『率』3号評論抄

8年後からのまえがき

これは2013年の初夏に出た同人誌『率』3号に載った「死ねなかった僕のための遺書(あるいは「亡霊」のためのノート)」という文章のうち、希死念慮で塗り固められたような序章と終章を除いた本論部分3章を抜き出して、いくばくか体裁を整えたものです。ブリス・パラン、ジャン・ポーラン、モーリス・ブランショ、ライプニッツ、ジョルジュ・バタイユ、ゲラシム・ルカなどそのころ関心のあった思想家や文学者を片っ端から引きながら、執拗に「死」について書いている、ちょっと嫌な文章です。当初は寺山修司、斎藤茂吉(その『初版 赤光』)、浜田到の3人が「母」を詠った短歌を手掛かりにその「母の死の不可能性」を軸に評論としてまとめるつもりでいたのが、当時いろいろと行き詰まっていたこともあり、とてもまとまらずにノートのような形式をとって無理に原稿にしたものです。
「忘却のための試論」で角川短歌賞を受ける以前、大学院の修士課程に籍を置きながらも修了後に行くあてはなく(結局、角川短歌賞の賞金で学費を払って博士課程に進めたのですが)、他にもいろいろと個人的な事情があり、ボロボロに傷付いてひたすら「死」のことを考えていた頃のことが思い出されます。いつか書きたいと言い続けてもう何年が経ったか、いまだに未完成の「浜田到論」につながるメモのような位置付けの文章なので一応ここに再録しておきます。


          Ⅰ

「一遍に白と言い黒と言うことはできないのだ。白と言い、または黒、または灰色、または好むに任せて色合いを言う。指図し命令する。真実は、恐らく同時に白と黒と言うことだ。モーリス・ブランショが近年そのことを試みた――彼は立ち上がる、彼は立ち上がらない、彼は出発する、彼は出発しない……けれどこれは真のことばであるより沈黙への準備だ。」(ブリス・パラン『ことばの小形而上学』)

 主語と述語。「AはBである」と言うことができるとき、僕は「AはBではない」とも言うことができてしまう。それは言葉というもののもつ欺瞞である。この欺瞞に向き合うことから第一次大戦後のフランス文学は始まった。この欺瞞を理由に言葉を信じず、そこから出発しようとした若い文学者たちの動向を、戦後のフランス文壇の大御所にして『O嬢の物語』の著者とも目されたジャン・ポーランは『タルブの花々』にあって「テロリズム」と呼んだ。
 主語と述語の無限の組合せ。「AはBである」「AはCである」「AはDである」……。その無限の「可能性」の組合せが全て神にあっては現実であり、今この世界とは違ったいくつもの可能世界があるのだと、順列組合せ(アルス・コンビナトリア)の哲学者ライプニッツは考えた。『弁神論』の附論を除いた末尾に置かれている対話篇には、そうした無数の可能世界のひとつひとつを部屋に割り当てることで、それら無数の部屋が織りなすピラミッド状の宮殿(アパルトマン)が描かれる。その頂点にある一個の部屋こそが、神の目から見て最善であるように選択された組合せからなる世界、すなわち今この世界だというのがライプニッツによる現世肯定の楽観哲学であり、大地震と津波に襲われたリスボンの惨状を前にしたヴォルテールが『カンディード』で痛烈に批判されたのだが、それはまた別の話である。この種の可能世界論と文学との関係を考察した著作に、トマス・パヴェルの『フィクショナル・ワールズ』(未邦訳)や大川勇の『可能性感覚』などがある。 
 「AはBである」と言ったときその裏にある無数の可能世界。その組合せのなかでも恐らくいちばん僕らを不安に陥れるのは、「Aは生きている」「Aは存在する」と言ったとき常にその裏側にべったりと貼り付いている「Aは死んだ」「Aは存在しない」であろう。死とは「それぞれの現存在がそのときどきにみずからわが身に引き受けざるをえない」「一つの特有な存在可能性」(ハイデガー『存在と時間』)なのだから。
 むろん「私は死ぬことができるか?」と問い、また「私が死ぬのではない、ひと(on)が死ぬのだ」(『文学空間』)とブランショが説いたように、原理的には「私は死んだ」と言うことは不可能なはずだ。それなのに構文上は「私は死んだ」と発話出来てしまうというところに、言葉というものの最大の欺瞞が存する。デカルトの「我在り」=「私は存在する」というあの有名な命題にもやはり似たような主旨でヴァレリーが疑問符を付していたが……。

