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【百年ニュース】1920(大正9)3月6日(土) 前日の外交調査会の決定に従い、シベリア撤兵方針を閣議決定。守備線を短縮し、バイカルおよび黒竜江省から撤兵し、東支鉄道沿線および浦潮地方の沿海州に配置。黒竜江河口の港「ニコライエフスク」は樺太防衛上の要地として守備兵駐屯を継続。

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【百年ニュース】1920(大正9)3月29日(月) ハバロフスクから敦賀港に帰着した引揚者の談として、パルチザンとの衝突でニコライエフスク領事館が焼失し石田虎松副領事生死不明と伝わる。尼港事件に関する初報道。→解氷を待ち多門二郎大佐の救援隊が到着したのは6月3日。

【百年ニュース】1920(大正9)6月3日(木)早朝多門二郎大佐の救援部隊がニコライエフスク到着。全市が火焔に包まれ、トリピャーチンはじめパルチザンはすでに逃走後。墓地に避難していた市民約70名を発見。ロシア人のほか中国人4,米国人1。上流マゴ村で中国人妻妾となった日本人女性14名生存の報。

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【百年ニュース】1920(大正9)3月14日(日) ニコラエフスク日本領事館がパルチザンの包囲攻撃を受け焼失。石川正雅少佐、三宅駸吾少佐以下日本軍全員戦死。石田虎松副領事とその妻子、領事館内の在留邦人も全員死亡。兵営に残った日本軍80名と民間人13名が翌日正午に白旗投降したが5月までに全員殺害。

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【百年ニュース】1920(大正9)4月2日(金)「午後閣議(官邸)、外相陸相よりニコライウスクにおいて我が守備兵および居留人の多数惨殺せられたる由を報告せしが、事情判明せず、結氷中なれば救援隊を送る方法も之なし、甚だ心痛のことなり。(原敬日記)」

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【百年ニュース】1920(大正9)3月13日(土) ニコラエフスクで展開中の日本軍とパルチザンとの戦闘で、アムール川停泊中の中国砲艦が日本軍兵営を砲撃。後藤大尉隊全滅。日本軍はわずかに日本領事館と兵営一部を残すのみ。市内日本人居留民はほぼ全員が集団自決するかパルチザンに虐殺された。

【百年ニュース】1920(大正9)3月12日(金) ニコラエフスク駐屯中の日本守備兵370名が蜂起。陸軍は石川正雅少佐以下水戸歩兵第2連隊第3大隊等330名、海軍は石川光儀少佐、三宅駸吾少佐以下40名。赤軍本部(ノーベリ商会)護衛部隊(市民倶楽部)監獄等を襲撃するも撃退される。