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「愛」を語った話。

「君の、しあわせの沸点ってものすごく低いよね。」




前職の年上後輩とはお互いが会社を辞めても、
今も尚、なんでもない時間に1.2時間
長電話をするような関係だ。
別に特別な関係だったわけでもなく、なんでもない。
営業所が関西と名古屋で別々だった私たちの会った回数は
たぶん両手で足りてしまう。



会話はいつもラジオをこなしていくみたいにボヤっと流れていく。


私の「しあわせー」という言葉は
「やすいね」と何度か言われたことがあった。
別にそれをだからどう。と考えことはなかった。
昔々はきっとそうじゃなかったと思うし、
いったいいつから私は、
小さなしあわせを見つけられるようになったのだろうか。
と、その言葉を投げかけられて考えてみた。
すでに習慣になっているのだから、
きっとそのキッカケもある程度、昔なのだと思う。





―――――――



周りの目が気にならないわけではなかったが、
突如始まった「愛」と「器」の話を
いつ誰としたかはもう覚えていない。
それくらい、「愛」について語るような友人は
私には多くいるのだということに少し、
なんとなく嬉しく思った。
「愛」についてどう思う?
と投げかけて、どれくらいの人が
真剣に答えてくれるのか、私は知らない。
みんな照れてそんな話をしないんじゃないだろうか。
という私の憶測が
間違っている可能性だって高い。
もう、いい年こいた大人だし、
その種類も効果もきっと
みんなよく知っているのではないかと思う。


その時の会話は「愛」は「器」にそそがれて、
器がいっぱいになればその人は満たされて、
その器から「愛」が溢れるような人は、
周りに「愛」を配れる人だ。という仮定から始まった。
「器」の話はどこか違うところで書いた記憶があるけれど、
大きさについては人それぞれに違いないことは確かだ。


「愛」を配ることができる人は周りに
「愛されている」ということを自覚していて、
さらに感謝ができる人なんだと思う。
だから、また、繰り返し
「愛」で「器」が満たされるのだ。
その愛を受け取った人がまた、
誰かを愛していくのだとも思う。


誰かから受け取ることでしか
「愛」で「器」を満たすことができないのだとしたら、
最終的に有限である「愛」は
奪い合いになってしまって、
搾取の中で本来の意味を失ってしまうような気がする。

「愛」と「器」の話をここまでして、
どうにか、自身で「器」を満たすことはできないのか。
を考えてみることにした。
空気みたいに「愛」は転がっているわけではない。



そこで、「しあわせ」が浮上したのだ。
「器」は「愛」で満たされる。
ということは「しあわせ」だということにだいぶ近しい。
もし、そうなのであれば、
小さな「しあわせ」を見つけることは
自身の「器」を満たすことに繋がっていくのだろう。
という結論に至ったのだ。
私が常に満たされていたら、
たくさん周りに「愛」を配ることができる。
誰が何と言おうと、私的に名案だった。
それを実践している最中でもある。
よって、私のしあわせの沸点はとても低いのだ。






―――――――

という長ったらしい回答になった。

昔、「愛」と「器」に関する話をしていてさ。

という冒頭を話始めた私を
思いっきり笑い飛ばした電話の向こう側の
年上後輩は最終的に「愛」についてを
電話の向こう側で深く考えだしているようだった。









最近の私の一番のしあわせは、
太陽の光を充分にあびたお布団に
しっかりと疲れた身体を潜り込ませることだったりする。


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