寺山修司の作歌技法も、畢竟ライプニッツのような主語と述語の順列組合せによってある程度まで説明がつくように思う。

女優にもなれざりしかば冬沼にかもめ撃たるる音聴きており(『寺山修司青春歌集』)
父親になれざりしかば曇日の書斎に犀を幻想するなり(『月蝕書簡』)

など、寺山は「なれざりしかば」という言葉を通して、実現しなかった可能世界の残り香を現実世界に嗅いでしまう歌人だったと言えるのではないか。(そういえば寺山は競走馬カブトシローを論じた文章のなかで、当時まだ邦訳のなかった『弁神論』を引用している。)
 僕は高校生のころ、歌集というものを角川文庫の『寺山修司青春歌集』一冊しか持っていなかったから、その一冊きりを何度も読み返していた。そうやって寺山の歌集を何度も読んでいると、まるで百人一首のお手付きのように、よく似た言葉遣いの歌が複数そこに収録されていることに気付かされるはずだ。短歌に限らず、寺山が好んで用いるフレーズや単語。それらを仮に「抒情素」と呼ぶとしたら、短歌に限らず寺山の手になるテクストの大半はこのいろいろな組合せを試すことによって成立していると言える。

かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭(『寺山修司青春歌集』)
かくれんぼ鬼のままにて老いたれば誰をさがしにくる村祭(『寺山修司全歌集』)
かくれんぼの鬼のままにて死にたれば古着屋町に今日もくる父(『月蝕書簡』)
かくれんぼの鬼のままにて死にたれば義母横町に咲く赤い花(同上)
剝製の鷹ひっそりと冷えている夜なりひとり海見にゆかん(『寺山修司全歌集』)
剝製の鷹抱きこもる沈黙は飛ばざるものの羽音きくため(『月蝕書簡』)
壜詰の蝶を流してやりし川さむざむとして海に注げり(『寺山修司全歌集』)
壜詰の蟻を流してやる夜の海は沖まで占領下なり(『月蝕書簡』)

 寺山の大きな特徴である模倣あるいは引用はたまた本歌取り(これをパロディと呼ぶこともあるいは可能かも知れないが、リンダ・ハッチオンやマーガレット・ローズら英米圏の文学理論家たちが論争を繰り広げているように、パロディという概念を引用や模倣から区別して定義するのは極めて困難なことであるので、ここでは敢えてその語は使用しない)もまた、こうしたアルス・コンビナトリアの一例として捉えていいのかも知れない。

桃いれし籠に頬髭おしつけてチエホフの日の電車に揺らる

と、

チエホフ忌頬髭おしつけ籠桃抱き

とか、

桃太る夜はひそかな小市民の怒りをこめしわが無名の詩

と、

桃太る夜は怒りを詩にこめて

あるいは、

この家も誰かが道化者ならん高き塀より越えでし揚羽

と、

この家も誰かが道化揚羽高し

といったふうに、手持ちの抒情素をまるでクロスワードのように組み合わせることで俳句にしたり短歌にしたりする手法はもちろんのこと、さらに問題とされた他人の「抒情素」をも平気な顔で借りてくる手法も有名だ。

人を訪はずば自己なき男月見草(中村草田男)
向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男(『寺山修司青春歌集』)

のような一句対一首の例もあれば、僕がまさに高校生のころ夢中になった、

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや(『寺山修司青春歌集』)

のように、

夜の湖ああ白い手に燐寸の火(西東三鬼)
一本のマッチをすれば湖は霧(富澤赤黄男)
めつむれば祖国は蒼き海の上(同上)

といった一首が三句のコラージュになっている例もある。

わが天使なるやも知れず寒雀(西東三鬼)

は、

わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る

となり、さらに、

われの神なるやも知れぬ冬の鳩を撃ちて硝煙あげつつ帰る

になったりする。

 もっとも、「かくれんぼの鬼……」の四首などはヴァリアントと言った方が適切な例かも知れない。僕の最大の関心事である「死」あるいは短歌におけるその不可能性に関係していくるような、もっと別な例で考えてみよう

