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『江 おん すていじ』は篭手切の夢をまとった、江の修行物語

『ミュージカル「刀剣乱舞」 江 おん すていじ ~新編 里見八犬伝~』(以下、『江おん』)全公演完走、おめでとうございます!
初日配信と大千秋楽ライブビューイングで素敵な作品を拝見でき、江推しの審神者はとても嬉しかったです。

推しの新規供給が来るたびに感情が爆発する私ですが、本作でいただいた幸せはまた格別。
「情報量が多いッ!」「目が足りない!」と狂喜乱舞し、公演後にはあふれでる言葉が留められなくなりました。

いったいなんなんだ『江 おん すていじ』。考えれば考えるほど沼。
頭の中がぐちゃぐちゃなので心安らかに見るために、いったん考えを整理したい。

そんなノリと勢いで書き殴っていた怪文書をなんとか読める形にまとめましたので、お暇なときにお楽しみいただけますと幸いです。

※すべて個人の主観であり、公式とは一切関係ありません。物語の数ある解釈のひとつとしてご覧ください。
※『江おん』、『ミュージカル『刀剣乱舞』 ~葵咲本紀~』(以下、『葵咲本紀』)、『ミュージカル『刀剣乱舞』 歌合 乱舞狂乱 2019』(以下、『歌合』)、『ミュージカル『刀剣乱舞』 ~東京心覚~』(以下、『心覚』)『映画刀剣乱舞-継承-』、『刀剣乱舞ONLINE』回想其の115のネタバレを含みます。

『江おん』の立ち位置とは?

『江おん』は、篭手切江の発案により、江のめんばあと大典太光世、水心子正秀がひとつのすていじを作りあげる物語。

表向きは篭手切が夢に見ていたすていじを実現する作品ですが、あえてほかの表現を使うのであれば「『江』という存在を鍛え上げる修行の物語」だと感じました。

なぜそう思ったのか、ひとつひとつの項目を振り返っていきます。

江の存在とは

おそらく本作の根底にあるのは、『刀剣乱舞』シリーズにおける「江」の特殊な立ち位置
「江」とは刀工・郷義弘が打ったとされる刀を指しています。
ただし郷義弘は作品に自分の名前(銘)を刻まなかったため、あくまでも後世の鑑定で「郷義弘の作である」と見出された刀が「江」の名を持っています。

つまり他者に見つけてもらえなければ「江」として知られることはなく、歴史の中で存在した刀のひとつだったといえるでしょう。

銘を持たない刀剣はほかにも存在しますが、とりわけ『刀剣乱舞』シリーズでは「江」の存在はあいまいな様子
『葵咲本紀』ではせんぱい(おそらく稲葉江)が、実写映画の『映画刀剣乱舞-継承-』では倶利伽羅江が時間遡行軍の一員として登場しました。
時間遡行軍が「歴史の中に埋もれてしまった刀たちのなれはて」のようなものだと考えると、本来刀剣男士と遡行軍は表裏一体なのかもしれません。

そして刀剣男士が時間遡行軍と大きく異なる点が、名前や物語を持つこと
歴史や逸話の中に名前を残し、人間たちに語り継がれてきました。
江も刀剣男士であるためには、「名前を呼んでくれる存在」や「自身を江だと定義してくれる存在」といった他者からの認識が重要だと考えられます。

物語への執着

『刀剣乱舞』シリーズの江たちは、個性の強さも魅力的。
篭手切江はすていじやれっすん、豊前江は疾さ、桑名江は農業や大地、松井江は血、五月雨江は俳句、村雲江は正義と悪など、それぞれがまったく違う対象に関心を持っています。
お互いの趣味や考えをネタにすることはあっても、基本的には否定しないスタンス。
「全肯定のやさしい世界」が江の持ち味のひとつでもありました。

しかし本作では、村雲江が持つ善悪への価値観が重要な要素に。
これまでよりも一歩踏み込んで、村雲の考えに正面から向かい合うことになりました。
もしかすると以前は、ほかの江が抱えている物語を肯定はできても介入はしなかったかもしれません。
万が一にも物語に亀裂を入れてしまったら、江の存在そのものがあいまいになるかもしれないからです。

それでも勧善懲悪の『南総里見八犬伝』をそのまますていじにして、村雲が悪を討ってしまったら。悪人だと呼ばれていた、かつての主を否定することになりかねません。
そして何よりも、村雲自身が持つ物語も揺らぐ可能性が。
江がより刀剣男士としての存在を強固にするためには、村雲の考えを否定せず、それでも前に踏み出せる物語にする必要がありました。

