「aiko/いつ逢えたら」における「君は放課後インソムニア」タイアップ曲としての凄さ
aikoが2023/4/11にリリースした「いつ逢えたら」が、聴けば聴くほどタイアップ曲としての凄さを感じさせる素晴らしさに満ちている。この記事ではこの「いつ逢えたら」がタイアップ曲としてどんな嗜好が凝らされていて、どんな風に「君は放課後インソムニア」と共振しているかを紐解いていこうと思う。
「君は放課後インソムニア」とはどういう作品か
オジロマコトによって描かれた「君は放課後インソムニア」はビッグコミックスピリッツにて連載中の漫画作品で、2023年7月現在単行本が13巻まで出ている人気作である。2023年は本記事で取り上げるaikoの「いつ逢えたら」がOPとして起用されたテレビアニメ版や、実写映画等多岐に渡って展開をされている。(*1)
石川県七尾市の高校を舞台に進んでいくこの物語は、中見丸太という男子生徒と曲伊咲という女子生徒の2人の交流を中心に進んでいく。2人は共に不眠症であり、不眠症であることと不眠症であることに付随した日々の事に悩まされている。2人は不眠症という部分では共通しているものの、中見丸太は幼い頃朝起きたら母親が家からいなくなっていたという出来事をきっかけに朝起きるのが怖くなり、曲伊咲は先天性の心臓疾患(単心室症)を患っておりそれが原因で眠りについたらそのまま死んでしまうのが怖い、というその意識が発生する部分は眠ることそれ自体と起きた後の事という細かい違いがある。そんな2人が、ひょんなことから使う人がおらず長い間倉庫として使われていた天体観測室で誰にも知られずに日中睡眠を取るようになる。ある日そんな2人の居場所となっていた天体観測室の無断使用を学校に知られるが、天体観測室を使い続けるために廃部となっていた天文部の活動を2人だけで再開し居場所を守ることになった。その後天文部の活動を通して2人の恋愛模様、不眠症に付随する個々の不安、眠れない夜も悪くないと思えるような瞬間等が描かれる。この眠れない夜も悪くないと思えるような瞬間は、そこまでの時間を着実に描いているが故に、本当に"瞬間"として立ち上がってくるのがこの物語の1番面白い部分であると私は感じている。(*2)(*3)
aikoというアーティストについて
aikoは1997年に1stアルバム「astral box」でインディーズデビュー、1998年に1stシングル「あした」でメジャーデビューをし、以降25年以上第一線で活躍しているアーティストである。
aikoというアーティストはインタビュー等でも度々語られるように、朝7時に寝てそのまま12時間は寝ているような夜型の人間である(*4)。aiko自身のインタビューでは夜型の生活になったきっかけや理由は分からないし夜型であることを苦労が無いように語られるが、表向きなインタビュー等では語られない部分があると、私は勝手にあると思っている。というのも、aikoには小学校4年生の時両親が離婚し母親が家を出て行ってしまい、どちらの親にもつかないと宣言し高校卒業までの8年間親戚の家に預けられる事になった過去がある。親戚の家でaikoは陽気なキャラを演じていたが思春期に入ると周囲に壁を作り1人で部屋にこもってラジオを聴くようになったaikoだが、そのラジオこそが色んな音楽に出会うきっかけとなり歌手になるという夢が強まったという(*5)。両親の離婚に伴う生活環境の変化という点では細部のニュアンスが異なっていたり、子供である当人の想いを知る由も無いので安易に結びつけることは暴力的であるということを理解しつつも、そんな過去を背負うaikoに中見丸太の姿を重ねてしまった。ただ、aiko自身もこの作品に自身を重ねているのか、楽曲提供にあたり『丸太くんと伊咲ちゃんの眠れない夜にもちゃんと意味があるようにみんながみんなそうだと思いたいです。「君は放課後インソムニア」の単行本を高校生の時の自分に貸してあげたいです。』(*6)というコメントをしている。aikoは眠れない夜に楽しい瞬間を感じられると語っているが同時に辛く苦しいだけの夜があることも身を持って知っていて、だからこそ上述したコメントのような言葉が出てきたのだと思う。
