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『花束みたいな恋をした』のサブカル描写の居心地の悪さ ~パンツを脱がない坂本裕二氏~

 最初に言っておくが、筆者は基本的に坂元裕二氏の脚本のファンである。なので『花束みたいな恋をした』についても手放しで評価をしたいところなのだが、見た後に寝違えたような居心地の悪さを感じた。

 その違和感を言語化すると「クリエイターとしての成功者の坂本さんは、どこから目線で、サブカルに関するメッセージを若者に発信してるの?悪意なの?説教なの?何様なの?パンツ脱がないの?」というものである。

観客の見っともなさを画面で見せつけ切りつける

 『花束みたいな恋をした』は、端的に言えばサブカルやクリエイティブに憧れそこに精神的な拠り所を置いている若者の陥りがちな特権意識や自意識(『これがわかるのは私達だけ!』)は、凡庸でありふれたものでしかないことを、高精度な描写で2時間たっぷりと観客に露悪的に見せつけ、サブカルこじらせ層に「ぶっ刺さった作品」である。
 ゆるふわ恋愛映画を気楽に見に行ったつもりでいたら、自らの青春の痴態をまざまざとスクリーン一杯に見せつけられるという被害が続出。「麦は俺!」「絹は私!」と共感性羞恥にまみれた感想が、ネットに次々にあがることになった。これを「共感」と言えばいいのか、「阿鼻叫喚」と言えばいいのか、著者には分からない。

 前評判も知っていたし、筆者は既に中年で免疫があるのでダメージは食らわなかったが、若かりし頃、庵野秀明氏の『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に(通称EOE)』においてやられたことを思い起こしていた。ラストシーン近くで観客席の実写をスクリーンに映しだすことで「こういう虚構を、現実の代償として生きているお前たちは、みっともねーんだよ!お前たちの醜さを見つめろ!バーカ!」とやられたことを。

パンツを脱いでるクリエイターには観客を切る資格がある 

 当時劇場「EOE」であれを見ていた筆者は、頬をはたかれたような屈辱感を感じたものだったが、しかしなぜか同時に許せる部分もあった。なぜなら庵野秀明氏は作品を「血を流しながら映画を作っている」(宮崎駿談)ことを知っていたからだ。庵野秀明は観客をこき下ろしながら、虚構を現実の代償としている自分自身をもこき下ろしていたわけだし、逆に庵野秀明氏が「既にある膨大な過去のアーカイブをコピーしているだけの何にもない僕」からクリエイターとしての実存をどう立ち上げようとしているのか、そのもがく姿に、同時代を生きる若者(当時)として共感したからである。
 
 ようするに庵野秀明氏は自分のみっともない姿をさらし「パンツを脱いで自分もまな板にのった」からこそ、あの作品群には代替不可能な私小説的な凄みがあるし、受け手を切り捨てる資格を得ている。他にはサブカルこじらせ系を扱っている点では、渋谷直角氏の『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』1)にも同じことがいえる。なおここでいう”パンツ理論”というのは、『クリエイターが作品を通じてどれだけ自分自身をさらけ出しているか?』という樋口真嗣氏が考案したものである2)。


そこの成功したクリエイター!一方的に若者を殴りつけるだけの資格がお前にあるのか!

 他方で数々の名作品を世に出したクリエイターである坂本裕二氏はどうだろうか。彼は、本作品では二人の恋愛関係の終わりは描いたが、彼らのワナビーとしての夢にどう折り合いをつけていったのか、あるいはサブカルワナビーの若者はどうすべきか、については実は明確な回答を提示していない。「自分が考えるクリエイティブとは何か、カルチャーとは何か、ワナビーから本物になるためのありかた」について、直接的に回答することは避けられている。
 サブカル・クリエイティブ志向の青春のみっともなさを露悪的に描いたならば、「じゃあ彼らはどうすればよかったのか?カルチャーを消費しつつ、成功した発信者になりたいという溢れる自意識をどうすればよかったのか」という疑問が出ても当然だと思うが、その結論は提示しないのである。

 クリエイターの成功者として高いところから、クリエイターにあこがれる若者のみっともなさだけを描いて、切実な自意識に救済策は示さないのはイケズ…というのが筆者が感じた違和感の正体である。『いや、坂本さんさー、成功したクリエイターという安全圏から、それ志望の若者のみっともなさを高精度に指弾して若者の心をクチャクチャにしておいて、救済策について何も言ってあげないのは、先輩としてずるいし、パンツ脱いでいないし、まな板にものっていないんじゃないの。そこの成功したクリエイター!一方的に高いところから若者を殴りつけるだけの資格がお前にあるのか!』と、カミーユ・ビダンなのかクワトロ・バジーナなのかわからない思いが湧いてきてしまうのである。まぁ、ソフィスティケーションの極地である坂本裕二氏にパンツ脱げよ!というのはお門違いという気もするが…。

 例えば、劇中で麦君と恋人の父と交わされる会話に、

 父『ワンオクとか聴くのか?』
 麦『聴けます』

 というのがある。麦君の内心にある「俺の素晴らしいセンスには該当しないが、選択の範疇にはかろうじていれてやってもいい」という鳥肌が立つ鼻持ちならない特権意識と、その醜さを短く表現した名シーンだと思う。この描写の精度には恐ろしいものがあるが、サブカル界隈の自意識の醜さを目の前に突きつける一方で、それでもどうしようもなく膨れ上がってしまう麦君の自意識に対する救済のあり方を一切提示しないのはいかがなものかと思うのである。

(※なお父親世代のズレた若者感覚の把握と、サブカルワナビーの趣味の範囲に入ってこない引き合いとして出されたワンオクもいい迷惑だが。あと『実写版 魔女の宅急便』『ショーシャンクの空に』『SEKAI NO OWARI』など、本映画が出汁にして轢いていった被害者は枚挙にいとまがない。そんなに人を小ばかにする権利がこの映画にあるのだろうか…)

お前の好きはその程度なのか?

