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『情報』にも『他人(ヒト)』にも流されずに。

少し感じたことを書きますね。

今朝『新しい考えかた』を見つけました。それは僕が憧れる『松浦弥太郎さん』のインスタグラムがヒントになったのです。

松浦さん曰く、日々SNSやマスコミで飛び交う『情報』には『信じることも疑うこともしない』のだそうです。僕は『好嫌』の判断しないのも同じだと思いました。

しかし、自分が興味をもったこと、『ん?』と感じた情報は、自分で調べて深掘りするのだと仰っていました。

ここからは僕の持論ですが、それではまだ『知る』段階。いわば『感覚器官』に情報を通しただけではないか。

実はそこからの『知識の積み上げ』が肝心でして。

知識の断片が集まると、ある分野での共通項が『発見』できる。ていうか断片的な知識が一つのテーマに向かって吸い寄せられるように『集合』して行く。

そして突然『これだ』とひらめくのです!

それが本当の意味で『知る』ということでしょう。心の深層部に『知識』が刷り込まれ、自分の血肉と化すのです。

これは『人に対して』も同じ。

日々色々な人のことを目にする耳にする。それも『好』『嫌』の判断をしないのです。人のことに接しても『こういう人もいるんだなぁ~』程度にとどめておく。そして忘れる。

交流したいと思う人とだけ言葉を交わすのです。どうしても付き合わざるを得ない人とは、その『どうしてものこと』のみに限定ですね。

『情報』にも『他人(ひと)』にも流されずに、自分の人間性を高めることに集中する。それは確固たる自分を作ることに、繋がるなるかなと思ったので、noteに投稿した次第です。

もっとこの考えを深めたいですね。

ひとつだけ具体例をあげると。最近、心に響いたことは『科学技術が人間を豊かにしたのか?』です。

きっかけはおととい4月8日のこと。その日は『花まつり』でしたので、お釈迦様に関連した『この本』を読んでいたとき感じました。


 むろんデカルト以後、それは主に西洋人の常識にもなり、今や「個」の自立や、これから合理的に世界を解釈することは、すべての現代人の常識になりつつある。世界は合理的に解釈されるべきものであり、非合理は「迷信」と呼ばれ、それはいずれ「科学」の進歩によって克服されるべき恥部のように考えられている。
 まるで人間の理知が、以前の神の如くに信じられているのである。
しかし人間の合理性が推し進められた科学は、はたして世界の「謎」を減らし、人を「しあわせ」へと導いているのであろうか?
現代語訳 般若心経 玄侑宗久著 ちくま新書

この一文がどうしても引っ掛かっています。これから『しあわせ』『便利さ』『科学技術』『原発』をキーワードに『真の豊かさとはなにか?』を深く考えようと。まとまったらnoteに書きますね。

この拙文が皆さまの『仕事』や『生活』の参考になれば幸いです。

それではまた。

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