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人とは何かを考えすぎて、あまり女ではない私。

私は生物学的に女性である。そして性別意識としても女性ではある。
ただ世の中の女性をみて。ましてnoteで、かくも女性は語るみたいな性をしっかり認識した上での文章を読んでいると、

私は「私は人間だ」とははっきり言えるけど、「私は女である」と
言いきりにくく思う自分に気づく。


男性にしろ、女性にしろ、性を生きることを謳歌している人たちがいる。
女性なら当たり前の楽しみを、さも当然にこなしていける人たち。

彼らは「自分は人である」と同等に「自分は女(男 )である」と胸を張れる。もしくは、「自分は、人である前に女である」そういうタイプの人もいるだろう。(かっこいい)

その姿を見ていると、
まずは「私はちゃんとした人になる」に
必死すぎて、そこまで至らなかった私に辿り着く。
女であることに胸が張れないのだ。



「自分は、人である前に女である」

そう格好よく言える人もいる中で、私の頭の中では
【ちゃんと一人前の人間になって → いい女を目指す】みたいな
そういうイメージが多少なりともあったのだろう。

だからまずは
”困難に対して、まずどうにかできる自分になる”
”先ずはまともな大人になる”"やりたいことをやれるようになる"
そういう風に生きてきた。

そして多分、自分の中の女性性がちゃんとあるのを認識しているからこそ、男女としての、月と太陽、陰と陽みたいな、一つになるものの、相手が欠けることがあった場合に、自分が立ち行かなくなることが怖かった。
それだけ日常が結構大変だったし、新たにゴタゴタしたくなかった。
そして男女のそういう補い合う関係性にしっかり頼ってしまったら、それまで築いてきた、まともな人として生きる自分の部分も崩れる気がした。
そのために怖くなると別れてしまっていた。

人としてちゃんとやれるようになりたくて。


他者と欠けるものを補い合うことが当たり前。
そういう私にあんまりなれなかった。

だからそういう、女として男として、そのどちらでもない人でも
かけているその性を、相手を探すのを当たり前のものとして、生きれる人の強さが羨ましい。そう思う。

多少、その性に振り回されているなあと思う人もいたり、人としてどうよと思う人もいるけれど。性の片方として、補うことも補われることも恐れない。それ自体は素敵に思う。


んじゃ、なんで私、「一人前の人になる」が全面の、こんな感じになっちゃったかなって思うと。仮面家族+母の信仰感(男女の付き合い、結婚諸々へのタブーの刷り込み)が大きい。

仮面家族から、自立するためにコツコツやっていくのはそれだけで疲れる。

その中で男女交際やら諸々は母の神経に触れる。
抽象的なお叱りを受けたくもなく、新たに母との火種を作る気もなかった。
疲れていた。まずはちゃんと人としてしっかりしなきゃ、だった。

恋をする楽しさを生きている中で知っても、
身近な人から恋をすることへの肯定的な意見なんてもらえなく。
良い子でありたい子供の私の部分と疲れた私の部分は色々無為に感じて、めんどくささを思う。親を見て結婚への夢も抱けない。

不安定な状態で、結婚とか妊娠とかしたくない。
誰かが支えてくれればどんなに楽だろうと思っても、あの人に頼りたいと思っても、私が、子供の時の悲しい私を作る、そういう不安定さを持った大人になることを何より避けたかった。
性別のことよりも、まずたくさん見ることがあった。
まずは自分が生きていけるようになりたかった。

多分、その思春期にまた男女とか性差とかでのトラブルを抱えていたりしたら、性の捉え方がもっと中心にくる何かがあれば、はっきりした形で親に恋愛を咎められたり何かがあれば、違う形で「女として」に意識が持って行かれたかもしれない。
バリバリの女として生きていたかもしれない。
が、いいのか悪いのかそうはならなかった。


ので、私は、女性であるというより、人間である。
妖怪人間ばりにそういう人間を目指して生きてきた。

まあ書き始めて見たけれど、それは、どうかなーとも思っている。
そして大々的に書くことじゃないなぁとも思っている。

でもそれ自体は、人を男女でなくて
まずこの人は人間としてどうかで見れるようになったし、それもいいかなと思っている。

ただ面白そうだから、大人になったしね、それなりに人としてやってきたしね女性としての先輩方の生き方を見て、いい女も目指したいと思ったり。

まあ人生まだあるし
いい人間+ちょっとよい女、目指していきたいものですわ。



終い。


果ノ子
(んじゃ、よい女ってなんなのかーって思うけど、まあ女として生きることへの肯定力だよね。私は女であることも、笑顔で言えるようになれたらいいねぇ。)

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