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執着の種が美しい花を咲かすとき。【手放せないと苦しいときに読む記事】


20歳の時、「絶対結婚する!」と決めた人にフラれた。それをきっかけに、わたしは彼との”復縁”にのめり込んだ。四六時中、彼とどうやったら復縁できるか考え、大学の授業をサボって、復縁の方法をグーグル先生に聞き続けた日々は今ではもうセピア色。


そんなわたしが怪しい教材をくぐり抜けて出会ったのが、”潜在意識で復縁”という言葉だった。訳もわからず、ネット上にある復縁掲示板を読み込んだ。そこには、当時の自分からすると魔法のようなテクニックと復縁報告の書き込みが羅列していて、キラキラするような目で夜な夜な読み込んだのだった。


わたしは、復縁したくて、なんとしてでもその彼からの連絡が欲しくて、書いてあることを全て実践した。夜中にイメージングをしながら、彼が自分をハグしてくれる妄想で眠りにつき、朝起きたらすぐに彼からのメールで心が嬉しい気持ちでいっぱいになっていることを、布団の中で想像した。


その直後にスマホを見てゲンナリする。そしてどうしようもない落胆と怒りでいっぱいになって、また掲示板を覗く日々が続いた。





人はなぜ、執着するのだろう。

執着を手放せ、とは聞こえがいいけれど、手放してしまったら何もアクションを起こすこともできない。世の中には、感動ポルノみたいな”成功ストーリー”がたくさんあるけれど、なんとなくどの物語にも『諦めなかったから手に入った』のような匂いが漂う。この違いは何?そうやっていつも思っていた。


復縁に対してがむしゃらだったわたしは、あきらかに執着していた。その人との復縁に執着していた。けれども、気づけば復縁はどうでもよくなっていた。私は、素直に試しても試しても結果が出ないその”魔法のような法則”に、執着をするようになった。


気づけばそれが仕事になっていった、という話は私の鉄板ネタではあるけれど、今日はその話がしたかったわけではない。執着についての話がしたい。


別の表現をするならば、”執着はいかに起こるのか”という話と、執着が美しい花を咲かすか自分を食い殺す猛毒の花になるのかの違いについて書きたい。


いずれにしても、執着とは花なのである。誘惑的で魅力的で甘い蜜を持つ、花なのである。だからこそ人は、執着を手放したいと切に願いながらも、手放してしまうことをどこかで拒む。苦しくない執着との付き合い方を望んでいながらも、どこかでその苦しみに満たされてもいる。


どうせ抱くなら、人生の肥やしに。執着は毒ではなく、良い薬になるならどんな見え方ができるだろう?


さぁ、甘美的な執着の紐解きに入ろう。


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結論から言えば、執着の根っこにあるのは強い興味である。取り憑かれた魅惑である。

かっこよくいえば、執着の根っこには、自分の人生で欠かせない”惚れ込んでいる何か”がある。それは生きる力になるし、喜びになる。


何かに対する強烈な興味関心が根を張り、そして私たちは種や根っこではなく咲いた花しか見ていない。だから、執着を紐解くときは、フォーカスの先にあるものではなくその根っこにあるもの、種を見つけることが重要になる。


例えば、特定の人物に執着をしていたとする。その人物に好かれたい、あるいはその人物に必要とされたい、嫌われたくない、関わりたい、あるいは関わりたくない、など。


その人物に執着をしている場合、その人は種や根っこではない。花だ。何かに対する強い興味関心が種となって、結果的に咲いている花でしかない。そうやって考えると、フォーカスの先を見ても執着をしている根本的な理由がわからない。何に対する強い興味関心が、その人物に対する執着を生み出しているのかを知らなければならない。


そして、もっとも重要なのがここからだ。


強い興味関心とは一見するとポジティブに聞こえる。しかし、強い興味関心に対して、絶望感や敗北感が”加わっている”と、強烈な葛藤を生み出す。強い興味関心がありながらも、それに対して同じくらい絶望もしている。この組み合わせが、苦しい執着を生み出してしまう。


つまり、執着が毒となっているのではなく、執着の根っこにある”絶望感”や”敗北感”こそが、毒なのだ。



あなたがもし、お金に執着があったとする。あなたの友人も、お金に執着があったとする。

でも、あなたと友人は、同じ理由でお金に執着しているとは限らない。だから、実は”お金に執着する人”というカテゴリは非常に抽象的で、かつ本来であれば万人に対する解決策は提示できないのだ。その人の執着の矛先にあるお金ではなく、その人の強い興味関心と絶望感・敗北感を見つけなければいけないからだ。


では、どのように種と根っこを見つけることができるだろう?

