東京レインボープライド直前!「生産性発言を忘れてはいけない」
さて、昨年の杉田水脈議員の記事が新潮45に掲載され、それに多くの人達が反発して随分時がたち、今年も東京レインボープライドの季節がやってきました。
杉田議員は何度かLGBTについて話をして、また、稲田朋美議員と共にLGBTフレンドリーをアピールしようと、二人が2丁目散策をしているシーンがアベマTVで流されるそうです。※201904274時半現在。
しかし杉田議員は議員としてあのようなトンデモもない記事を寄稿しながら、その言い訳に終始して謝罪の一言もいまだ在りません。そこで、今一度一番問題になっている「生産性」という言葉の何がマズイのかをお話します。
・性に関する自己決定権は人権の話しです。
ついに国が中途半端な謝罪と微妙な一時金を支払うということで「優生保護法」の被害者に対する救済法案が可決成立しました。さて、同法の問題はこの法律が施行されたときから「科学的根拠が無い、すぐにやめるべきである」と国連から忠告されていたにも関わらず、国が「生産性」を重視して個の人権を無視して強制断種を行ったとんでもない事例です。
20年ほど前に同法が改正され、強制断種は終了になりましたがその年に国連の人権委員会から「法律を改正したことは評価するが、被害者の救済に触れていないことが問題である」と人権査察にて強く勧告を受けています。
日本は20年以上前に「被害者救済を行わなければいけない」という事を知っていたにもかかわらず、何の手も打たずに被害者が司法へ訴えたことで「しかたなく頭をさげて、しかたなくちょっと賠償をする」という結果になったわけです。
さて、これらの話で重要なのが「自分の体のことは自分が決める」身体の整合性(Bodily integrity)は、体のことは必ず本人が決定することであり、他者が決定することは侵略行為であり犯罪的な人権侵害であるという話です。
これは、リプロラクティブライツ/ヘルスの問題でもあり、性と生殖に関する健康・権利は個人が自己決定するものであり、他者がそれらを決定することは許されないといった考え方です。これは、例えば子供を作ると言うことにしても、あくまで個人の自由意志で行われるものであり、逆に、産まないといった選択も当然個人の人権であるという考え方なわけです。
杉田議員の記事に書かれた「生産性」という考え方は、政治家であれば特に言ってはいけない重要な問題で、個人の自己決定剣や、個人の身体的な整合性に侵略する最低の発言であったという事なのです。
政治家の言葉は、社会的な力を持っています。それだけに、政治家が発した言葉はその政治家がしっかりと責任を持たなければいけません。前述した優生保護法の問題は、暴走した国が個人の人権にたいして「生産性」という国の道具としての見方をして起こしてしまった悲劇であり、重大な犯罪的行為だったわけです。
国家は国民の性や身体にたいして「生産性」といった見方をしてはいけないというのが、現代の人権としてあたりまえな考えであり、それが判っているから国も渋々、優生保護法の被害者に嫌々ながら頭をさげると言った形をとったのでしょう。
・杉田議員は何も変わっていない
生産性という言葉に関して杉田議員は何の謝罪も無く「LGBTを差別などしていませんっ!」と胸をはって言うばかりです。CSの番組で自殺者の多さの話を鼻で笑っていた議員が、何の謝罪も無く「LGBTの理解増進を考えて居ます!」とか言う言葉の何が信じられると言うのですか?
2丁目で飲んだら杉田議員の罪は消えるとでも?バカじゃないですか?アリエナイと思いますが、杉田議員が稲田朋美議員などと共に東京レインボープライドに参加するといった事も考えられます。しかし、その行為は決して許してはならないことであるのは言うまでも無いという話です。
・杉田議員を擁護するLGBT当事者について
念のため、松浦大悟元議員など杉田議員の擁護をする者たちが居ますが、クイアであるからといって差別者で無いという意味ではありません。杉田議員の行いを擁護するような人は、レインボーフラッグに集まるお金と、国家などの権力に興味があるだけで、その人達にプライドはありません。ゲイプライドは50年前のStonewallの蜂起で、権力に抵抗したことから始まっています。私達のプライドは、その抵抗から始まっているのであり、権力へすり寄る人達にプライドなど欠片も無いという話です。