天文21年(1552)1月2日は南近江を治め幕府に影響力をもった六角定頼が亡くなった日。兄氏綱が病死すると禅僧だった定頼が還俗し家督を継いだ。幕府の中枢に関与して将軍足利義晴や義輝の擁立に貢献し管領代として後楯となる。定頼は六角氏の最盛期を築き畿内に進出してきた三好氏とも争った。
永禄11年(1568)9月7日は信長が足利義昭を奉じた上洛のため大軍を率いて岐阜を出発した日。美濃、尾張、北伊勢の兵に家康の援軍を加えた4万とも6万とも言われる軍勢であったという。翌8日に近江に入ると観音寺城の六角義賢・義治父子を追いやりあっという間に近江を制圧して京へ入る。
永禄10年(1567)4月18日は六角承禎・義治父子が『六角氏式目』を定めた日。家臣20人と互いに法令遵守を誓う起請文を交わした分国法。67条に起請文8条および6条追加。家臣が起草し六角氏が承認して互いに署名する異色なもの。これは主君六角氏の恣意的な施策を防ぐことが狙いという。