スクランブルエッグはそれはそれでうまい

「覆水盆に返らずって言うけど、じゃあ溢れた水はどうすればいいのか」

そんな考察を10代の時にしていた。

そして、その当時テレビでオムレツの作り方をやっていて、それにつられて何回か練習していた。何回も失敗して食すことになる。オムレツ未満なスクランブルエッグ。
その経験で、あ、こう考えれば楽になる、と一つの詩を書いた。
失敗作も私たちは美味しく食べる他ない。


今のあたしは
オムレツを作ろうとして出来上がってしまった
スクランブルエッグ

今さらどんなに頑張っても
卵の殻で守られていた頃のように
この溢れてしまったモノが戻ることはない

オムレツになろうと
いくらこの身を 頑張ってまとめなおしたって
ぱらぱらと崩れるだけだろう

すべては
自分で殻を割ったことから始まった

無様に
フライパンへの着地を失敗して
望みどおりのものに
なれなかったとしても

まったく これは自業自得

これからあたしがなすべきことは、
白昼にさらされた このぐちゃぐちゃの
黄色い自分の弱さを認めて
好きになっていくしかないのだ

スクランブルエッグは
それはそれでうまいのだから

(果ノ子 制作10年以上前)


その当時、これでいろんなことがうまくいくんじゃないかって、私なりに練ってやったことが失敗した。うまくいかなかった。漫画や物語の主人公は10代のうちには自分の問題を解決して、次に進む。私は難しい。どうにもできない。すごくすごく落ち込んで、嫌になった。

なんでそれをしてしまったのか、戻れないことを悔やんだ。

の記事で少し書いた「それでもここから始めるしかない」という私自身の核となっているものの見方は、当時はまだ完璧には受け止められていなかった。

仕方ないと思っても仕方ないと思えないくらい、
心理的にのたうちまわった。のたうちまわることで疲れていた。

そしてその中で、(やってしまった)という思いを、そんな自分を、どうにか自分をスクランブルエッグに例えるというイメージ化することで受け止めた。

この言葉を何回も咀嚼して、フライパンの上の黄色い卵の映像を頭に浮かべ、やっとその時の自分も仕方ないと思えた。
失敗した自分を受け止めた。


これはその時に書いた言葉だ。
私なりの覆水盆に返らず。
溢れてしまった水はどうすればいいか、のアンサー。

多少行は増えたし、区切りもその時その時で変化しているが、
「スクランブルエッグは それはそれでうまいのだから」は昔と変わらずにそのままだ。

世の中には綺麗なオムレツにスマートになれる人もいる。
けれど、オムレツになれず失敗することもある。
残ったのはバラバラのスクランブルエッグだ。卵を食べようと調理した私は、それを食べるしか他ないし、捨てるのではなくおいしく食べてあげたい。

そして思い通りにできあがらなくても、やっぱりそれはそれで美味しいのだ。


果ノ子


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