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「なんもない」

田舎には帰ってきたのか。と、聞かれたお正月が明けた最初の連休。私にとってこの町は、たった一年半で第二のふるさとになった。「こんな場所にわざわざ」「なんもないやろ」そんな声をい嫌というほど耳にした。
別にこの町が有名にならなくてもいいと私は思う。でも、この町に住む方々には自慢のまちであってほしい。そんなこと、私が強制すうようなことでも何でもないのだけれど、やっぱり私はふるさとには自信満々で、誰もがうらやむ場所で在ってほしい。例えば、世界の人がみている日本の風景のように、四季折々のように、文化のように。それが私のエゴだということはもちろん、承知の上で。

車1台がやっと通ることができるくらいのイライラボーみたいな山道も、私にとっては遊園地のアトラクションのひとつのようで、教習所で一度も落とさなかったS字クランクを思い出す。当時は嬉しい達成感だったのだ。ハイビームをかざした夜なんかは、ねこバスに乗ったさつきちゃんのように、風になったような感覚にもなれる。「不便だ」と決めつけてしまえばそれで終わってしまうのだけれど、不便が与えてくれる大切なものを私は大切にしたいし、それを伝えていきたい。



民泊をはじめたお家で聞いた紫陽花の季節のカエルの合唱は、音楽の時間に習うもののそれとは違う旋律だったし、漁師さんに見せてもらった生簀の中の鰯の数はそう簡単に数えられるような数ではなかったし、その数がだいたいわかってしまう漁師さんの魔法にも初めて直面した。いつでも宝探しができる海岸は常に貸し切りで、波音で癒してくれるうえに綺麗なシーグラスをプレゼントしてくれる。ビー玉シーグラスを見つけた日なんか、飛び跳ねるくらい、嬉しい。夏前の真っ白なみかんの花の香りが充満したみかん畑のてっぺんでするピクニックの特別感は、ここでしか味わえない。冬場のみかんを採るバイトが、仕事なのに癒しだなんて、あのまま都市部とよばれる生まれた町にいたら、知らない世界だった。



スマホやWi-Fiの普及で、私たちの時間軸は24時間ではなくなった。有効に使えることもあれば、その逆の事例にもよく出くわしてしまうことも確かだ。だから、電波の届かない山道や海の上の「なんもない」がどれだけ素晴らしいのかが、わかる。

もしも、情報と電波に追われる毎日に、埋もれてしまっているとしたら、一度、顔を上げて空を見上げてみたらいい。空にはシャンとした飛行機雲か、運が良ければ七色の虹が見える以外はイレギュラーはほとんどない。
安心していい、「なんもない」から。

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