見出し画像

専業主婦、12年生、大学生になる!!!!

ここで自己紹介。
東京の区内に住む34歳の主婦です。

娘10歳、息子6歳です。

わけあって高校中退。
中卒です。

15歳から働いてましたが、しばらくして住み込み寮がついている仕事に就きました(一応ちゃんとした企業です。)
午前中から22時まで1日10~12時間働きました。


18歳まではお金を貯め、東京に出るんだという意思がありました。
なぜなら、地元では周りがうるさかったから。
宗教勧誘する友人や叔母も嫌だった。


会社の事務の人「親が離婚してるなんて可哀想、ここで働いて、結婚して、家庭を持つのが幸せなんだから、面倒見てあげるよ。」

おばあちゃん「お前の母親はとんでもない、子供置いて出ていった挙句、離婚したなんてなぁ。お前も不幸なんだなぁ。」

会社の店舗責任者「○○さん(私)は、社長と親戚なんだと聞いてるけど、普通は中卒で雇ってもらって車で送迎付きなんてありえないんだから、ありがたいと思いなさい。会社には派閥があって私は社長のやり方には反対派なんだよ。」

とある友人「ねぇ、○○(私)は高校辞めたんでしょう?バイト何してんの?稼げる?紹介してくんない?」

などなど。

いつからか家を空けがちになった母は出ていき、いつの間にか両親は離婚してました。
両親がいつ離婚したのかも聞いてないし、母は特に何も私に言わなかったし、そのまま家で暮らす私達はいつの間にか父子家庭。
(中2のころから母はいたりいなかったり、そんな感じ。中3の頃は完全に母はいなかったから、弟の世話もしました。)

父は私が14歳の時とある病で手術後から働けなくなり、苦しんでいました。家計もかなり苦しかったし、母は出ていったし高校は卒業できないなと少女なりに感じ取っていました。

こう書くと母が悪者みたいですが、父も昔からギャンブラーでしたので母も辛かったのでしょう。私にも暴力的でしたし
出ていった母の事は責められません。


父は年収300万以下どころか150万以下、ここに書けないほど収入が低く家のローンに借金、眼鏡も下着も買えず、スーパーで肉も買えない。支払いはいつも信販会社クレジットの借入れで支払い、借金は膨れ上がり、持ち家も売れずで二人で苦しかったのです。(相対的貧困どころか、絶対的貧困です。)
高校を卒業できると思うことの方が不思議でした。


それでも父は私を高校に通わせたいと願っていました。
一方私はサラ金にも手を出し自転車操業になっている家の家計に気づいてました。

中3の時、卒業が間近になり高校受験や推薦や内申点など騒ぎ出す時期、先生にしつこく高校早く選べと急かされた。

個人面談で担任の先生の高校入学という事実で履歴書に書けるだけでも社会の目は変わる、というくだらない価値観に押され、父も金がないなんて言えず私も渋りギリギリ申し込みで私立高校へ通いました。


中3の夏休み明けから担任の口癖、「卒業までに皆の進路が決まっていることが先生の今の目標だ」と語る、担任がとにかく嫌いだった。そりゃ卒業学年を持つ担任の役目のために生徒を利用スンナ。マジで何にも見えてないのに嫌い。

他人の価値観で通った高校、長続きする訳がないと入学式は冷静だったことはよく覚えている。とはいえ、福祉の道に行きたかったのは嘘じゃないので一応、福祉科を選択したのでした。

山奥の家だったし通学手段はスクールバスのみ。
代金も高かった。
黒板も見えなかった。高校ジャージも買えなかった。
(けど、そこは受験勉強なしで入れる高校、ヤンキーもいました。友達に当時流行ったサーフブランドのウィンドブレーカー着てりゃいいよ!着ようぜい!って誘われて、仲良し4人でウィンドブレーカー何時も着ていたのはいい思い出楽しかったなぁ。髪もオレンジだったし)


それなりに楽しんでいた。そんな生活は続くわけなく中退するなら早いうちといつも辞めるタイミングを見計らっていた。
そしてゴールデンウイーク明けに自分で担任の先生に申し出て中退しました。