このように想像してみよう。


ある人は、お金に執着をしていた。自分の収入に執着をしていて、自分の稼ぎに対していつもどこかでこだわって苦しんでいた。

しかし、本当の根っこはお金ではなく、”能力を発揮すること”に対する強い興味関心があったとする。もちろん、潜在意識で、なのでその人が普段から自覚しているわけではない。

能力を発揮すること、に対する探求、そして追求、その一つの”手段”や”ものさし”としてのお金がある。だからお金や稼ぎにこだわってしまう。なぜなら、お金や収入を通して『自分がどれだけ能力を発揮することができているか』という強い興味関心を満たしているからだ。


ただし、そこに苦しみがあるならば、強い興味関心があると同時に、同じレベルの絶望感と敗北感がある。


そうするとその人は、

”能力を発揮することに対して強い興味関心があると同時に、能力を発揮することに対して絶望して敗北感を抱いてもいる”


こととなる。


能力を発揮することに対して強い興味関心があるから”お金”を通してこの興味関心を満たそうとしているけれど、同じくらい”それは絶望的である”とも思っているから、どれだけやっても何をしてもこの強い興味関心を満たすことはできない。強烈に求めるのも自分だが、強烈に遠ざけるのも自分、そんな苦しい状態が完成するのだ。


結婚に執着してしまう人もいる。その場合も同じで、結婚にこだわりがあるのではなく、それは”手段”や”ものさし”でしかない。本当に強い興味関心があるのは何だろう?こればかりは推測の域を出られず、ひとりひとり違う答えがある。



よくあるパターンをひとつ例に出してみよう。結婚が、”異性に愛されること”としてのものさしになっているケースである。


異性に愛されることに対する強い興味関心があるだけなら?そこに対して純粋にまっしぐらに進むだろう。別に良いことでも悪いことでもない。異性に愛されることへの執着が悪いのではなく、それに対する強い興味関心と同じだけの、”絶対に無理だけどね”があること、それが問題なのだ。


人と人とが生涯を共にするということに対して強い興味関心があって、それが結婚への執着につながっている場合もある。赤の他人と人生を共にすることにものすごく心が惹かれ、吸い込まれるような魅惑を感じている。それだけなら、いわゆる”心がときめく選択”でしかない。



でも、”絶対に無理だしね”もしくは”無理だったしね”という絶望感と敗北感がセットであるとどうだろう。たちまち毒々しいネバネバした執着に変わるのだ。

同じレベルの絶望感や敗北感がなければ、もはやそれは執着というより、ただの強い興味関心に突き動かされた”能動的な探求”でしかなくなる。


だから、心が強く惹かれている興味関心に向かってただ生きることができる。できないことや分からないことがあっても気にならず、子どものときにハマった遊びやゲームのように”少しずつできるようになっていく喜び”でいっぱいになる。執着しなければ喜びもない。毒はいらないが、心に花は必要だ。



絶望感も敗北感もない”ただの執着”は、特別落ち込むこともない。もはやそれは一般的な意味で執着とはいえないのかもしれない。健全な執着であり、サラサラしている。靴底にくっついたガムのような鬱陶しさもなく、かといって全然どうでもいいわけでもない。


これが、執着から毒を抜いた、美しい花。そして、誰でもこの花を咲かすことができる。




ここまで読んでいただければもう何となくお分かりだと思うが、手放すべきは執着の先にあるものではなく、絶望感や敗北感なのだ。


好きな人がいて執着していて苦しいなと思うなら、その好きな人への執着を手放すのではなく、あなたの心の根っこにある”絶対無理だしね”とか”今まで無理だったしね”という気持ちを、勇気を持って取り出してみる必要がある。


どうしても叶えたい収入の額があって苦しいな、何だか毒されているなと思うなら、


お金や稼ぎに対する執着は手放さなくても良いから、あなたが心の底で惹かれている何かにまずは正直になってみよう。と同時に、自分の中にある絶望感と敗北感を、これまた勇気を持って見つめてみるのだ。



そして、執着は、そのままに。絶望感と敗北感を感じている自分に優しいハグを。抱きしめることから始まる執着の手放し方があるということを、伝えたい。それは飽きるまで、いつかの自分がされたかったように、芯から緩んで深い眠りにつけるほどに。



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最後にちょっと、20歳の私を振り返ってみる。


復縁に執着していたあの頃。強い興味関心は『好きな人にずっと好きでいてもらう方法』だったけれど、同じくらい『好きな人にずっと好きでいてもらうなど絶望的なことである』と思っていたのだろう。


好きな人にずっと好きでいてもらうなど絶望的であり、かつ私はそれに一度、敗北している。


父の顔が浮かんだ。1歳でバイバイした父。7歳で再び離れた父。一緒にいると思ったらいなくなる父。おそらく私は、勝手に絶望している。もう、父はどうでもよい。わたしがすることは、わたしに対することだけ。

絶望感にあらがわず、ハグをする。1歳の私に、7歳の私に、思いつくがままのすべての私に、絶望感と敗北感を溶かすほどの強い愛で、気が済むまで何度でも。


苦しい執着に出会ったら、何度でもハグすればいい。そう思えば、何と気が楽なことだろう。自分を責めるより、ありったけの愛で接する方法を身につけた大人でいたい。



あぁ、元彼よ、フってくれてありがとう。あなたのおかげで私は自分の心に出会う知恵と美しい花を手に入れたワ。今どうしているだろう、夢叶っているといいね。



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★おまけ★

復縁なんてどうでもよくなって、潜在意識を使った願望を叶える法則とやらに執着をした私の強い興味関心は、ただシンプルだった。


「願いの叶う仕組みが知りたい」

そして、そこには敗北がなかった。絶望感もなかった。私はただ真っ直ぐに突き進んだ。そうしてその専門になったのだった。(願いを叶える専門ではなく、仕組みの専門になった)


人生は、おもしろい。


もし人生が無条件に自由で豊かだったら何をするかと言われたら書く、というくらい書くことが生きる上で欠かせない人間です。10年間の集大成を大放出します。サポートは全て執筆と研究活動に使わせて頂きます