センスをいかに磨くのか問題
一晩おいたシチューは、牡蠣とムール貝の味が染み渡っていて「貝の旨味が出てるでしょー!」と主張の強めな一皿になっていた。美味しいは美味しいのだけれど、ちょっとでしゃばりすぎな気もする。クレアおばさんの弱り顔が見える。ごめんね、クレアさん。
温め直したシチューとトーストだけのかんたんな朝ごはんだったけれど、ひとりでもくもく食べるよりは、恋人とすこしでも「貝の味がすごくなったね」なんて言いながら食べるほうが楽しくておいしい。
お腹にぐーっと暖かさを感じつつ、インタビュー、対談の立ち会い、ラジオの未来を妄想する打ち合わせと、くるくる時間が過ぎる。
対談のとき、今までSkypeでしかお顔を拝見していなかった編集者さんと初対面(…Skypeで見てるから初じゃない?なんて言えばいいんだ?)した。
画面で見るより、ずっとずっと優しみオーラがすごくて、文章からも伝わってくるものがあったけれど、「そこにいるだけで場が和らぐ」ような方で。これはもう佇まいとか生き方とか服装とか、あらゆるものがその説得力を増すんだろうとおもった。
服装といえば、ぼくはファッションの素養がほとんどないに等しいのだけど、年々、なぜだかわからないけれど「好きな服」とか「気に入っている格好」みたいなものが見えてきている気がする。ほんとうはまるっとクローゼットを買い換えたいくらいに。
で、対談のなかで、「センスはいかにして教えるか」という話が出て(この対談記事ぜったい面白いので頑張ります)、あるアメリカの大学の講義が例に出された。そこでは先生がスライドにモノやアートを映し出して、学生にこんなふうに聞くんだそうだ。
先生「これはイケてる?ダサい?」
学生「イケてます」
先生「いや、これはダサい」
おいおい、感覚のみかよって話なんだけど、受講して後に活躍している学生は、「あの先生の講義がいちばん役に立った」と言っていたそう。
でも案外、センス磨きの近道なのかもしれない。筋道立てて指摘できる「ダサさ」と、うまく言えないけど座りが悪いと感じる「ダサさ」と両面からのアプローチで、前者は言語化できるが、後者はしにくい。
後者の価値は「人間らしい」選択ともいえる。「ダサい」が共通してれば変な仕事やクリエイティブは減る。ある組織の方向性や雰囲気をつくっていく要素にもなりうる。非AIの領域ってやつだろう。
たとえば、VOGUEのアナ・ウィンターがアートディレクターになって雑誌が盛り返すみたいなことも、そうで。
これはセンスの磨き方にもつながって、「センスがいい」と思えるものをたくさん見て、知っていけばいいのだ。「何を見るか」は、センスがいいと思える人の目を借りたりするのも手だろう。自分で判断がついたものが、また誰かによって「センスがいい」と認定されれば、ひとまずは合格といえる。
まぁ、職場や恋愛で「なんかダサい」って言われたほうはたまったもんじゃないけど、それでしか伝えられないことがあると知るのも悪くないんじゃないでしょうか。ぼくが感覚派なだけかもしれないけれど。
#日記 #コラム #センスの磨き方 #エッセイ
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