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責任を引き受けるということ

職場では他責より自責が好まれるということがあります。好まれるくらいならまだしも、他責を排するような、例えば、発言が他責的な内容であった時(または、他責っぽく聞こえた瞬間に)、「私、聞く耳もちません」のような態度をとる人もいます。私は、なぜ他責ではいけないのか?違和感をもっています。

自分のみに責任があるようなことって、ほとんどないように思うのです。極端な話、この世に生を受けること自体、自分の意志によってコントロールされたものではないですから。かといって、人のせいにすればよいというのも違う気がします。それは、他人に自責を求めることであり、責任をたらい回しにすることになるからです。恐らくは「責任を現状を鑑みて、どのようにシェアするか」を考えるべきなのだと思います。

責任とはなにか?責任を負うべき状況

ここで、「責任」とは何を意味するか調べてみたいと思います。語義、背景の思想について、この本に当たってみます。

「昔、言葉は思想であった/西部邁」

責任とは、原義において、「他人から請求される(金銭をはじめとする)価値」(責)を「任」うことでしょう。それを英語で「レスポンシビリティ」といっても同じこと
留意すべきは、責任にあって、「価値」を引き受けるということが含意されている点です。
レスポンシビリティは、価値中立的にいうと「反応する能力」のことでしょう。しかし、人間は無価値なものには反応しません。

まとめると、責任とは「価値あることに応答する」ことと言えるでしょう。だから、責任を論ずる場合、まずは、その対象とする物事が個人にとって、会社にとって、社会にとって価値あることか否か考えられるべきでしょう。逆に言うと、物事の価値判断が曖昧なまま、個人に責任を追及すべきでないと言えます。

ここで価値判断をどうするかは難しいのですが、社会通念として認められている価値があります。それらは、道徳的に示されたり法律的に示されたりしている「義務」のことです。一度「義務」(時代や状況によって変わりうるものですが)として示された以上は、それを遂行する「責任」が人間にはあると構えておくべきでしょう。

責任を考える手順

では、義務とは明確に言えないケースでどうするかです。会社で起こるケースは大概こちらに該当すると思います。上の原義に従えば、まずは対象となる物事に価値を認める、さらに、相手とその価値を共有することが必要になるでしょう(メモ:多分、これはフィードバックの第一ステップ。手続きについて後日考える)。この価値共有が進み腹落ちした分だけ、相手の自責を引き出せるかもしれません。あるいは、他責であっても、単なる人のせいではなく、仕組みやシステムの問題を指摘するといった、その後の打ち手を議論しやすい反応が引き出せるかもしれません。

もう一つ、考えておきたいことは、相手のコンディションやキャパシティが責任を負えるレベルであるかということです。誰もが認める正しい価値というのは、その正しさゆえに重いものでもあります。その「重さ」を、相手がどう認識しているかは十分吟味されるべきでしょう。肉体的、精神的にコンディションが悪い時(体調不良、うつ気味など)は、あえて背負いたくないでしょうし、人の成長段階によっては、とても背負えるものではないと尻込みすることもあるでしょう。

そんな状況で、たとえ愚痴や悪口のようなレベルの他責行動が現れても、その人にとっては必要なことであると認める余地はあるべきだと思います。また、特にうつ気味など精神的異常がある場合、自責という選択肢しかとれない状況もあるようです。一時の自責的言質に安心していると、期待される成果は得られないどころか、さらに精神的に圧迫され症状を悪くすることになります。正しい価値の押し付けにならないよう、留意すべきでしょう。

以上から一旦まとめますと、まず、「責任をとる」には、前段で価値判断、価値共有が必要であること、さらに、他責であっても問題解決の糸口になるケース、相手の負荷を軽くするケースがあると思われます。特にマネジャーレベルの方は、自責は善、他責は悪のような紋切り型で考えてほしくないところです。

一方、人が何かを大きく変えていく力は、「自責」により生じるとも思います。このあたりは「リーダーシップ」や「創造性」と絡めて、別途まとめていくつもりです。

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