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さみしさの受容体は孤独で滅する

 「ひとりで暮らしていて、寂しくないの?」

 普通に聞いたら、馬鹿にしてんのか! と怒っても良かったのかもしれない。でも、そう言ってきた人は別にそういう人じゃないことを知っている。それに、私も特段不快にはならなかった。そういえば、なんでなんだろう?

 素直に疑問に思ったものだから、こうして文章を書いている。自分の中の観念を先鋭化する、構成もなにもない探り探りの文章を書くのも読むのも、実は結構好き。
 それに、文章を味わう素養があればあるほど、構成や分かりやすさではなくレトリックや、より直感的な感覚をもって、素朴に向き合える。そう思っているから、構成悪い! つまらない! と思うことって、あまりない。

 私にそう言ったひとは、ご家族とはすれ違うことも多いそうで。それも、私と違うところだ。じゃあ、私は家族仲が良いのかと言われれば、微妙だ。  

 うちの男どもは、と言う時は父と弟二人が含まれる。その人たちはどうも、気の使えない人たちで、母が気疲れしているのを見て、私はやきもきしてしまう。私と一番似ているのは、すぐ下の弟かな。気難しくて、偏屈なところが似ている。

 だからつまり、私や母が気を遣ってとりなしていればあの人たちは楽しい気持ちになって家族団らんみたいなことになる。それはでも、一方的なご機嫌伺いの結果だから、健康ではないとも思う。
 どんな家族も違ういびつを抱えているとは、私も思うところだ。だから、これも家族の歪み図鑑の一ページでしかない。そうやって客観視できる心理状況だと、家族ができる。

 もっとも、父については尊敬している。こんなに頑張って働いて、娘に嫌われるなんてかわいそうだよな、と思うのと、耐え難い不器用さ! を行ったり来たり。
 私は一般論としてそもそも、娘とうまく関係を築ける父なんて稀有な例だから、そんなもんだよなと思う。多分あの人はあの人なりに頑張っているとまだ、信じている。

 さて、家族に話が逸れたけれど、まったく関係ない話をしていたわけではないよ。つまり、私は家族について理想に当てはめるという行為からは卒業しているよ、ということだ。
 そりゃ、相手も生きている人間な訳で。過度に役割を押し付けられるのも不適切でしょ。

 だから、私はペットを飼うとか、子供を求めるとか、そういう共に生きるという意識が希薄なのかもしれない。最も、その人の家族観を聞いたわけじゃないから、確実なことは言えないけれど。

 そうだ、たしかに私は寄り添うというのがとっても苦手。これは父譲りかしら。なんちゃって。
 相談を受けるにつけ、例示をすることに徹してしまう。相手は本ではなく人間を求めていることは分かっているのだけれど、つい、私自身を反映して、いつも失敗してしまう。(私は人間を自身の学習できる個別具体な事例を教えてくれる情報の集積だと思っているところがある。そしてこれは悪癖である)
 私は主人公の苦悩に気が付けず、ただ平凡に結末を知って泣く一般人Aなのかもしれない。

 誰かを尊重しつつ、自分の主張をするのは、だからつまり、四六時中健康的な態度でいるのは疲れる。だったら、まだ一人の方がいくらか楽だ。

 本当は、命に対してある程度のエゴをもって接することは人間として適切な姿だ。そうでなきゃ、気疲れしちゃうし。だから人は子供を成すし、ペットだって家族に迎える。

 でも私は、家族ではエゴを聞く側だから。潔癖すぎると思いながらも、使い潰される命に同情してしまう。

 そうはいっても、本当は誰かと生きていたいように出来ている、のかもしれない。社会性のある生物の種として生まれた訳だから。

 私の孤独の原風景は、自室のストーブだ。

 そしてその時は、たしかこう考えたはずだ。

 私はこんなに苦しいのに、言葉にしなければ寄り添ってもらえない。(このときは、言葉は十全に他人に通じるのだと痛切に信じていた)だとすれば、こんな怠慢に満ちた世界で、ただ笑うことにエネルギーを使い果たす私は、きっと主張もなく、一生を通して孤独なんだ。

 身に染みた、と一口に言っても色々ある。私はその時確かに、身に染みて孤独だった。それは当然で、自室の、ひとりきりのストーブの前だったからだ。
 同時に、深く納得した。少なくとも私は、ひとりで死んでいくのだろうと、その時理解した。宗教を信じていたなら、きっとそれはお告げであったかもしれないほど克明に。

 ストーブの前に丸まって、頭は冴えているのに体に力はちっとも入らないまま。私は絶望した。正しく、望みを絶った。

 それでも、私だって人間で、常に元気なわけではない。心が弱っているときは誰かがあったら楽なのにと思うから、きっとそのうちペットロボットとかを買うのだと思う。

 私はぬるいのは嫌いだけど暖かいのが好きだから、きっと犬猫なんて最高なんだけど。母がペットを飼うことを強く反対するだろうから、それを乗り越える気力はもうない訳で。だから、私の人生が始まったら、きっと血の通ったペットも飼うのかもしれない。そしたら私も健康になれるかな。

 さて、私の寂しさを案じてくれたその人は、私みたいになりたかったと、すごく寂しいことを言っていた。あなたはそこにいるのだから、分かちがたい人々の集団の泥沼を漂い、時には好きな形で社会と接続して生きればいい。

 以上や以下で、自分を語るなんて、そんな途方もないことを、仮にも友人の私を前に、言わないで。私は自分と話したいのではなくあなたと話したいのに。

 寂しくて、悲しいことを言っている。いつかそれを分かってもらえるよう、私も折に触れて言葉を尽くしたい。



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