 本作のこのイケズさは、単なる悪意でも意地の悪さでもない、ともし好意的に解釈するのであれば、これはクリエイターとしての先輩坂本裕二氏からの、一種の挑発的なアドバイスなのかもしれない、とも思う。『あなたが今持っているカルチャー消費に依存した特権意識はみっともなく、陳腐で凡庸なものに過ぎない。しかし逆にいえば、この映画で描写される程度の凡庸さに収まる「好き」では真のクリエイターにはなれないし、カルチャーとの付き合い方を自分なりに考えなさいよ』という厳しめの挑発。

 麦君のイラストレーターになる夢の強さは、クライエントとの値段交渉において「いいです。じゃぁ、いらすとや使うんで」のLINEでへし折られる程度でしかない。映画冒頭、グーグルマップに載ったことでクラスに吹聴してまわってしまう彼の心は、本当は『”特別な感性をもった自分”という自意識を担保するための社会的承認』に重心が偏っており、『イラストを描くこと・クリエイトすること』自体にはないのだろう。その程度ではダメなのだ。もしも本当に『イラストを描くこと』それ自体に夢中ならば、何の社会的な承認がなくとも描き続けているし、そういう衝動に突き動かされて生じるところにしか、真のクリエイションというものは発生しえない。例えば、ある種のアールブリュットが、壮絶な説得力を持ち人の心をうつのは、「それが真に描きたいという衝動の中から生まれているから」であろう。

 あるいは、麦君はもっと別のやり方でチャレンジもできたかもしれない。イラストの才能を、今の会社の中で発揮することだってありえただろうし、コツコツ書いたイラストをネットにアップロードしたっていい。「仕事とカルチャーは別物で、生活のためにはカルチャーを犠牲にするのが成熟である」という視野狭窄に陥る必要もない。そういったカルチャーと生活のスタンスや折り合いのつけ方についてのヒントは相当にちりばめられている気も、好意的に解釈すれば、うっすらしないでも…ない気が、微レ存…?

(※なお恋人である絹の「わたしはやりたくないことしたくない。ちゃんと楽しく生きたいよ」という選択は、サブカルワナビーの自意識に対する万能の処方箋とはなりえないのは賢明な観客ならわかっているはずである。彼女が自分の夢をダウンサイズしながらも、怪しげなベンチャー企業への転職を検討するのは彼女なりの妥当な戦略だが、その戦略を彼女がチャレンジできるのは、絹が都内に一戸建ての自宅のある広告代理店重役の娘であり生存が担保されている富裕層だからである。地方出身の花火職人の息子であり勘当されている麦にはそのチョイスは容易にできるものではない。麦と絹のすれ違いの遠因には、就職後のカルチャーに対する姿勢だけでなく、そこに影響している日本社会における経済的格差の問題が横たわっている。そこをわざわざ入念に描写している本作が、絹の選択を「非都会・非富裕層の若者」に効く処方箋と考えているとは考えにくい)

一義的な回答の提示を避ける坂本裕二の美学(パンツ)

 『カルテット』『大豆田とわ子と3人の元夫』『初恋の悪魔』にしても、昨今の坂本裕二氏の作品は、ある種のメッセージについて、「これが正解です」と提示することはしない。むしろ周辺から描いて暗喩することを、表現の節度・美学としている、とは感じる。物事の正解や価値の両義性を示し「決めつけない」ことこそが、私たちの生にかけられている様々な呪いを解くことになる、という倫理が垣間見える。その意味で「クリエイター志望の若者への正解の提示」まで踏み込まなかったのは、坂本裕二氏の表現の節度=パンツなのかもしれない(逆に言えば、自分でその正解を考えられない奴は、クリエイターとして上がってくることはできないぞ、ということでもある)。あるいは、そもそも若手人気俳優による『ゆるふわでちょっと切ない恋愛映画』としてプロモーションされていた感もある本作では、そこまで踏み込んだ描写をするだけの尺が無かった、というのが実情かもしれないが、これを見た若者の心をクチャクチャになるのが分かっていて、ちょっとそういう逃げ方はずるいな、若者がかわいそうだな、というのが少し上の世代からの老婆心的な感想だ。

 筆者は、このように消化して、この作品に関する居心地の悪さを何とか飲み下そうとしている。している…のだけど、でも、本当はちょっと、坂本裕二氏が、クリエイターを志すことの覚悟について、どんな見解を持っているのか、その本音もみたい気もするのである。「ちょっとあんた!その建前のパンツを脱いで、本当のあなたを見せなさいよ!」と。パンツが脱げるから庵野秀明氏や富野由悠季氏が真のクリエイター足りえているのだし、それをしないから坂本裕二氏が坂本裕二氏のスタイルを作りえているのだ、と知っているのだとしても。 

1)渋谷直角『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』扶桑社
2)押井守『誰も語らなかったジブリを語ろう (TOKYO NEWS BOOKS)』東京ニュース通信社


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