売られたる夜の冬田へ一人来て埋めゆく母の真赤な櫛を(『寺山修司全歌集』)
亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり(同上)
山鳩を殺してきたる手で梳けば母の黒髪ながかりしかな(同上)
亡き母の真赤な櫛を埋めにゆく恐山には風吹くばかり(映画『田園に死す』)
捨てにゆく蛍に顔を照らされて鬼子母は赤し櫛もろともに(『月蝕書簡』)
亡き母の箸にてつまみ捨てにゆく蛍は暗し燃えたちながら(同上)
いもうとの真赤な櫛で占えばわれに三たびの死が訪れん(同上)

「母」「亡き母」「いもうと」「われ」「山鳩」「蛍」「捨てる」「梳く」「赤」……これらの歌群は上記のような「抒情素」を少しずつ共有しながらも、それぞれ別な組合せによって別個の歌として登録されている。とりわけ「母」は生きていることもあれば死んでいることもあり、一冊の歌集中、あるいは一個の連作中においてすらその生死が矛盾を来し、決定不可能な領域に置かれることがしばしばである。「Aは生きている」と言表できる以上、その話者は「Aは死んだ」と言表することもまた可能である。

 母に限らずとも、たとえば連作「少年時代」中の、

新しき仏壇買いに行きしまま行方不明のおとうとと鳥

と、

間引かれしゆえに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子

であったり、あるいは連作「暴に与ふる書」の、

老父ひとり泳ぎをはりし秋の海にわれの家系の脂泛きしや

と、

亡き父の歯刷子一つ捨てにゆき断崖の青しばらく見つむ

など、一つの連作中で家族の生死が決定しきれなくなる例は挙げられるが、敢えて「母」をことさらに取り上げたのには理由がないではない。
 それまで(近代)短歌にあっては嘘をつくことが許されなかったのが、たとえば寺山のような嘘つき、あるいは「実現しなかった可能性の探究者」があらわれたことで、死を扱った短歌、特に挽歌の特権性は奪われてしまった。
 ここで近代短歌史をきわめて通俗的に、暴力的なまでに簡略化してしまおう。僕の通俗性すら暴かれてしまうぐらい単純に。すなわち、近代短歌が産声をあげるに当たって、重要なのは「経験」の問題だった。というか、経験そのものだった。そして他人には誰も肩代わりできない、自分だけの経験というものがその中核をなし、特権化されることになる。その経験とは何か。愛と死である。よって、自身の愛の経験を詠った晶子と、死へ向かう自己を詠った子規と、この二人が近代短歌の始祖ということになる。
 しかし戦後、経験に対して嘘をつくことができるとわかってしまう。愛も、死も、特権化された経験ではなくなってしまう。経験していなくとも、愛や死を詠うことはできる。とりわけ死は、ここにきてその不可逆性を奪われ、そして特権性を失う。いわば短歌のなかで死ぬことができなくなるのである。ここでいう死の不可能性とは、そういうことだ。
 近代短歌において可能であった(かに見えた)「死」が、寺山修司あたりから不可能になってしまった。その、きわめて通俗的な図式をいったん描いてみた上で、それを解体する……とまではいかなくとも少しく修正を加える、というのが、当面の僕の目標である。そして僕が寺山からことさら「母」という抒情素を抜き出した理由もここに存する。僕は寺山の生死不明な「母」――そういえば寺山の死後、彼の実母がテレビのインタヴューで「息子さんがお亡くなりになって……」という問いかけに「お亡くなりになってはいないよ」と静かに、しかし繰り返し反論し、インタヴュアーを戸惑わせている映像を見たことがある――から逆行して、今度は少しばかり茂吉の『赤光』に出てくる「母」について考えたいと思っている。

