大永6年(1526)6月23日は東国最古の分国法「今川仮名目録」を制定した今川氏親が死去した日。病床の氏親が若年の嫡男氏輝のため家臣同士の争いを抑え領内の動揺を未然に防ごうと死の2か月前に制定。このとき14歳の氏輝を母の寿桂尼が後見人として補佐したため女戦国大名といわれることも。
天文5年(1536)6月10日は今川義元が玄広恵探との家督争いである花倉の乱を制した日。当主の氏輝と弟の彦五郎が同日急死する異様な事態により二人の弟である栴岳承芳(義元)派と玄広恵探派に分かれて争った。母寿桂尼と教育係で俗に軍師といわれる太原雪斎の補佐により義元が当主の座に就く。