しのテーマの歌詞”生きている不思議 死んでいく不思議”の死の不思議を歌った歌詞が少しだけ頭によぎる。)
(部屋の片付けに戻る。次は衣服と向き合う。書類と向き合うより、ある意味大変。)


ちょっと追加で。
書いてて浮かんだ以前の自分note

    弟のことはいろんな感じ方の原点ではある。

 きれいさと、それが枯れた後っていう点で繋がる見方。でも総じて花は好きだ。

受け取る余裕がなくて、大切なものに気づけなかったなぁという点で。

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