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Marigold and Rose

MarigoldとRoseは双子だ。薔薇は木本植物で毎年一回りずつ大きくなりながら同じ場所で花を咲かせ続ける。マリーゴールドは一年草だから、次の年にどこから出てくるのかわからない。ギリシャ神話のポルックスとカストルの双子星のような子どもたちの内面世界が主役だ。文章は子どもの心のなかをエミュレートするときもあるし、子どもの考えていることを想像する母の心が出てくるところもある。素朴な成長記録だと思っていたら、まだ言葉さえ持たなかった頃に存在していた小さな世界に視座が切り替わるように感じる一文が混ざってきて侮れない。むしろその、はた目から見たあどけなさと、その心のなかの神秘がコントラストを持ちつつも不可分に存在するところが文章の魅力を作っているのかもしれない。

Marigoldはまだ小さくて、言葉を話さない。文字も持たない。でも、もう彼女の物語を持ち始めている。最初の言葉は「ずっとずっと昔」だ。そこから先へは中々進まない。

乳児にとってのずっとずっと昔って、どんなものなんだろう。私の場合、4-5歳ぐらいの時には時間感覚や懐かしさを知っていた思い出があるし、小学校低学年で「昔こんなことがあった」といういい回しを学童保育の保母さんに笑われた記憶もある。けれど、言葉を持たなかった頃のことは意味づけて整理することすらできなかったから、何も思い出せない。その頃から少しずつ獲得した言葉である日本語には、単語や言い回しの一つ一つに情感のような味や手触りが、ほとんど共感覚と言っていいくらいに付随している。英語にはそのような、一単語一単語にまつわる記憶や情緒的感触のようなものが薄い。あの形のないイデオグラム的なものは、言葉を持つ前の言葉の名残なのかもしれない。

時折、難しい単語も言い回しでもないのに、何を読んだのかよくわからない一文が混じる。この著者独特のもので、他にほとんど覚えがない。いつもの散歩道を歩いていたら、気が付いたら知らない異国の街にいて、かと思ったら元通りの散歩道にいて、今何を見たのか、何でそう感じたのかどうしても思い出せなくなっている。そんな印象が残る。わからない、の後ろに意味があるのか、ないのかはどうでもよく、何となくわからない感じが楽しい。それは夢の中で起こった出来事のように、不条理でいながら納得感があるからだろう。

薄くて読みやすそうだから手に取った掌編だったが、著者はLouise Glückでノーベル賞を受賞した詩人だそうだ。調べたら読み解き方や、位置づけなんかも出てくるんだろうか。そういう読み方をせずに読んでもいい本のようなので、あえて検索せずに読後感を楽しむことにする。今日はいい夢が見られそうだけど、起きた後思い出せるといいな。

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