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「正解」について考える

正解や最善、最良を求めるから、苦しくなるんですよね。

もう、どうしたらいいのか。

次女の学校行きしぶりが悪化してきました。

先日は、遠足も欠席。

好きなおやつも買って、遠足前日は念入りに準備していたのに、なぜ?

わからない。

正解はない。

自分に言い聞かせているのだけど、私の感覚と次女の心情はあまりにも違うように思う。

「時代が違う」という理由でひとくくりにしていいのか?

遠足は、学校生活の中で数少ないビックイベント。

遠足に行ったあとはきっと学校で「遠足の思い出」を書いたり描いたりするだろうし。

あとあと振り返る機会も多いだろうに。

「あのとき遠足行っておけばよかったのに」っていつかきっと後悔するんじゃないかと思ってしまうんです。

小学校一年生に「あとで後悔するよ」っていってもわからないだろうけどな。

次女は今、とても辛そうだ。

私の様子をうかがいながら「学校に行きたくない」とおそるおそる訴えてくる。

上目遣いで私をみつめる次女の瞳がキラキラして見えるのは、涙がいまにもあふれそうだから。

学校という場所が嫌いなワケではなくて、勉強についていけないワケでもないみたい。

集団生活になじめないワケでもない。

「おうちにいたい」
「ママと離れるのがさみしい」

これが行きしぶりの原因のように感じます。

そりゃ、みんなそうでしょ。みんなおうちにいたい気持ちとうまく折り合いつけてやってるんだよ。

私だっておうち大好きだし、パートに出てる時も早くおうちに帰りたいって思いながら働いてるよ。

あんた、そんなんで社会人になったらどうするのよ。そう思うのは、私の考えが古いから?

担任の先生は「無理して登校させなくて大丈夫」と言ってくれている。

そう言うしかないのだと思う。

昨今の「多様性を受け入れる風潮」あってのことだと思う。

強く登校するようにすすめれば、強要されたと訴えられるかもしれない。スパルタ教育だと噂されてしまうかもしれない。

【学校に行きたい子、行きたくない子、みんなちがってみんないい】

本当に、それでいいの?

私も、多様性の波にのまれている。

次女の行きしぶりに対して確固とした態度にでられないのは「多様性」がチラつくから。

今も私の隣で、明日学校に行きたくない次女が私の様子をうかがっている。

「学校なんて、行かなくていいよ。」私には言えない。だってそんなこと思ってないもん。

学校じゃなきゃできないことはたくさんある。

いっぱい失敗して、いっぱい怒られて、いっぱいわらって過ごしてほしい。

できることなら、私と次女が入れ替わりたい。もう一回小学校からやり直したい。

大人になった今、学校での生活がとても懐かしく、恋しい。

あれ?

このnoteを書いてみて気づきました。

私は、次女を通してかつての自分を見ているのかもしれない。

ものさしの基準が「私」だから、次女の行きしぶりが理解できないのでは?

問題なんてシンプルで、正解なんてとっくに出ているのかも。

ものさしの基準を「次女」にする。

そういうことね。

どういうこと?

結局よくわからないまま。

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