          Ⅱ

 岩波文庫版『赤光』に収録されている『初版 赤光』には、時間の遡行がある。その成立過程や改版過程に、僕は興味などない。いちおう大まかに書いておけば、この『初版 赤光』の時系列は以下の通り。すなわち「大正二年」→「明治四十五年・大正元年」→「明治四十四年」→「明治四十三年」→「明治三十八年~明治四十二年」。各箇所で編年体に近い体裁をとることもあるし、初出と初版のあいだに改稿もなされているのだから厳密に逆編年体というわけにはいかないが、それでも『初版 赤光』を巻頭から読みはじめた読者は、この歌集のなかで時間を逆行するような体験をするはずである。
 『赤光』は死の歌集である。初版の冒頭に置かれた連作「悲報来」は伊藤左千夫の死を扱っている。同じ大正二年には有名な「死にたまふ母」の連作が収められており、またそのしめくくりには「墓前」と題された二首が置かれている。明治四十五年・大正元年には「黄涙余録」三部作として精神病院患者の自殺が取り上げられ、同じモティーフは同年の連作「狂人守」にも扱われている。「明治三十八年~明治四十二年」という長い期間の歌を読み進めていくと、明治三十九年の日付がある「地獄極楽図」に行き当たり、そして歌集の末尾に当たる明治四十二年付けの「細り身」「分病室」という二つの連作は、作者茂吉自身が死に瀕した体験を扱っている。その他、歌集のなかの茂吉は蛍やカイコを殺している。
 死の歌集にして時間遡行の歌集である『初版 赤光』を読むとき、僕は亡霊のような人影(影を意味するフランス語ombreにはまた亡霊という意味もある……)に出喰わすことになる。冒頭の「悲報来」で伊藤左千夫は死ぬ。だが、次の「みなづき嵐」にはこんな歌がある。

わがいのち芝居に似ると云はれたり云ひたるをとこ肥りゐるかも

僕たちはこの肥満体の男が伊藤左千夫その人であることを知っている。ついさっき「左千夫先生死んだ」と詞書にあったはずの人間が、ここでは茂吉に皮肉を言っている。
 そしてまた「死にたまふ母」のあの絶唱を読んだ後に、読者は次のような歌に出会うことになる。

死にしづむ火山のうへにわが母の乳汁の色のみづ見ゆるかな(明治四十四年)
はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の實は熟みゐたりけり(明治三十八年)
けふの日は母の邊にゐてくろぐろと熟める桑の實食みにけるかも(同上)

 大正二年に死んだ茂吉の実母が明治期に生きているのは当然のことである。だがその時系列が逆になって配列されたとき、僕たち読者は――あるいは茂吉も、また――歌集のなかで時間を遡行することで、回帰してくる死者たちと再会するのではないか。そのとき生前の死者たちはどこか亡霊めいた存在と化してはいないか。フランス語で亡霊をあらわすルヴナンrevenantという単語はもともとルヴニール(戻ってくる)revenirという動詞の現在分詞であり、そこには「戻ってくる者」という意味が込められている。亡霊とはまさしく幾度も幾度も時間を遡行して回帰してくる、死者の生前の姿であった。謡曲のなかの亡霊は生前の行為を何度も、何度も繰り返す。《井筒》の紀有常の娘は在原業平との悲恋を成仏するまで永劫に繰り返し、《求塚》の菟原処女は永遠に二人の男性との三角関係に引き裂かれながら、何度となく業火に焼かれ続ける。(そういえば津原泰水『バレエ・メカニック』に出てくる「不死者」たちも、生前と同じルーティンをひたすら繰り返す存在として描かれていた。)『初版 赤光』のなかで読者が出逢う茂吉の母も、これと同じことだ。
 死を見つめること。それによって、自分自身もまた擬似的に死ぬこと。バタイユはそれを供儀の儀式に見出し、ジャン=リュック・ナンシーやモーリス・ブランショはそこから新たな共同体論を立ち上げようとした。


いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死行くを

この一首を含む「死にたまふ母」のクライマックスをなす一連を読むたび、僕はバタイユを介して死とその共同体性を論じるブランショのことを思い出す。

「「死にゆく者」の手をとりながら「私」が彼と続ける無言の対話、私はそれを、ただ彼が死ぬのを助けるためにのみ続けるのではない。彼のもっとも本来的な可能性であるだろうこの孤独な出来事、そしてそれが彼の所有の権能を根底から奪い去ってゆく限りでひとと分かち合うことのできない彼固有の所有に属すると思われる、この出来事の孤独を分かち合うために、私は彼と対話を続けるのだ。」(『明かしえぬ共同体』)
「ひとは孤りで死ぬのではない。そして、死にゆく者の隣人であることが人間にとってこれほどまでに必要なのは、どのようにささいなかたちであれ、互いに役割を分かち合い、死にながらも現在に死ぬことの不可能性につきあたっている者を、禁止の中でも最も優しい禁止によって、その傾斜の上にひき止めるためである。今、死んではいけない、死ぬことに今などあってはならない。「いけない」という最後のことば、たちまち嘆願へと変わってしまう禁止のことば、口ごもる否定辞、いけない――きみは死んでしまう。」(『彼方への歩み』)

 そしてまた茂吉の、

死に近き狂人を守るはかなさに己が身すらを愛しとなげけり

こういう歌を読むときも、僕はバタイユのことを思い出す。

「逆に、死から目を背けないこと。死をしっかりと、きちんと正面から見つめること、それが私たちにできる最大限のことなのだ。」(『エロティシズムの歴史』)
「供犠において、供犠執行者は死にうちのめされる動物に対して自己同一化する。かくして執行者は死にゆく自分自身を見ながら、そのようにすることで、自分自身の意志によって、供犠の武器に共感して、死にゆくのだ。だがこれこそが一個の喜劇である!」(「ヘーゲル、死と供犠」)
「失うことへの、自分たちを失うことへの、死を面と向かって見つめることへのこの憧れはまず供犠の儀式において、今なお小説の読解がその憧れに与えているような満足を見出すことになった。」(『エロティシズムの歴史』)

 バタイユにあって小説や悲劇に代表される文学的フィクション、あるいはまたミサに代表される宗教的フィクションはみな、死にゆく者を見つめることで自分自身が死ぬゆく者に同一化する「供儀」の変形である。私は私として死ぬことができない。私が死ぬとき私は消滅するのだから私は私の死を体験することができない。だから私は死にゆく者をひたすら見つめることによってフィクション的に同一化し、虚構として死を擬似的に経験するしかないと考える。死にゆく母や患者をただひたすらに見つめることで、茂吉は自分自身の死と生をも見つめる。茂吉は他者の死を見つめることで自己の死を――もっと言えば自己の死に面したいのちを見つめることになる。そして『初版 赤光』を一読した読者がこれまで読んできたこの歌集を脳裏で時系列に配列し直すとき、その出発点に置かれるのは最後に読んだばかりの、茂吉自身の死(それは結局訪れないわけだが)を扱った「分病室」の次のような歌なのであった。

この度は死ぬかも知れずと思ひし玉ゆら氷枕の氷は解け居たりけり
隣室に人は死ねどもひたぶるに帚ぐさの實食ひたかりけり

少なくとも『初版 赤光』にあって「死の不可能性」の問題は、(当然と言えば当然だが)僕が先に要約してみせたように単純な話ではない。確かに母を始めとする人びとの死は写実的に、現実の体験に即して描かれてはいるが、それが歌集として配列された時点で死者たちは亡霊じみた性格を帯びはじめ、その不可逆性を自ら裏切りはじめ、僕らの前に回帰してくる。『赤光』という歌集は少なくともその初版においては、生死不分明な亡霊じみた人物たちの行き交う、まさに「地獄絵図」のような文学空間――寺山修司にあってもまたとりわけ『田園に死す』において「地獄」は故郷・青森県と二重写しになることによって同様の亡霊たちの行き交う文学空間として機能していたわけだが――として成立しているのである。

          Ⅲ

「すべて形象の死、そこから負数の世界は展ける。だからメタフィジックな形象への愛は、願望として死からの蘇りを潜在させている。」
「メタフィジカルな眼。それは光に最も敏感な眼である。」
「メタフィジカルな世界とは、実用を差し引いた残りの世界のことである。」
「にんげんの手で殺された一人の人間。兵士の死。彼はわれわれが日常見る死のなかに、或る荘厳なやすらぎを見なかつただろうか。そこにわれわれが悲しみのみを見るとき、凡ての秩序のイメージは、彼の死んだ眼の中にある。」(浜田到「神の果実」)

