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『ラブカは静かに弓を持つ』(亜壇美緒/集英社)

「どんな物語だったか」を語ろうとすると、とたんに手が空をかすめてしまう。「心が動く」というのは、きっとこんな小説と出会った瞬間を言うのだろう。

上司の命令で音楽教室に潜入捜査することとなった、孤独な青年・橘。彼はある過去を抱えており、睡眠もままならず睡眠外来に通っていた。チェロ講師の浅葉の生徒となるのだが、やがて彼の演奏に魅了され、自分自身もまた再び音楽の魅了へとのめり込んでいく。

偽りのはずの人間関係のなかで優しさに出会い、孤独だった橘の世界は変わっていく。心に響く、圧倒的なみずみずしさを放つ音楽小説。(読書メーター投稿より)

この一冊を前にすると、わたしは途端に口ごもってしまう。再読した今も、この感動に当てはめられる言葉が、どうしても見つけられないのだ。ただ唯一言えることがあるとしたら、どうしようもないほどに「心が動いた」小説であるということだろう。

主人公である橘樹(たちばな・いつき)は、全日本音楽著作権連盟、通称・全著連に勤めている。上司である塩坪に呼び出されて向かうと、ある音楽教室への潜入捜査を命じられる。世界最大の楽器メーカーであり、音楽教室の運営でも名前をはせているミカサ株式会社。

そのミカサが、「音楽教室での演奏には著作権が及ばない」として、全著連に対して東京地裁に訴状を出すというのだ。もしその訴えが認められたなら、全著連は年間十億もの金額が徴収できなくなる。そこで、チェロの演奏経験がある橘に白羽の矢が立った。

「ミカサ音楽教室に生徒として在籍し、ほかの生徒と同じようにレッスンを受け、実際に教室でどのようなことが行われているかを調べて欲しい」
「……スパイをはたらけということですか?」(十九ページより)

そして橘はミカサ音楽教室を訪れ、チェロ講師である浅葉と出会い、彼の演奏に魅了され、自分自身も「音を奏でること」の楽しさに目覚めていく。

実は橘はある過去を抱えており、現在は睡眠外来に通っている身だ。眠れないからこそ朝から頭は冴えず身体も重く、それをコーヒーのカフェインでごまかし、また眠れなくなるという悪循環に陥っている。かつては友人も恋人もいたが、現在では業者以外は誰も家を訪ねず、孤独な日々を送っている。

橘は音楽教室に通いチェロを弾き、職場では一人で淡々と仕事をこなす。彼のなかには誰もたどり着けない場所があり、通院している睡眠外来でさえ、いつ手放して別のところへ通っても構わないと、つねに周りと距離を置き、人間関係を切り捨てながら生きてきた。

そんな彼が、浅葉の演奏に出会い、また彼の教え子達ともやり取りを重ねるようになり、再び音楽に魅了されるのと同時に、偽りの人間関係のなかで、優しさやあたたかさと巡り会っていく。

この物語の魅力は、どこにあるのだろう。孤独だった青年が、人との関わりを経てあたたかさを知ったことか。奏でるメロディーが響いてくるかのような、音楽小説としての素晴らしさか。それらも素晴らしいが、決してそれだけではない。

捨てたはずのものを必死にたぐり寄せながら、「生きていく」ことの尊さか。何かに失敗したり信頼を損ねたときに、そこから「どう動くか」という自分自身への問いか。それらが、何度も浮かんでは消えた。

安易に月並みな言葉を当てはめてしまいたくはないが、「感動する」という溢れるようや感情の渦を、強く感じた物語だった。みずみずしく繊細な文章、さざ波のような丁寧な心理描写。もしこれがステージだったなら、手が痛くなるほどに拍手し続けたい傑作だった。

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