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繋いでいた子供の手の放し方

おはようございます。

子育てってマニュアル通りにならない、とはよく言いますが、ある程度教育専門家の話や子育て本は役に立つ事もあります。

結局、アドバイス通りにできるかできないかは親次第という事が一番悲しい事実な気がします。

だからといってアドバイス通りにできない自分を責める事はありません。
(アドバイスが失敗しても誰も責任はとってくれませんし、母親の肌感覚、というのが1番信用に値すると思います。)


私も最悪なパターンで、教育本やセミナーに足を運び、アドバイスを参考に、自分の勘を頼りに、いろいろあれこれに手を出して読み聞かせだの、知育理科実験だの巧緻性を良くする紙工作だの、習い事やら一生懸命にやっていて、常に時間に追われて疲れ果て、笑顔が消え、怒り狂い、ほとほと疲れ神経が高ぶったまま眠れない毎日を過ごしていました。
挙句の果てに、正しい事を言ってるのになんでわからない❓というような正義の押し付け。夫にも。
アホでしょ。




といっても、ガリガリな教育ママしてた訳じゃありませんよ。
幼稚園の頃はそれはそれは「いい子」だった娘。


驚いたのは幼稚園の頃は、自分からきちんとお手紙出したりお弁当箱の片付けや、翌日の準備、寝る前の歯磨きなどを率先してやっていたのが、今では全くやらなくなった事。
やろうと提案することを拒むようになった事。

出来ていた事が出来なくなっている、というのが理解できませんでした。そこから私の娘に対する厳しさも生まれてきた気がします。




例えば、宿題やってもないのに遊びに行く、今までならやってから行くのが当たり前だったのに。




ちょっと見方を変えて、宿題やらず、ランドセル放り投げたまま遊びに行った公園通いを何日か付き合う事にしました。


泥まみれで遊ぶ友達の輪の中に入る娘を見て、こりゃ1秒でも早く遊びたいわな。と、少し理解が出来ました。

だって見てるこっちもめちゃくちゃ楽しかったから!!!で、驚いた事に、まだ早い時間なのに少しずつ子供達が帰っていってしまう事。

みんな習い事の時間に合わせて帰ってしまうんです。それが1人1人の曜日と時間がバラバラなので公園に集まれる時間が、とても貴重だという事。

親の目も学校の先生の管理下でもない公園というのは、とてもキラキラ輝いていて、生き生きしていましたので、あまり管理下において宿題やってから、やる事やってから、という正論ばかりでもいけないな、と思った瞬間でした。(というか正論じゃなかったかもしれませんね)





不思議な事に思いっきり遊んだあとの集中力は凄まじいと気付き、遊べ遊べの切り替え育児にしたところ、これまたバランスって難しいですよね。
元気に遊ぶと元気の度が過ぎてしまう事もある。


親だから見逃す訳にはいかないと思いつつも、もうあれこれ私も手が回らない。


手は繋いで歩いてゆきたいと思うけれど、親は子供の命を第一に、右左確認しながら歩いている。

右を見ていれば自分の足元は見えないし、左を見ていれば右で繋いでいた娘の目線はどこにあるかわからないし、中卒の私はレールなんてひいてあげられる訳ない。




やんちゃな事も少しずつ覚えていく中で、いい事わるい事の判別はまだつかない娘。




判別はつかないうちはしっかり手を繋いで見守っていきたいと思っていたけれど、判別つかずにどんどんサボり癖がついたらついたで、その横道に逸れるのも娘のペースなのかな、気づいた時が娘の成長のペースなのかも、と思うようになりました。

と思う反面、手が回らない自分への言い訳か?と数年考えてみましたが、やはりあれこれ子供を見ようとすると、疲れてイライラしてくる、、、ちょっとした事も、子供と振り返ってみると時間が足りん。振り返る反省の時間を取っても反省できてないし。また同じ事してるし。


なので、家から一歩外に出たら、1人で玄関の扉を開けたら、もうそこからは娘のペース、と決め腹をくくる事にしました。




今日のまとめ
私も含め、みんな理想理想ばかりでは生きられない。
それは理想を拒んでいる訳でも理解できない訳でもない。
今の自分にはできないのだと腹をくくる。
だけど、「もう自分には出来ない」と決めつけないでおく。
半年経ったらもう一度理想に向かって歩いてみたいと思えるように自分を受け入れるように他人も受け入れてあげたい















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