篭手切は台本を書きながら、改めてめんばあたちの持つ物語や価値観に向き合ったはず。
そして見事に江全員の持ち味を結集した新たな物語を創りあげました。

南総里見八犬伝と篭手切江

そもそもなぜ篭手切江は、すていじの題材に『南総里見八犬伝』を選んだのでしょうか。
きっかけは蔵で偶然発見した写本と、江のめんばあたちが手にした団子でした。
クリエイターのインスピレーションは突然降ってくるもの、と言ってしまえばそれまで。
『南総里見八犬伝』にこだわった理由を、もう少し考えてみます。

作中でも篭手切が言及していたように、『南総里見八犬伝』に登場する村雨丸という刀は、五月雨江をモデルにしたもの。作中では犬塚信乃が譲り受けています。
そして八犬士にも自分たち江の姿を重ねた篭手切。
八犬士が希薄な縁をたぐり寄せて団結したように、江も「同じ刀工に打たれた」という共通点に導かれて本丸に集いました。

これまでの歴史の中では同じ物語をあまり持たず、接点もさほどなかった江のめんばあたち。
しかしこれからは「江の物語」をともに紡いでいけるのだと、篭手切は改めて実感したのかもしれません。

存在があいまいだった江だからこそ、巡り会えた奇跡を強く感じているはず。
大切なめんばあを失いたくないと思った篭手切は、自分たちに新たな物語をまとわせ絆を強固にすれば、より強い存在になれると思ったのではないでしょうか。

また、「物語」に対する篭手切の思い入れは、第二部の曲にも強く表れています。
「生まれたときの状況や歴史は誰かに決められたものかもしれない。しかしこれからは自分たちの物語を己の手で切り開いていくのだ」という、江としての生き方への決意が感じられます。

すていじと光と前

『刀剣乱舞ONLINE』回想其の115で篭手切江は、すていじを「夢」「光」と表現していました。
篭手切が今回創るすていじでは歌や踊りが披露され、さらに物語が描かれます。つまり正真正銘のミュージカル。
すていじの上で明るい光に照らされた江たちの後ろには、くっきりと影が浮かび上がって見えます。

ちなみに郷義弘の作品には銘が刻まれていないため、「郷とお化けは見たことがない」といわれてきました。
『江おん』第1部ラストでは、桑名江が「幽霊やお化けには影がないっていうよね」と一言。
つまり影がある江たちはお化けではなく、実体を持つ刀剣男士になれたのだと強く印象づけています。
自分たちに光が当たり影ができたと認識することで、江はより強い存在になれるのかもしれません。

また、光が前にあるものだとしたら、影は後ろにできるもの。
光は未来、影は過去の歴史だととらえることもできそうです。

篭手切は冒頭、自分が己自身の影に飲み込まれる夢を見ました。
心配する豊前江に、「振り返ったら真っ暗だった」と語る篭手切。
影は光があるからこそできるものですが、大きな影しか見えない空間に、篭手切は恐怖を感じたのでしょう。

同じように、大きな歴史の中に飲み込まれて消えてしまった存在はたくさんいたはず。
自分の輪郭すら見えない、「名もなきものたちの影」になってしまったのかもしれません。
だからこそ光で自分を照らし、自分とそれ以外の影を別のものにする。
江にはそうした線引きが重要だと、序盤の時点では思えそうです。

あいまいな境界線

江のめんばあも出陣した『心覚』では、水心子正秀が大きな歴史の流れに飲み込まれそうになりながらも、境界線を引く意味を問い続けていました。

江戸に結界を張り巡らせたように、自分自身も周囲から線引きをすることで存在を守ることができる。作中ではひとまずそう納得していたようです。
それでもまだ、どちらが自分の向くべき方向なのか迷っているように見えます。

また、光と影を語るうえで重要になるのが大典太光世
置物として蔵の中で過ごしていた大典太は、外の光の眩しさや尊さを誰よりも知っています。

おぼつかない足下を頼りなく思っている水心子と、光を求める大典太。
それは江のめんばあとの共通点だといえるでしょう。

『江おん』でも最初は「前と後ろ」「光と影」「正義と悪」など2つの概念を別個のものとして考えようとしていました。
しかし篭手切江と水心子は、布のほころびをきっかけに、物事は表裏一体なのだと気づきます。
独立した概念に見えて、実はどれも地続き。
布の裏と表のように、見る方向が違えば裏にも表にもなりえる。
もともと同じものなのだから、無理に境界線を引こうと固執しなくてもいい、と考えたのです。

ここで生まれてしまう矛盾がひとつ。
『刀剣乱舞』シリーズにおける江は、自分の存在を強く自覚しなければ歴史の影に埋もれてしまう存在だと冒頭で言及しました。
境界線がなければ存在もあいまいになってしまうのではないでしょうか。

