見出し画像

【橋本浪漫飛行】橋本と遊郭①-旧橋本遊郭

幕末の橋本もとい橋本町は、鳥羽伏見の戦いで焼け野原になってしまう。

明治維新以来、近代化政策に乗り遅れ、賑わいを失ってしまった。賑わいを取り戻す一番手っ取り早い方法、それは元遊廓地の復興であった。明治二〇年六月京都府知事の認可を受け、木津警察署の監督のもと、北之町、中之町、小金川に遊廓区域が設定された。

その後、津田電線の工場の設立もあって近隣人口も増加した。
京阪電車による交通の便、石清水八幡宮の参拝者により、次第に賑わいをみせるようになった。
大正十二年七月、十万円の費用をかけ歌舞練場兼娼慰案余興場を建築した。
昭和十二年になると、貸座敷業者八十一名、軒数六十六、芸妓三名、娼妓六七五名、全盛期を迎える。

昭和三十三年(一九五八年)四月一日売春防止法が施行され、遊廓が廃止された後は下宿町として営業を再開したが、うまくいかず、今の静かな民家に落ち着くことになる。


歌舞練所

アパート「天寿荘」元歌舞練所

橋本駅の近くに大きな廃墟と化した建物がある。これは当時歌舞練所として使われていたもの。
貸し座敷組合の建物であり「検番所」とも呼ばれた。
芸妓、娼妓の派遣・紹介・研修・管理の一切を取り切っていた。
毎月二十四日の遊郭の公休日には芸妓たちが地元住民に無料で踊りや芝居をここで見せていた。

廃止後は刺繍工場に変わり、中には住み込みで働く人用の小部屋があった。 今も建物の中にはミシンが残っているらしい。
現在は「天寿荘」というアパートになっている。

「養神」の記念碑
階段
窓から覗く筒
敷地内にある


遊郭

遊郭は夕方6時~朝まで営業していた。花代一席あたり2000円(約2万円)時間は40分間。客は窓の格子ごしから遊女を選ぶ。遊女は並んで座り、張貝世というところから娼妓の顔を見て選び、値段の交渉の行われたことがあった。
これを「てらし」という。
売春防止法により、昭和三十三年三月十六日、解散式が行われ橋本遊廓の幕が閉じる。

第9回慰霊祭の記念撮影
第10回慰霊祭



娼妓の生活

娼妓の大半は、九州東北地方の貧困な農家の娘。昼三時に起床し夕方六時頃までに化粧など身支度を整え、表の通りに面した格子窓の前に座り客を待つ。外出ができない娼妓は、妓楼の主人が用意した化粧品、衣服、食事を買い取る。
定価より高く設定し、借金がなかなか返済できない恐ろしいシステムになっていた。
風呂は現在もある「橋本湯」を使っていた。


住民

地元住民が遊郭に関わる仕事に就く者も少なくなかった。(引っ子という店の前で客に声をかける人など) つながりは少なからず存在し、互いの生活などに大きな影響を与えたと考えられる。
しかし一般市民は遊郭を嫌うものも多かった。
子供には「遊郭に近づくな」としつけられ、遊郭関係者の子供とは遊ぶことはなかった。
また暴力団を乗せた「ザヤ船」が渡し船で遊郭へ訪れ、治安を悪くした。
「国防婦人会」では一般市民と遊郭関係者を区別することなく組織し、毎年10月25日に行われる「狩尾神社」(この辺りの地域の神社)の祭祀の際には互いに協力しあうなど交流は存在した。

狩尾神社

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?