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慶長4年(1599)3月4日は石田三成が加藤清正ら豊臣七将の襲撃計画により伏見城へ逃れた日。抑え役の前田利家が前日死去し起きた事件で家康が仲裁した。襲撃でなく七将が家康に三成の制裁を訴えた騒動だった説も。何にしても内輪で争っていたら利用しようとする者に隙を与えてしまうわけですね。

天正10年(1582)10月15日は秀吉が大徳寺で3千人参列した信長の葬儀を行った日。本能寺の変の後に信長の遺体は見つからず木像を棺に入れた。織田家重臣の柴田勝家などは不参加。信長の次男信雄と三男信孝は境界争いで揉めており不参加。秀吉は実質的な喪主を信長四男で養子の秀勝とした。

慶長19年(1614)7月26日は方広寺の鐘銘について徳川からの抗議があった日。銘文「国家安康 君臣豊楽」は諱「家康」分断の呪詛で豊臣が君主で楽しむ意図ではと。こうして大坂の陣は徳川の言いがかりから始まったとされる。ただこの時代は諱の分断に見えるのは豊臣の脇が甘いという指摘も。

天正17年(1589)11月24は秀吉が小田原の北条氏直に惣無事令違反として宣戦布告し諸大名に出陣の準備を命じた日。北条と真田の沼田領をめぐる調停後、沼田城主猪俣邦憲による真田の名胡桃城奪取の報に接した秀吉が激怒した。相手に対する態度を曖昧にせず付け入る隙を与えないことかと。