 浜田到にあって最重要のモティーフの一つが不可視である。『架橋』冒頭に置かれた詩篇「歌」にしても、散文詩のような小説「盲目の墓」にしても視力を失った、単に水を湛えた球体としての眼が重要な役割を果たしている。菱川善夫が「欠落の恩寵」で指摘しているように浜田到の短歌には全体から切り離され、ともすれば毀損されたような身体部位が多く登場する。歌集の表題に取られた、

ふとわれの掌さへとり落す如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ

などその代表だろう。眼はそうした部位のなかに紛れることで「見る」という特権性、主体性を奪われた器官として登場してくることになる。

「眼のなかに宿つた一滴の水溜。そこを向うへあなたが漕いでいたように思う。遠い少年の日。」

という「神の果実」のなかの一節は、

少女の眼に一滴の水溜宿りしを向ふへ漕ぎゐるひとに名付けよ

という「硝子街」連作中の一首とはっきりと響き合っている。それ以外にもこうした不可視の眼を扱った作品は多い。

睫毛暁けうすひかる繭を母は翔つ〈死、すなはちこの不可視なる生〉
人形にのみ水晶の瞳あり寒冴えし睫毛を植うるひとひたに恋ふ
風邪の眼に熱たたへゐる青年にのみ見えて涙あふれゆく真日
星は血を眼は空をめぐりゆく美しき眩暈のなかに百舌飼はむ
扉抜くる風の蝶となるけはひあり夕陽けむらふ室に盲ひつ
死にし眼をひらきて鳥は見上げゐぬ〈無力なりとも楡は空をささふ〉
円天をつたい降りくる目蓋にかくされてゆく眼球がある
どこでも円らかな瞳が閉じられる時だ空の大きな円だけを残し

 こうした眼をもつ人物とはだれか。死者である。あるいは死にゆく者である。視力を奪われた眼をもつこと(欠落)でむしろ不可視の世界へとアクセスしうる恩寵を受ける死者たちは、とりわけ少女の姿をとることが多い。それは「死からの蘇り」であろう。

あたへられし切れ長き眼を少女知らずしらず閉ぢゐる午後の刻やさし
瞳のみとなり病みゐし少女永眠るべく瞳を閉ざしたる夜を帰るも
痼疾の両眼を疚む少女ゐて月光のときその細路なやむも
眼裏のなほ深き天へ拡がれる瞳孔しらべをはれば喪となりぬ
ひたぶるに吾を瞶めしいまはの眼見終らざりしが閉ぢられにけり
霧ふかき街にはめこまれたる死者Mのほそき眼のなかに地球螢光す
やさしさの瞳をされば何も見えずなり秘密の森に少女うらぶる
刻々に睫毛蘂なす少女の生、夏ゆくと脈こめかみにうつ

 現実世界を見る能力を失った眼は単なるオブジェという以上の意味をもつ。視力を失うことによって逆に「形象の死」んだ世界を、「負数の世界」を、すなわちメタフィジックな世界を見るための眼と化するのである。それによって見えてくる不可視の世界にいる存在というのもまた死者たちである。作中主体は亡母や少女といった不可視の死者たちと同じ空間を生きている。

脈細り少女ほろびしかば春の硝子にも映らずなりて吾につれそへり
月光の色よみがへる未来よりしづかなるとき町へ少女きこえをり
死にし母に下半身無しそれからの椅子に吾の坐睡ふかまる
悲しみのはつか遺りし彼方、水蜜桃の夜の半球を亡母と啜れり
こよひ雪片ほどに天よりほぐれ落ちて来る死者の音信「ヒカリトアソベ」
こんこんと外輪山が眠りをり死者よりも遠くに上りくる月
蜘蛛の巣にひそひそ六月はじまれば彼の夜の亡母に遭ふかもしれず
もう死にはてたあなたに螢いろはすこし地味かもしれぬ

 亡き母と半球ずつ啜る水蜜桃は、あるいは水を湛えた球体としての眼のメタフォルかも知れない。

死に際を思ひてありし一日のたとへば天体のごとき量感もてり

の天体もまたそうであるように。そうした浜田到における球のテマティスムを追っている余裕はないのだが、それはともかく、作中の「われ」は単に死者を見ることができたり、交信をとることができたりするだけではない。ときに彼や、また彼の妻は不可視の領域、負数の空間を介して、死者と一体にさえなるのである。

