見出し画像

彼女はバジルの香り

 質実剛健な公立大学の文学部、それも国文こくぶんのゼミ教室に、パンクバンドの追っ掛けみたいな女の子が現れた時の衝撃を想像してみて欲しい。

 それが僕と彼女、松本茉莉香まりかの出会いだった。

 名前だけ聞くと、淑やかで真面目で可愛らしい子を連想するが、ゼミ教室に現れた彼女のいでたちに、先生以外の全員が、開いた口が塞がらなかった。
 ファッションは、パンクギャルが好きなイギリスの某ブランド。タータンチェックの赤いミニスカートに二―ハイソックス、厚底の靴。真っ赤な口紅、バサバサと瞬きのたびに音がしそうな付け睫毛。髪はド金髪で縦ロールに巻いている。ちゃんとご飯を食べているんだろうかと思うほど細い。でも美人だ。純粋な日本人なんだろうかと思うほど、彫りが深い。

「おお、松本。入って入って」
 先生だけは彼女のことを知っていたのか、最初からちゃんと名前を呼んでいる。全員が「頼むから隣に来ないで」と思っていたんじゃないか。彼女はフンとそんなゼミ生を鼻で嗤い、なぜか僕の隣にドスンと荷物を置いて座った。

 彼女はどうやって三年生まで進学したんだろうと疑うほど、キャンパスで見かけなかった。でも、ゼミの時間だけは真面目にキャンパスに現れる。

「あの子、先生に枕営業して単位もらってるって噂よ。繁華街のスナックでバイトしてるって」
「二の腕に、さそりのタトゥーがあるんですって」
 他の子と全くと言っていいほど口を利かず、歩み寄ろうともしない彼女に、男子の中には格好良いと思っている人もいた。でも女子たちは、和を乱し、男子の気を引く彼女を面白くないと思ったらしい。

 そんな彼女にまつわる噂は、一部は真実だけれど、残りは嘘だと知ったのは、ある寒い夜のことだった。僕らの住んでいる土地は、五月でも雪が降ることがある、寒いところだ。この日も小雪がちらつきそうだというくらい寒かった。

 工事現場で、自動車を誘導する人が、とても小さく細い。
「オーライ、オーライ」
 声は、女の子じゃないか! 思わず横を通り過ぎるタイミングで顔を除く。……松本茉莉香じゃないか!!
「あ」
 彼女も僕に気づいた。一瞬バツ悪そうな表情が浮かんだ後、ブスっと睨みつけてくる。
「工事現場でバイトしてちゃ悪いかよ」
「いや、悪いとか全然」
「おーい、まりかー。お前、休憩入ってー」
 一番年嵩としかさと思われる男性から声を掛けられ、彼女は渋々顎をしゃくった。自動販売機で熱いコーヒーを僕の分まで買ってくれる。

「うちはシンママなんだよ。母さんの稼ぎがあんまりだから、ホントは高校卒業したら就職しようと思ってた。……でも、高校に出張講義に来てくれた大学の先生が、あのゼミの指導教官でさ……。あたし古文好きだったの。講義の後、質問しに行ったら、すごい丁寧に教えてくれてさ。『ぜひ大学においでよ、待ってるよ』って。そんで親に無理言って大学行かしてもらったんだけど、生活と学費が大変で……。なるべく借金したくないから、夜もバイトしてんだわ。噂されてるような水商売じゃなくて、こっちだけどね」

 彼女は自虐気味に眉を段違いに歪め、唇を震わせて、どうにか微笑らしきものを顔に貼り付けている。

「偉いね。自分で学費を稼いで、お母さんを助けて、大学にも入って。全部実現できた松本は立派だと思うよ」

「ちょ、な、なんだよ! 調子狂うな。……他の奴らには言うなよ。同情とか嫌なんだよ」
 彼女はちょっと頬と鼻を赤くしている。その表情は年相応で可愛らしいなって思った。

 僕にとって、松本茉莉香は少し気になる同級生に昇格したけれど、僕はとんでもなく内気だったから、ゼミで彼女に話し掛けることなんかできやしない。

 季節は、短い夏に近付いていた。
 そんなある日、ゼミ室に現れた先生に、いつもと違うところが一つあった。

 ……左手薬指の指輪だ。

 目ざとく気づいた女子学生たちはキャーキャー騒ぎ始めた。
「えー、先生、結婚したんですか?」
「お相手は?」
 みんなは芸能レポーターばりに質問を浴びせかける。頬を染めてにやけた先生は、大学時代のゼミの後輩で、卒業後に交際を始め、彼女の妊娠を機に入籍したのだと打ち明けた。既にお子さんまでできていると聞いて、学生たちのテンションは上がる。……茉莉香を除いて。

 この話題が始まってから、彼女は表情をこわばらせ、少し青ざめている。唇を噛み締めて、せっかくのルージュが剥げ始めている。

 あっ……!!

