【エッセイ】御殿山を歩く④(最終回)〜写真編〜
[前回のあらすじ]
やっと御殿山についた僕は、フラフラと歩き出した。
御殿山は山の斜面から麓にかけて住宅が密集しており、とにかく道が曲がりくねっている。勾配の急な坂も多く、細い道路が上下・左右に縦横無尽の曲線を描き、血管のように枝分かれしている。
普段住んでいる京都は、平たい盆地に碁盤の目。ひたすらに町の形が違う。
キリがないのでこのあたりで割愛するが、この他にも、突然出現する巨大マンション、遊び方の分からない遊具、大規模なメダカ養殖をする家、営業努力の感じられる酒屋さんなど、ここに来なければ出会えなかった様々なものと邂逅した。出会う必要なんてまったく無かった。だけど無理矢理出会ってみた。もう僕にとって、御殿山はまったく知らない町ではなくなったのだ。歩いた時間は1時間半も無かったが、少なくとももう蜃気楼ではない。僕の中でこの町は、ハッキリとした質感を伴っている。
知らないものと出会う。本来、それ自体が人間にとって喜びであり、楽しいことなのだと思う。観光地でなくても、どこでも観光は出来る。幼児の頃は、近くの公園に行くのも、親戚の家に行くのも、どこに行くのも楽しかったじゃないか。歩き回りながら、少しその頃の感覚を思い出していた。
ただ一点注意したいのは、僕が既に幼児ではなく三十代も半ばの成人男性だということである。
何の変哲もない住宅街を、見慣れない男が物珍しそうにキョロキョロ見物しながら、時に立ち止まり、普通の道やら、電柱やら、飛び出し坊ややらを繁々と見つめ、あまつさえ写真を撮り出すのである。正直、相当不審な自覚があった。空き巣の下見にしか見えないと思う。モチロンそんな事は無いのだが、住民の方々に要らぬ懸念や脅威を与えてはならぬと、人の目線はかなり気にした。写真を撮ったりするのは極力まわりに人がいない時を選んだ(その挙動が、一層不審だった可能性は捨てきれない)。不審者が出たぞとなったら、小学校の朝の会で注意喚起がされるかもしれない。町内会で見回りをしようという話になるかもしれない。多くの人の、無用の手間と仕事と不安を増やしてしまう。それは避けねばならない。
まして今、通報されて職務質問などされてしまっては大変である。無職の、離れた町に住む男が、無目的に徘徊して写真を撮っているのだ。もう一発でアウトだろう。今の僕は胡乱の権化だ。なんとしても怪しまれる訳にはいかない。
町歩きにはそんな緊張感も漂っていることは、忘れずに言い添えておきたい。
帰りに、駅近くにあった小さな居酒屋に入った。元気なおばあちゃんの商う、地域のおじさんおばさんが集う感じのお店だった。カウンターに座る地元の爺さん達のボヤキを聞きながら見上げる店内のテレビでは、バラエティで京都のグルメを紹介していた。見慣れた街並みや行った事のある店を、今日初めて来た町の居酒屋で眺める、何だか不思議な体験だった。
帰り際、おばあちゃんが「お近くですか?」とにこやかに聞いてくれた。「いや、まあ、今日はたまたまこの辺に来てて…ははは…」適当に濁して店を出た。全然お近くでもなければ、縁もゆかりもない。何だかその事が、少し寂しかった。また御殿山に来たい。ふとそんな気持ちが湧くが、やっぱり何の用もないのだった。15年来なかった町だ。それでもーーまた来れるだろうか。僕はまた来るだろうか。わざわざ来るだろうか。何か用事が出来るだろうか。来れるとしたら、それは、どのくらい先のことになるのだろうか。
(おわり)
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