瓦斯にほふ病廊のおびえ夜は沈めわが血の中を少女とほれり
汝が脈にわが脈まじり搏つことも我れの死後にてあらむか妻よ
藍うすき夏の手向けの花もちて白日の亡母へ帰りゆくなり
小さき瞳のちひさく瞠く少女ゐておほき灯の輪に母あふれしむ

補足しておけば、『架橋』の作中主体たる彼は肺病のために、また彼の妻は「石女」であるために、それぞれ死者との繋がりをより強固にしている。

肺びようのわれに寝覚めし妻がひとり、戒律のごとく坐つて居たよ
石女のおまえの頰のつめたさにほほそそけつつ一生愛しまむ

といった歌と、到が『工人』に発表した詩「北方列車」における母の死と肺病のモティーフや、

「女は胎児によつて始めて不可視のものに触れる。」

という「神の果実」中の一節などとを照らし合わせてみれば、そうした欠落が死者との空間の共有、交信、さらには同一化にまで到るような「恩寵」をもたらすという彼の特異な視座が少しは理解できるのではないだろうか。
 寺山修司にあっては抒情素たる語彙の「順列組合せ(アルス・コンビナトリア)」が、そして茂吉の『初版 赤光』にあっては時間遡行的な配列がそれぞれ「地獄」とも呼ぶべき、亡霊的な性質を帯びた死者たちが混在する特異な空間を立ち上げるのに寄与していたわけだが、浜田到にあってもまた彼らの「地獄」とはやや位相を異にしつつも、やはり「不可視」の領域を探ることで死者と生者の混在する恩寵に満ちた空間が展開される。不可視、負数、そしてまた「欠落」こそが浜田到の空間にあって重要なファクターである。

「崖の美しさは、そこから先もはや眼に見えない架橋を予感せずに居られぬ、空間のもつ暈いの美しさである。丁度経験の果てまで行き尽した言葉のように。」(「神の果実」)

こうした空間的欠落を(あるいは欠落の空間を)スプリング・ボードにして一気に恩寵の、満たされた空間へと橋を架けようとする到の「架橋」戦略。
 その戦略から、恐らくは塚本邦雄が「晩熟未遂」で「吃音の発作」「先天的に短歌的韻律音痴」「病的」と痛罵した到の異様な破調も、ある程度まで説明が付くのではないか。死者と生者とが混在する恩寵に満たされた空間を希求する彼にあっては、死の不可逆性を担保し、生者と死者とを引き裂いてしまう時間性は何より忌避せらるべきものであった。

「「同時」「定時」「暫時」……等「時」にからまる一切の観念のない場所――「空間」には確かに生を慰撫し落着かす不死性がある。」(「神の果実」)

 到は「神の果実」に「とにかく敵は時間である。」という谷川雁の言葉を引用している。ゆえに彼の歌にあっては時間がスムーズに流れてしまうことのないよう、「抵抗」としての破調が多用される。到の歌は滑らかに口ずさまれてはいけないのだ。愛唱されてはいけないのだ。

硝子街に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ

のような例外はあるにせよ、彼における破調は塚本の言うような「吃音」とは明らかに性質を異にする。それはたとえば吃音を方法論としてあるワン・フレーズを次々に違った語彙へと変化させてゆき、そこに不思議なパッションを込めるゲラシム・ルカの「ベゲマン・ポエティク」のような作風と比べてみれば一目瞭然だろう。吃音という方法論を最大限に活かすため朗読を重視したルカに対して、到は「神の果実」にこう書きつける。

「「時間」の対語は「空間」であるより「持続性」である。そしてその担い手は主体と沈黙である。」

 彼の歌は饒舌であってはならない。僕らに沈黙を強いる歌なのである。僕らは彼の歌をうたうことを許されない。うたおうとすれば歌はたちまちその裡に秘めた「抵抗」を僕らの舌の上で露わにし、朗読の時間性に空間的な欠落をもちこみ、声をつかえさせ、呼吸を乱す。その躓きこそが僕らの前に到の文学空間を開き、死者というメタフィジックかつ不可視の領域へのまなざしを開いてくれるのである。

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