中二病のままだとわかっているんですが、なぜ高校中退したのか?って質問は

今でも答えられない。
自分自身辞めたかったのか?貧しかったから辞めざるを得なかったのか、ずっと自分の中で測りかねていてこの年になっても答えられません。


ですが、中退を選択した事に後悔はありません。
本当に行きたければ、お金を貯めて行けばいい。と思っていたから。





そして大人になるにつれもう一度学びをとおもう度、何度も高校編入や高卒認定のことが頭をよぎり資料請求しては、どこからか聞こえてくる
「あの子はホントは高校行きたかったのね。親が貧しいと可哀想ね。」
父が甲斐性なしで貧しかったから高校辞めたんだと思われたくなかったのでどうしても勇気が出ず通えなかった。

その頃にはそこそこ自己肯定が低い人間になってましたし、自分には出来ないと思い込んでました。お金をかける価値なんぞ自分にはないとも思ってましたし。




18歳まではとにかく耐えて県内で働きお金を貯め東京へ来ました。
東京へ来てからも私は真面目で朝から晩まで働き贅沢はせず貯金もしっかりした。
そのころ貯めた貯金と言えば、全て父の葬儀代で消えたことがとにかく悲しかった。

お金が無くなった悲しさじゃありません。
父のためにと、いつか二人で旅行に行きたい。借金を返したいと思っていたんです。

私が19歳の頃でした。
父 享年42

天涯孤独を10代で経験しました。


役所手続きや墓のこと、法事のことやってたら1年たってしまった。

それからもまだ高校に行く選択ができず、医療事務や車の免許を取りの生活。体調も悪かったのでバイトに通えなくなったり、過呼吸になったり、家から一歩も出られなくなりもう自分はダメだと私なりに地獄を見ていた時期でした。


(そのころの病み話、葬儀の時のゴタゴタや相続の話、お金の話、についてはまた書きます。)


とにかく、そのころ、誰とも付き合ったことのない私の心の隙間に入ってきた今の旦那。いろいろ酷いことされたけど
そのまま結婚してしまいました。子供もできてしまったし。



しばらくは子育て主婦の生活、その娘が幼稚園へ入るタイミングの時、義母に高校へ通いなさいと打診され、言い訳にできると思ったんですね。
すぐに通うことに決めました。

もう立派なママ業してたし、児童館へ行けば子供の話題や育児の話ばかりで誰もなぜ高校を辞めたのか、聞いてくるどころか結婚前の話題にすらならない生活なのに自分の中で、自分の意志で高校通学を決めるってことは、やっぱりホントは高校辞めたくなかったんだねって同情されたくないし、可哀想だったんだねって言われたくないから。


義母に言われたから通いますって言い訳にできると即座に思った自分は自分で自分を同情してた自意識過剰な人間だったんだと今になって痛感しています。


娘幼稚園年少、私26歳通信制高校1年生。
そして二人目妊娠、旦那、海外で単身赴任。

その頃、忙しすぎて記憶があまりありませんが、しっかり娘のお弁当作りや行事にも参加し、スクーリングも出て、単位も計画通りとって3年で卒業しました。(その時期の話もおいおい書いてみたいと思う。)30歳で卒業しました。


それからまた、4年経ち、下の子供もこの4月で1年生になります。 

あの頃ストップしたままの福祉の道へもう一度、勇気を出すのが遅くなってしまったが、国家資格受験資格を目指し歩むことにしました。


今日のまとめ
ダーッと書いていたら読みにくくなってしまった。
自己肯定感低い代表として、やらなければ見えない世界を知るために始めることにしました。
やればできるなんて言うつもりはありません。
だけど、やってもないのに言う資格はありません。

自己肯定感、高めたいなら自分でなんとかして高めるしかない。

私と同じ、我こそは底辺と威張る自称、自己肯定感低い民衆よ、自己肯定感高めるためにする努力する準備はできているかい?

通信制とはいえ卒業は大変と聞くので福祉のあり方はどうあるべきか、社会的弱者だったあの頃の視点を持ちつつ、この国にある福祉の姿を学んでみたいと思う。
皆さんに宣言のつもりでここに記事を書いておきます。












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?