 僕は単純な真実に気づいた。大学進学などする気がなかった彼女が、難関とされる公立大学を目指した理由、バイトに追われて碌に講義にも出れてないのにゼミだけは休まずに参加している理由に。

「え、えっと……。先生、ご結婚とお子さんおめでとうございます。とっても喜ばしいニュースだと思うんですけど、もうゼミの時間、だいぶ食ってますし。その話をしたい人はゼミが終わった後に、先生がご都合良ければにしませんか? 始めましょうよ」
 少しでも彼女のショックが和らげばと、僕は、この話題を終わらせようと割り込んだ。何人かは「お前、空気読めよー」などとぼやいたが、殆どの人がバツ悪そうに素直にテキストを開いた。

 ゼミの後、予想通り殆どの学生がその場に残ったが、茉莉香はすぐに荷物をまとめてそそくさと教室を出て行く。僕は目立たないようそっと彼女を追う。

「松本!」
 彼女は走り始めた。慌てて追い掛ける。向こうはいかにも歩きづらそうな厚底靴だし、こっちはスニーカーだ。あっという間に追いついた。だが、彼女をここまで追い掛けたことを僕は少し後悔した。彼女は大粒の涙をこぼしていたのだ。

「……んだよ。追い掛けてくんなよ。見んじゃねえ」
 僕はデニムのポケットからよれよれのハンカチを取り出して彼女に手渡し、背を向けた。
「そんなんで良かったらもらって」
 彼女はちょっと笑った。
「ふふっ。……よれよれじゃん。でも、ありがと。……何で分かったのさ」
「だって、大学行く気がなかったのに、先生の講義を聴いてここまで追い掛けてきたんだろ? バイト三昧で忙しくて他の講義は取れなくても、先生のゼミには絶対来てる。よっぽど好きだったんだなって。そりゃショックだよ。あんな話するほうがデリカシーないよ」

「あんたいい奴だな。……悪い、ちょっと背中貸して」
 彼女はハンカチを顔に押し当てて嗚咽しながら僕の背中に凭れた。

 少し胸が痛い。
 ……これは、失恋した茉莉香に共感しているからだ。

 その後数週間、茉莉香はゼミに現れなかった。数回ゼミを欠席した後、現れた彼女は、まるで別人のようだった。黒い真っ直ぐなロングヘア。控えめなメイクで、リクルートスーツに身を包み、足元はパンプスだ。

「先生。私やっぱり大学を辞めることになりました。今、バイトでお世話になっている建設会社が雇ってくれるので、就職します。先生がいらっしゃらなかったら、大学になんて進学しようとも思わなかったですし、こうして古文の面白さを学ぶことはありませんでした。これまでお世話になりました」

 先生は眉を下げて、残念そうな表情を浮かべている。
「そうかぁ……。高校の出張講義を聴いて、目をきらきら輝かせていたお前のことが忘れられなかったよ。こうして大学にまで来てくれて、嬉しかったよ。ご家庭の事情もあるだろうけど、バイト先なら、きっと人間関係も良いだろうし、頑張ってな。いつでも遊びに来ていいからな」

 元々ゼミ生は茉莉香とそれほど親しくなかったから、通り一遍の挨拶をして、彼女はすぐに教室を出て行く。僕は堪らず追い掛けた。
「松本!」
「あ、わりぃ。ハンカチ返すの忘れるところだった」
 彼女はリクルート用の黒い地味なバッグから、綺麗に洗濯してアイロンを掛けたハンカチを取り出した。

「……返さなくていいって言ったのに」
 せめて、ハンカチ一枚でも、彼女が僕を思い出してくれるものを持っていて欲しかった。だが、彼女はかぶりを振る。

「他の男からもらったもの持ってたら、彼氏に悪いからさ」
 不意打ちに、僕は腹をパンチされたように身動きが取れない。言葉が出ない。そんな僕に気づいているのかいないのか、茉莉香は話を続ける。

「失恋してしょぼくれてたら、今度就職する会社の先輩が親身に話し聞いてくれてさ。……前から好きだった、今はその男忘れてなくていいから付き合ってくれって」

 そのハンカチからは、ほんのりハーブの香りがした。
「……良い匂いだね」
「ああ! イタリアンの厨房でもバイトしてたんだ。家でバジル育ててるんだよ。物干し台でね。たぶんその匂い」
 喉奥に熱いものがこみ上げた。でも、厳しい環境で頑張ってきた彼女、新しい世界に飛び込もうとする彼女に僕が言うべき言葉は……?

「松本。君はさ、楽じゃない家庭で育って、親きょうだいを助けて、立派にやってきた。公立大学に入れるほど頭も良いし勉強も頑張った。そういう君を見ててくれた人だから、きっと、その彼氏も良い人だと思う。……幸せになれよ」

 彼女の瞳が優しく潤んだ。
「この大学に来て、あんたと友達になれたのだけは良かったな。バジルの花言葉って知ってる? 『幸運』だよ。あんたにも幸運のお裾分け。勉強とか就職とか恋愛とか、頑張れよな。あんた地味だけど優しいから、見る目ある女なら絶対好きになるよ。自分から行けよ。女はさ、言ってもらうの待ってるんだ」

      *

 数年後、妻と腕を組んで街を歩いている時に、小さな子供二人に振り回されているパンキッシュなファッションのカップルがいた。その二の腕には蠍のタトゥー。思わず振り返ってみている僕に、妻は不思議そうだ。
「どうしたの? お知り合い?」
「……いや。たぶん違うと思う」
 茉莉香。君は君の幸せを掴んだんだな。僕も僕の幸せを掴んだよ。

「ランチはイタリアンにしない? バジルのスパゲティが食べたくなったな」
「あぁ、いいわね!」

 僕は妻と微笑みを交わしながら、カジュアルなイタリアンレストランのドアを押した。

      (了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?