モヤモヤを言語化する、の段

書くことないだけ

 日常の中で皆がやっているはずの頭に思い浮かんだものを言語化するという動作。それは、実はかなり頭を使うことなのではないか、と最近思うようになった。このきっかけは、僕の周りのオタク達が「無理」「てぇてぇ」「死」という鳴き声を沢山発するようになってからというものの、僕の本能が「あ、なんかこいつらと同調したくないわ」と語りかけてきたから……というもの。つまりはいつもの逆張り精神、天邪鬼ゴコロ、あるいは高二病の発想と呼ばれるような、直すつもりもない悪癖が引き起こした現象である。

 この「鳴き声」が悪いものかというと決してそういうわけではない、と思う。そもそも「ぴえん」「マジ卍」など、鳴き声なんていうのはオタク以外もよく発しているものであって、別にオタクだからどう、なんていうつもりは一切ない。僕だって厄介オタクなのでブーメランが刺さるだけだからだ。

 では何故僕は鳴き声を発するのが嫌と感じるのか。それはきっと、その鳴き声の特性にあるのではないかと考えている。

鳴き声の特性とはなんぞや

 鳴き声の特性、それは「考えることなく使える」というもの。別のもので例えてみると、スーパーのお惣菜やコンビニ飯などが該当するだろうか。これらは、買ってから温めればもう(大体のものは)おいしく食べられるものだ。つまり、面倒くさい調理の過程をすっ飛ばせるのである。

 言語化というのはいわば料理で、単語や文法といった具材を修飾語などのスパイスと絡めたりすることで一つの文章、ことばが出来上がる。つまり言葉を発するためには、具材を選ぶ、スパイスを選ぶ。調理法を考える、味見をする――こういった、調理の過程をおく必要があるのだ。

 その点、鳴き声=スーパーのお惣菜やコンビニ飯というのは、わざわざ調理しなくてもそれだけでもう出来上がっている。料理が成立しているのだ。あとはこの料理が好きそうな人間にそれを出すだけであら不思議、かんたんにコミュニケーションが成立する。ちなみにここで最も重要なところは「料理が好きそうな人間」ということで、その料理が好きそうじゃない人間に渡しても「ペッ、なんだこれ」ってなるので注意が必要だ。

俺はモンスターじゃない

 この「考えることなく使える」――僕はこれがきっと、一番引っかかったんだと思う。ふと、「好きなものを言語化するときに、それでいいの?」と考えてしまったのだ。「言語化出来ないほど」って、それただの言い訳じゃないのか? と思ってしまった。一度そうなってしまったらもう全てが終わりで、ムクムクと反骨心が育ち、結果としていつもどおりの協調性のない厄介ピープルが誕生した。

 だって、鳴き声だけじゃ結局どこがいいのか分からないじゃないか。何も分からない、伝わらない。AとBの絡みに対して「てぇてぇ」と言うのより、「Aのこんな言動に対してBがこう返したところ、ここにこういったAとBの○○のような関係性を感じて心がキュンときて、めっちゃいいな、って思った」の方が何倍も伝わるに決まっている。鳴き声単体で伝わるならそいつらは間違いなくエスパータイプ、もしくはモンスターだ。幸か不幸か、僕はエスパータイプではないしモンスターでもないので、いくらくどくても後者の方が好ましいと感じるし、前者じゃ全く意図が通じない。

 だいたい、「鳴き声じゃないと言語化出来ない」じゃないんだよな、死んでも言語化しろ。意地を見せろ。言葉の調理スキルがないのなら今すぐ磨け。めっちゃブラック企業の上司が言ってそうな言葉だな。株式会社"厄介オタク"のばさばさ専務、恐らく平社員にめちゃくちゃ嫌われるタイプの人間だ。


 そうそう。ちなみに上の例における「めっちゃいいな」は単体だとただの惣菜、鳴き声だ。鳴き声は他の料理と合成することでちゃんと言葉になることが殆どなので、ここではあくまで単体での鳴き声を想定していることを記しておく。


 

画像1

 あと、ツイッタランドではよくこち亀における上記の画像を改変したりして鳴き声を発する大義名分を作っているが、万年アマチュアの僕にとってはこれさえよく分からない。上記のプロのような会話が通じるのは、相手がどういうものを好んでいるか、というデータありき……つまり、互いの情報を知り尽くしておりわざわざ再び言語化する必要がない場合が殆どだろう。鳴き声を発する相手が全員そんな関係性を築けているのか、僕には疑問だ。

 いくら鳴き声に心を込めていても、僕にとってそれは温めた惣菜に過ぎない。たとえ拙くても自分の技術で紡いでくれた言葉の方が、僕にとってはずっとずっといいものだと、そう思うのだ。

 イラストレーターがあげた絵に「ヤバい」とか「尊すぎる」とか、"尊すぎて画面が見えない"みたいな画像をペタリと貼っているリプライを見たことはないだろうか。あれ、みーんな温めた惣菜。レンチンした弁当。それよりも「ここがすごい素敵だと思いました!」という、単純でも具体性があり考えられている言葉のほうがよっぽど嬉しく感じるに決まっている……と、PixivでSSを書いており、実際に前者と後者の両方の反応がきた僕は思っている。

 ちなみに怒られ回避の為に言っておくと、僕はあくまで他者に発信する際に鳴き声を発することが気に喰わないのであって、一人で呟く、つまりツイッタランドにおけるTweet(呟く)をする場合にはいくら鳴き声を発そうが問題ないと思っている。個人的には独り言でも鳴き声を発するのはなんかアレなので僕自身は出来るだけちゃんと言語化するように心がけてはいるが、他者にそれを押し付ける気はないし、逆にそれは間違った料理の出し方だと思う。

おわりに

 鳴き声の会話は楽だ。その会話に意味がない時は特に。コミュニケーションは簡単に出来るし、関係性が悪くなるようなこともほぼないし、疲れない。だけど、それでもなんか、イヤだなあと思う。それが一般的に正しいとか正しくないとかは死ぬほどどうでもいいし、僕は僕の考えが社会的、一般的に正しいとも思わない。というか逆張り精神で生きている僕の考えなどは大体社会的にはマイノリティ側のことが多かったりするわけで……。とにかく、僕個人がただただそれが気に入らないのである。いわゆる「お気持ち表明」だ。

 当然、いくら何を書いたって僕に彼らの鳴き声を止める権利はないわけで。だからこそ、これは自分へのある種の所信表明、あるいは誓いに近い(激ウマギャグ)。自分の中に感じたモヤを自分の言葉で言語化して、それに従って行動することが出来るようにするための戒めだ。

 この戒めは殆どの他者にとっては本当にどうでもいいようなことだけれど、そんなどうでもいいことを戒める僕に、僕はどうしようもなく「らしさ」を感じるのだ。それでたとえどれだけ生きづらくなってもしんどくても、せめて僕が僕に見捨てられないように、「らしく」ありたいなぁ と、そう思った。

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