一般的にアーティストが何かの作品にタイアップ曲を提供するとなった際には、歌詞でその意図や世界の色合いを表現することが多い。勿論この「いつ逢えたら」においてもその要素は強いが、この曲はそこには収まらない音での表現が詰まっている。それは「君は放課後インソムニア」という作品との強い同一性を持ったaikoというアーティストであったからこそ、アーティスト自身の過去の姿が投影され意識的にも無意識的にもそのような趣になったのだと思う。「君は放課後インソムニア」という作品が眠れない誰かのささやかな光になっているように、aikoも「いつ逢えたら」にそういう想いを乗せているのだ。
「いつ逢えたら」における「君は放課後インソムニア」との関係性について
前置きが長くなってしまったが、ここからは本記事の本題である「いつ逢えたら」におけるタイアップ曲としての素晴らしさについて紐解いていきたいと思う。(至極当たり前の事ではあるが、これから記述するものはこの曲を聴く上での聴き方を固定するものではなく、あくまで聴き方の1つであるということを念押ししておきたい)
①歌いだしの『あ』
この曲の始まりは
となっており、『あ』が歌い出しとなるメロディの塊が3つ続く。この部分のメロディは図1(*7)のようになっており、出だしの音が次に続く音に比べて浮くような形で高くなっている。この音をaikoは他の音に比べて乱雑に歌うことで、不眠症から来る自暴自棄さを表しているように感じられた。というのも、「君は放課後インソムニア」の冒頭における中見丸太の振る舞いは自暴自棄そのもので、その様子を曲の始まりと絡めたのではないかと思っている。また、『あ』という言葉は50音の始まりの文字でもあるということも考えられる。
②絶対ねむりにつかない
Bメロで
という部分がある。感覚的に考えて『ねむりにつく』と歌うのであれば、眠りにつくのだから音が下がる方向に動いていくのが自然だろう。だが、ここでaikoは眠れない中見丸太や曲伊咲の姿を浮かび上がらせるように劇的に音を上げる。正確には図2のような音の並びなので『ねむり』の部分は下がって眠ろうとはしているのだが、その眠りはクレシェンドで現れるストリングスの音と共に遠くへかき消される。また、この部分のコード進行も『FM7→G7→A♭M7→B♭7』(*8)と1拍ずつ段階的にに上がっており、全ての要素で眠りにつけていない事が分かる。(因みに『戻れなくなりそうなところで』の部分のコードはDm7→Em7なので、この時点から段階的に上がる下準備を完成させているのも面白い)
③サビに対する恐怖
Bメロの終わり~サビまでの間には長い間奏が入る。Bメロの最後の音は『E(ミ)』で伸ばしそのまま間奏まで入っていくのだが、そこの裏で鳴らされているコードはEm7-5→A7→Dm7→Gm7となる。各コードの構成音を見ていくと(図3)、Em7-5と続くA7には構成音にE(ミ)が含まれているものの、その次のDm7では構成音にE(ミ)が含まれない。ただでさえ不協和音なマイナーコードなのに、そこへ更にルート音(根音)とメロディをぶつけてくるという超絶不安感を煽る流れになっている。これは曲伊咲の心臓疾患を原因とする眠る事への不安感が、サビというある種の感情の高ぶりに恐怖として向かっていく事の表れだと感じた。
④怒涛の6連符
この曲では、Bメロからサビに行く直前やサビの終わりに向かう部分でとにかくストリングスが6連符を多用する。6連符は1の中に6つの音が均等に並んだ音符であるが、1を6で割り切る事が出来ない為に音が均等に並ぶことは無く、根源的にリズムがどこまでいっても不安定に感じられる。その6連符をサビに向けて4回重ねる事で、③で書いたコード進行と相まってとにかく不安を高まらせてくる。(この6連符は最初の3回は下がる方向に、最後の1回は上がる方向に音を運ばれる。それは③で書いたコード進行の影響もあるけれど、最後の1回が上がることでそれまで内に向いていた曲の印象がサビでガラッと変わり開けたものになるというポップソングとしての気持ち良さも感じられる)
