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「何がやりたいのか分からなくて苦しい」ということが人生から消えたとき【なぜ、自分のやりたいことが分からないと人は苦しむのか】



私たちは、様々な現象を通して常に自分自身とのパートナーシップを築くそのプロセスにいます。自分自身とのパートナーシップを築く、というのはつまり、自分という器の中にある様々な機能や性質、素材というものをいかに調合して生命を形づくるのか、ということです。ですから、自分自身とのパートナーシップを築くことに終わりはありません。つくっては壊れ、つくっては壊し。その連続をひたすらやるのです。


つくられた形が自分なのではなく、そのプロセスの中に”自分”がいる、ということを楽しめるようになると、せっかく築き上げた自己像が壊れることを恐れません。


10年かけて蓄積してきたセルフイメージを一瞬にして壊したとしても、そのセルフイメージが自分自身なのではなく、それを”つくっている存在”が自分自身なのだと知ることができれば。どんな自分が”出来上がったのか”という結果論よりも、どんな自分を”なぜつくったのか”というプロセスに目を向けるようになります。


しかし、最初はそのように思うことはできません。自分の作り上げたセルフイメージ”そのものが”、自分である、と信じることが生きる力となっているからです。自分には自分がはっきりわかる、この自覚はとても重要ですが、決してゴールではなく一つの点です。人はずっとそこに居続けることもありません。セルフイメージをやりきると、今度は自分がわかることへの必要性から解放されるのです。


なぜ、「自分が何をしたいのかわからない」ことが悩みになり、なぜ「何がしたいのか分かった」らスッキリするのか。疑ったことはないでしょうか。


なければぜひ、疑ってみてください。そもそもなぜ、「自分がわからなければ苦しい」のか。なぜ「自分がわかると楽になる」のか。その問いを楽しんでみると、自分探しの本質が見えてきます。


きっとどこかに”分かっている自分”がいるという前提で、”分からない自分”が今ここにいるから、きっと何かがおかしいのではないか、というカラクリがあるわけですが、でももし、そもそも”分かっている自分”がどこにもいなくて、”分からない自分”しかしないのだとしたらどうでしょう。


あの人のことが好きか分からない。この仕事を本当にやりたいのか分からない。”本当は分かっているはず”は、どこから生まれるものなのでしょうか。今ここにはっきりと存在しているのは、”分からない自分”なのではないでしょうか。つまり、”分かっているべき自分”は、自身が作り上げたセルフイメージであるということ。そして、そのセルフイメージは、あなたが作り上げたものだから、いつどんな時でもあなた自身が破壊することもできる、ということ。



「何がやりたいのか分からなくて苦しい」ということがわたしの人生から消えた瞬間は、わたしが探すのをやめた瞬間でした。



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あなたがもし、悩みを持っているならば、必ずそこに恐れている未来があります。そして、その未来はなりたくない自分を含んでいます。そこには恥ずかしい自分がいます。今まで作り上げたセルフイメージをぶち壊すような自分がいます。その未来を避けているのではなく、そのような自分になることを避けているのです。しかし、その未来にいる自分も、自分ではありません。あなた一人が自分のことをダメだと思っても、あなた以外の全ての人がそう思わなかったとしたら、”ダメな自分”は果たして本当に存在するのでしょうか。自分を信じるというのは自分を握りしめるということではないはずです。あなたが自分をダメだと思っても、一人の他者がそうだと思わなければプラマイゼロです。どうして自分が思う自分だけにこだわるのでしょう?



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困ったとき悩んだとき立ち止まったときほど、”らしくない方”を選ぶ


このようなノウハウは、違う表現を通してずっと昔から語られてきました。一方で、”らしさを選べ”という教えも同じくらいの数だけあります。では、このようだったらどうしましょう。



困ったとき悩んだとき立ち止まったときほど。


ほど?・・・ほど。終わりです。続ける必要はありますか?続ける必要がないとしたら。脳みそは停止するかもしれません。もちろん続けてもいいけれど、「終わらせてもいい」のだとしたら。


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自分とパートナーシップを築く、そして自己を知る、というプロセスにおいて人は、自分自身のセルフイメージに対する過信に気づきます。そして、過信を捨ててもっと世界に両手を広げると、実はそこには多くの可能性があることに気づきます。あなたを評価する人の数だけ、実はあなたは存在するのです。そして、あなたを評価する人の数だけ、あなたの存在は可能性があります。自分の中につくりあげたたった一つのセルフイメージだけを採用することもいいけれど、選択肢を増やすこともできるということです。


Aさんはわたしのことを素敵だと言った。Bさんはわたしのことを、なんてひどいやつだと言った。Cさんはわたしのことをツマラナイ奴だと思っていて、Dさんはわたしのことをくだらない奴だと思っている。


素敵なわたしもひどいわたしも、ツマラナイわたしもくだらないわたしも、誰かの中に存在しています。どの存在でいることも許可されています。だって、事実誰かの中にそのような自分がいるわけですから。それはその人の勝手な思い込みだと言えばその通りですが、誰にも思い込まれないとしたら存在していると証明されることはありません。わたしたちは自分の中にあるセルフイメージだけになったとき、つまりは死を意味するのです。誰の中にもイメージを持たれなくなったとき、人体は生きながらえていても、存在としては死を迎えます。それが人の拒む、根本的な孤独です。