たしかに光と影の境界がなくなれば、個々の存在は薄れてしまうでしょう。
しかし同じ志を持ついくつもの影が寄り添えば、それは揺るがない存在になるのかもしれません。

たとえば暗い蔵の中でも、仲間の笑い声が聞こえれば独りではないように。
光から遠ざかっても、その分影が長くなって存在感を増していくように。
「江」のちーむとしての力が強まれば、どんな場所でも自分たちの存在が消えることはないでしょう。

すていじ創りの過程で「見極めるべきは己」なのだと気づいた篭手切。
裏も表も、前も後ろも、光も影も、とらえ方次第でプラスにできるのです。

また、村雲江も気にしていた「正義と悪」の線引きを考えることは、刀剣男士としての江の役目に向き合うことにつながった、とも考えられそうです。

普段の本丸では「刀剣男士=歴史を守る正義」、「時間遡行軍=倒すべき悪」として扱われています。
では、何が正義で何が悪かを問い続けている村雲は、どっちつかずの存在なのでしょうか。

篭手切が台本の中で出した結論は、「正義も悪も地続きで、線引きはできない」というものでした。
悪しき魔女だといわれている玉梓に対して、「呪いの種はもともと誰もが持つもの」と歌う登場人物たち。
しかしその種が呪いとして芽吹かぬよう、努力を続けるのだと決意していました。

刀剣男士と時間遡行軍の関係も、同じようなものかもしれません。
倶利伽羅江たちに限らず、どんな刀でも初めは、刀剣男士になる可能性と、時間遡行軍になる可能性を持っていたのでしょう。

しかし後者の可能性が芽吹かないように己を律した刀だけが、刀剣男士として産まれるのだとしたら。
すていじに立つ江が、両者の想いを知ったうえで呪いを断ち切ってあげることができたならば。
江は刀剣男士と時間遡行軍の架け橋になれるのかもしれません。

『心覚』で三日月宗近に言われていた江の役目、「人と人ならざるものの架け橋」にはそういう意味合いも込められていたのでしょう。

第二部と第三部から見える江の姿

すていじができるまでを描いた第一部に対して、第二部と第三部は篭手切江プロデュースのすていじ。
第二部では新たな『南総里見八犬伝』を、第三部では歌って踊るらいぶを堪能できます。

ここでポイントとなるのが、すていじはあくまでも篭手切プロデュースだということ。
配役やセリフ、衣装、楽曲など、ありとあらゆる点に「篭手切から見た江」がにじみ出ていました。

たとえば『南総里見八犬伝』の配役。
もっとも驚いたのは、豊前江犬山道節とその妹の浜路を演じたことでしょう。
素早い着替えに豊前の疾さが活かされていますが、きっと理由はそれだけではありません。

浜路は、篭手切演じる犬川荘助が守りたい相手。しかし途中で連れ去られ、行方知れずになってしまいます。
また、着物が桜柄だったことからも、いつかは散ってしまう儚く美しい存在に見えます。

一方で豊前は歴史の中で所在不明になってしまった刀
豊前自身は「疾すぎて見えないだけ」と言っていますが、足を止めたら存在が揺らいでしまうのかもしれません。
背負うものも、両手に持つものもなく、それでも迷わずひたすら光の当たる方へ走っていく豊前。
篭手切にはその姿が美しく、失いたくないもののように思えたのでしょう。
だからこそ八犬士のリーダーでもある道節で力強さを浜路で「守りたい存在」としての一面を演じさせたのかもしれません。
(その結果どんな状況でも生き残れそうな浜路お嬢さんが爆誕したのでぜひ一度見てほしい)

玉梓に育てられた孤児の犬坂毛野は、村雲江が演じました。
毛野は玉梓を不審に思いながらも、育ててくれたことへの恩を感じています。
玉梓を悪だと言われても、簡単に切り捨てられるものではないと葛藤する毛野。その姿は、村雲自身と重なるようでした。

また、毛野に厳しい言葉を投げかける犬飼現八は、普段から村雲と親しい五月雨江が担当。
セリフだからこそ、普段は言えないまっすぐな問いを投げかけていました。
正義と悪の線引きなど本当はない、割り切れるものはないのだと、命を賭けて伝える言葉は、毛野だけでなく村雲の心にも届いたことでしょう。

そして第二部の最後。毛野は初めて、偽名ではなく自分の名前を名乗ります。
それはあたかも江として名付けられた自分自身を認め、自覚を持つかのよう。
今ここに生きているのだと、宣言しているようにも見えました。

第三部のらいぶでは、『葵咲本紀』で篭手切が御手杵とともにれっすんしていた曲がさらに豪華な仕様に。めんばあが増えた嬉しさや、夢をひとつ叶えたことへの感慨深さが伺えます。