⑤切迫した『いつ』
この曲のサビでは、『いつ』という言葉が何度も繰り返される。『いつか』ではなく『いつ』であるという事に、死に対する恐怖心と日々戦っているが故に来るか分からない未来の約束をできない曲伊咲の切実さを感じる。この部分の歌い出しは16分音符のアウフタクトになっており(図4)、その点も曲伊咲の未来への不確かさ故に行き急いでいることを感じさせる。また、『い』を16分音符にしたことで続く『つ』の4分音符の長さが強調されているのも面白い。
⑥歌うことの無いブレス
aikoはこの曲の終わりで、もう歌が入ることは無いのに息を吸い込む音を入れている。もう歌うことはないのにわざわざ吸い込んだその音は、朝になってようやく眠ることが出来た寝息のように聴こえるし、朝になり曲伊咲が恐れているその日の死を乗り切った『生』を感じさせる音にも聴こえる。aikoがどんな意図でこのブレスを入れたのかその真意は分からないけれど、少なくとも私は1人1人の『生』を肯定するものだと受け取った。中見丸太と曲伊咲の夜が、この作品を観て/聴いている全ての人の夜が救われますように、と。
終わりに
上記に挙げた6つは、音楽理論というものをまるで通ってきていなければ、曲を聴いただけでコードが分かるような人間ではない自分が書いたものになるので、コードの部分等が間違っている可能性がある事はご承知いただきたい。また、本記事ではほとんど触れてこなかったが、「いつ逢えたら」は歌詞だけを取り出しても色々な部分で「君は放課後インソムニア」との親和性や面白さを見出すことが出来るだろう。
今回の記事はあくまで私の主観のみによって書かれたものに他ならないので、あなたの感じているものと違うことだって勿論あるだろう。私の主観には私の文脈が、あなたの主観にはあなたの文脈が入り込むのだから当たり前のことだ。それを踏まえた上でなおこの記事を楽しんで頂けたなら、それは何よりも幸いなことだ。
注釈一覧
*1
蛇足にはなるが、実写映画はこの作品で大事な余白の部分が全て切られており、ストーリーが恐ろしくちぐはぐになっている為あまりおススメできない。ただ、森七菜さんの曲伊咲は誰がどう見ても完璧な曲伊咲で、それは凄く驚いたし良かった。
*2
作品の楽しみ方を固定する気なんて毛頭無いが、コミックスを読んでいる時にふと現れるこういうシーンの1枚絵には毎回吸い込まれるような強い魅力があるように感じられる。
*3
「君は放課後インソムニア」には主人公の2人以外にも様々な登場人物が出てくるが、その中でも私は天文部のOBである白丸先輩が好きだ。1人でいることを好み他人に流されないような飄々さがありつつも、承認欲求や自意識をしっかり抱えているのが人間らしくて良い。因みに、白丸先輩の飼っている猫の名前はロロという。ロロといえば高校演劇のフォーマットに則った「いつ高シリーズ」が有名な三浦直之が主宰を務める劇団で、私の1番好きな劇団だ。ロロの作品には好きなものがたくさんあるが、中でも私は「グッド・モーニング」という作品が特に好きだ。この物語は人が集まり学校が目覚めるにはまだ早い早朝に、"白子"と"(逆)乙女"という二人女子生徒が最高の『おはよう』を言うまでを描いた物語である。劇中二人が不眠症だと語られる台詞や場面は無いのでキャラクターに「君は放課後インソムニア」との関係性は殆ど感じられないが、「君は放課後インソムニア」における林間学校中の波打ち際での2人の叫びと「グッド・モーニング」におけるラストの踊り終わりの叫びは同じものに見えて仕方がないのだ。「グッド・モーニング」における『良い朝を迎える』という朝に対する明るい質感を、オジロマコトは少しだけ「君は放課後インソムニア」に忍ばせたのではないかと勝手に思っている。それが中見丸太と曲伊咲の希望になるように、と。