しかし、誰かに思い込まれるということは恐るべきことではありません。10人の他者があなたのことをどう解釈したとしても、”その中の全ての人物である”とも言えますし、”その中のどの人物でもない”とも言えます。あの人は自分のことをこう思うけど、この人は自分のことをこう思う、その中に”わたしはわたしのことをこう思う”というのがあるだけ。自分に対するセルフイメージも、他者からのセルフイメージも、同じカテゴリなのです。クローゼットの中にあるたくさんの洋服と同じように、選んで着替えてまた脱いで。季節や環境とともに楽しむように、新しい出会いでまた見つかる、”その人の中にいる自分”を楽しみにする。そんなのも、アリ、ってことです。そうやって考えたら、人にどう思われようと自由、という意味が変わってきます。


人にどう思われても気にするな!お前はお前の思う、お前を生きろ!そういうことではなくなって今度は、『人に思われた数だけの自由がある!その可能性を許可されている!自由に選べ!』となるわけです。ちょっと不思議な感じがするかもしれませんが、想像して楽しんでみてください。


好きな人にウザイと言われたとき。あなたは”ウザイ”という存在であるというハンコを押されたわけではなく、”ウザイ存在でもOK”という許可がそこにあるだけなのです。どう思われたっていい、という話ではなく、どう思われたとしても、それはただの洋服だってことです。あなたはその洋服を着ることもできるし、着ないこともできる。着れる洋服が増えると考えてみたら、可能性はただただ広がるばかりです。


自分の持つセルフイメージに囚われる必要はない、ということ。そして、そうすると、ある種の自分探しが終わります。探すのは決めたいから。決めたいのは安心したいから。でも、決めなくても安心したらいいとしたら?誰かが自分をどういう風に思ったとしても、”勘違い”なんじゃなくて、”そういう自分もいる”という可能性の方を受け取れたとしたら?そして次にスタートするのは、”自分という洋服選び”というフェーズなのです。



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自分探し、というのを誰もが一度はしたことがあると思います。生年月日などで自分の運気を調べたこと、誰かに自分の良いところを聞いたこと、自分のやりたいことがわからなくなって悩んだこと、本音に気づきたくてノートに殴り描きしたこと。


囚われる必要はない、と書きましたが自分探しというプロセスは、とても重要でありかつ滑稽です。なぜなら、自分を探すという時点で自分を失うからです。分からなくなるから探すのではなく、探すから分からなくなるのだとしたら?自分探しをし続ける限り、自分を見失い続けるという循環が続きます。その滑稽さに気づき、そのサイクルから脱する時は、もう十分に回りきった時でしょう。くるくると何周もして、「あれ、同じ景色だ」と気づくと足を止めるでしょう。そして足を止めることができたときに、違う道がやっと発見できます。違う道を見つけた後、また自分探しのサイクルに戻ることもあります。それはそれで別の楽しみ方ができるようになっています。一度でて戻るから、自分探しが”楽しい”となります。


ただし、自分探しのサイクルの中で足を止めることは怖いことです。みんなが何も疑わずに前習えしながら、”自分探しの輪の中で”、自分らしさを発揮しようとします。らしさに閉じ込められることは素晴らしいこと、それが執着になれば個性の押し付けにしかなりませんし、その中では、らしさを持たぬ者は敗者となります。あくまでも自分探しのサイクルの中にいる場合は、です。だから、ぐるぐるぐるぐる回っているな、と思う人はそこで足を止めて、サイクルの外に飛び出してみる。どうするの?と聞かれるとちょっと困ります。まずは疑ってみなくては始まりません。探すのか、それとも「今あるものを観る」ために足を止めるのか。


自分がわからない、と苦しんで、さらにそれが何度も繰り返し人生で訪れてきて、いい加減ちょっと「あれ?」って思う人は足を止めてみてください。分かっている自分はどこにいるのでしょう。そこにいるのはどんなあなたでしょう。あなたが欲しがっている”分かっている自分”が、どこにもいないのだとしたら。今いるあなたは、どんなあなたでしょうか。


飛び出したら今のあなたを”着て”ください。そして明日また、脱いで構いません。どんな洋服がクローゼットの中にあるのか、日々開けてみないとわかりません。人と出会うということは誰かの中に自分のイメージが創られるということです。人と関わるということは、その人の中にいる自分のイメージと関わることです。あなたがあなたを恐れない限り、誰かにどう思われるかを気にする必要は無くなります。それらは自由や可能性でしかなく、あなたを縛りつけるものではないと分かったなら、自由気ままに脱ぎ着できる”私というイメージ”を楽しめばいいのです。




もし人生が無条件に自由で豊かだったら何をするかと言われたら書く、というくらい書くことが生きる上で欠かせない人間です。10年間の集大成を大放出します。サポートは全て執筆と研究活動に使わせて頂きます