さらにミュージカル『刀剣乱舞』シリーズ恒例の和太鼓の代わりに、マーチングで披露する曲も登場しました。今風のすていじに憧れる篭手切らしい演出です。

ちなみにマーチングで重視されるのはめんばあが個々の役割を果たし、全体の調和を作ること。つまりチームとしての結束を高めることでもあります。
篭手切は江がより強くなるために、マーチングという手段を選んだのかもしれません。

鯉と満月の兆し

らいぶの後は打ち上げをする江たちの一幕が描かれました。
池から飛び跳ねる鯉と、本丸を見守る満月
それは新たな兆しのようにも見えました。

ここで思い出されるのが、『心覚』で水心子が歌っていた「ほころび」と「はなのうた」です。
『心覚』で「水清ければ魚棲まず それでいい」と歌い、「見上げる月はいつも三日月だった」と語っていた水心子。
しかし『江おん』では鯉の姿に心を躍らせ、丸い月に目を向けるようになりました。
『心覚』とは対照的な演出は、今回のすていじが江だけでなく水心子にとっても意義深かったことを示しているのでしょう。

すていじに意味を見出したのは、きっと大典太も同じ。
これまでは「蔵の中にいるよりはいい」と、どちらかといえば消去法のように戦いにおもむくことを選んでいました。
しかし今回、自らすていじという光の中に踏み出した大典太。
闇の中に生きる玉梓を演じ、最後に毛野たちから光の兆しを与えられたことは、大典太自身の救いになったのかもしれません。

『江おん』は江の修行物語

ここで冒頭で述べた、『江おん』は「『江』という存在を鍛え上げる修行の物語」、という感想に立ち返ってみます。

銘を持たず、時間遡行軍との境界もあいまいだった江の刀剣男士たち。
その存在を揺るがぬものにするためには、名前と物語、そして彼らの存在を認めてくれる他者が必要です。

歴史上に個々の物語はあれど、『江』そのものの物語は乏しい。もともと存在が「お化けのよう」だといわれてきた江が強くなるためには、自分たちの手で物語を補強することが求められました。

だからこそ篭手切江は、すていじを創ることを決意。江全体の物語を、他者に認知させようと試みます。
江との共通点や共感を抱いている水心子と大典太も、彼らに協力してくれました。

江にとってすていじとは、きっと修行のような、より強くなるための第一歩
篭手切の夢をともにまとい、「物語を持つ刀剣男士」としての自覚を強めた江たちは、どのような場所でも己を見失うことはないでしょう。
前も後ろも表も裏も、光も影も正義も悪も、すべては己の心持ち次第だと知ったのですから。

余談ですが、郷義弘の故郷とされる富山県魚津市では、2014年に市民たちの手で郷義弘の人生を描いたミュージカルが上演されたことがあります。
残された記録に現代の人々の想いが重なり、郷義弘を後世に伝える作品になりました。
自分たちを打った刀工も人々から物語を与えられたのだと知り、篭手切もすていじに可能性を感じたのかもしれません。

おまけ:桑名と松井の畑仕事

※ところどころ語彙力が溶けておりますのでご了承ください。

最後に桑名くん最推し審神者としてこれだけは語らせてください。

松井との畑仕事シーン、めちゃくちゃよかった。

2振りの『歌合』での顕現シーンを踏まえると、あまりの尊さに首まで土に埋まりたくなります。

刀剣男士たちの歌をきっかけに、肉体を持ってこの世界に産まれることを了承した2振り。
「八つの炎 八つの苦悩」では、肉体には「五陰盛苦(ごおんじょうく)」があることや、自分たちを産み出した理由を歌っていました。

「五陰盛苦」とは、物質としての肉体(色)、感情や感覚(受)、表象や概念(想)、意志(行)、認識(識)から生じる心身の苦悩のこと。
つまり産まれる前から、2振りは肉体には苦しみが付きものだと知っていました。
そして産まれた理由を問い続けることを決意して、本丸にやってきたのです。

顕現してから、畑仕事や出陣などでさまざまな経験を得た2振り。
今では「五陰盛苦」を忘れて気ままに過ごしているかと思いきや、れっすんによる筋肉痛がやってきます。
生きることを楽しんでいる桑名と、肉体に厄介さを感じている松井という対照的な描写がなんかもう……最高(語彙力低下)。

そして朝日が昇り、真っ赤に照らされる空と大地。
その光景は、『歌合』で2振りが顕現したときの炎にも似ています。
己がなぜ産まれ、そのとき何を受け入れたのかを、2振りは改めて実感したはずです。

それはそうと土に八つ当たりする松井と桑名くんの「お手々で」ってセリフを無限リピートしたいので早く円盤の発売日になってほしい。

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