*4
*5
*6
*7
素人が頑張って耳コピで書いた楽譜なので、優しい目で見て貰えますと幸いです。
*8
私は耳で聴いてコード進行が分かるような人間ではないので、本記事は下記2つのサイトに記載されているコードを参照して話をしています。悪しからず。
余談
Twitterやnoteで交流のある月の人(Twitter:@ShapeMoon)さんと6月末に行った自分達の好きなポップカルチャーについて語り合うトーキングプログラム「ポップカルチャー定期健診」内で、自分の語ったaikoの「いつ逢えたら」におけるタイアップ曲としての素晴らしさは面白いのでちゃんと文章として残しておいた方が良いという助言を受けたので、こういう文章を初めて書くに至った。だけど、これを文章で残すということはとても骨の折れる作業なので、なかなか着手する気にはなれなかった。こういう記事みたいなものを書くのが初めてだったのと、何かを書き切る経験の乏しさも大きかったと思う。実際書き始めてみたらスラスラ書けたなんて事は全く無くて、自分の書けなさをかなり痛感しながら書く羽目になった。結局この記事が完成したのは助言を受けてから1ヵ月も経ってしまった。その間に春クールに放送していたアニメは終わり、映画も徐々に上映が終了してきている。本当だったらこういう記事はアニメの放送中に出すのがセオリーだと思うが(曲に至ってはリリースから3ヶ月以上経ってしまっている...)、今となってはもう遅すぎる後悔だろう。ただ、そんな中でもこの記事を書く原動力になったのは、やはりこの作品同士の親和性の高さをもっと多くの人に知ってほしいという気持ちがあったからだと思う。
最近のアニメタイアップで言えば「SPY×FAMILY」と「Official髭男dism/ミックスナッツ」「星野源/喜劇」、「平家物語」と「羊文学/光るとき」、「君たちはどう生きるか」と「米津玄師/地球儀」等、多くの人が簡単に思いつくであろうものだけでも素晴らしい組み合わせが沢山ある。今回、自分はたまたまaikoというアーティストも「君は放課後インソムニア」という作品も好きだったという事で、本記事のような視点で両者の関わり合いを考えることが出来た。勿論それらはアニメ作品の質や楽曲の質が高いという前提があった上での話ではあるけれど、そこに素晴らしさを見出せるだけの前提知識を共有できているからだと思う。逆に言えばタイアップ曲の素晴らしさを見出す為にはアーティストとアニメ作品それぞれに対するある程度の解像度の高さが必要となってくるということで、それが無いと解像度の低さ故に面白さや素晴らしさを見出せないことが起こりうるということになる。知識が無かった為にその作品を面白がれないということはアニメや音楽以外のエンタメ領域にも広く通底していることであり、何ならエンタメ領域の外にまで大きく広がっている事である。だからこそ私のような人間は多くのエンタメを自分の中に取り込もうと躍起になって生きていたりする。ただ、コスパやタイパで語られるようなファスト教養が叫ばれる世の中において、そんな生き方はある種無駄だと切り捨てられるだろう。だけど、そんな中でも心震えるような作品に出会った時や、そういう作品と作品の間に繋がりを見出したりした時の喜びは、コスパやタイパ等という言葉を簡単に蹴散らしてしまう。だからこそ私は、この記事を通して『無駄なことを一緒にしようよ』と言いたかったのかもしれない。
記事の本筋から話の逸れまくっているこの余談をここまで読んでくれたあなたは、もう立派に私と一緒に無駄なことをしてくれています。本当にありがとう。もし良ければ、余談の冒頭に書いた「ポップカルチャー定期健診」を聞いてみて下さい。では、またどこかで。
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