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コンサートの力

※以下の文章は,2024年8月3日(土)に神戸文化ホールで開催された神戸市室内管弦楽団・混声合唱団による「こどもコンサート」を聴いた感想であり,筆者による個人的な西洋音楽論・コンサート論である。筆者が「こどもコンサート」で得た経験の面白さ,素晴らしさを論じるためには筆者自身の西洋音楽論・コンサート論を語る必要がある。前半部分は(筆者の意図に反して)西洋音楽ディスに映るかもしれないが,「こどもコンサート」に見た西洋音楽とコンサートの可能性を強調するために必要な相対化であったことを申し添えておく。



‐ コンサートにおける「場の力」

 私はクラシック音楽を聴くのが好きだ。自分自身が過去に専門的に勉強していたから,という自己正当化の側面もあるだろうが,それを差し引いても,クラシック音楽作品が見せる複雑な音の模様は,触れていてとてもワクワクする。洋服の生地感や色味やデザイン,あるいはアクセサリーの形や重さや鈍い輝きを非言語的に楽しむのが好きなように,コンサートホールでリアルな音の質感を浴びる経験は何物にも代えがたい。

 一方で,そのようなクラシック音楽への肯定的な感情に反し,私は最近あまりコンサートを聴きに行かない。音楽を聴くのはとても好きだが,コンサートという場はどちらかといえば苦手なのかもしれない。

 社会学者のクリストファー・スモールは,その主著『ミュージッキングー音楽は〈行為〉である』において,西洋音楽のコンサートには様々な儀式的営為が内在していることを鮮やかに指摘した。彼は,コンサートホールの構造が演奏家と聴衆を二項対立的に分断していること,そしてその分断により聴衆の行動はかなりの程度儀式的に規定されていることを,シンフォニーコンサートについての厚い記述で明らかにする。演奏中に聴衆が恭しくステージを見つめ無言で座っているのも,楽章間でなぜか咳払いをしたくなるのも,終演後にロビーで気の利いた感想を発言しなければならないような気持ちになるのも,全て西洋の文化が作り出してきた儀式により規定された行動である。これらは不文律として自明のことになっているので,そのような儀式的行動から逸脱した人(例えば客席でうっかり携帯電話を鳴らしてしまった人,指揮棒が降ろされる前にブラボーと叫んでしまった人等)にことさらヘイトが向くのも致し方がない(ということになっている)。この儀式は100年以上前のヨーロッパにおける社会的・文化的・政治的な事情と不可分に生成されたので,日本に住む現代の我々がこの儀式に関する暗黙知に対して馴染みがないのは当然のはずだ。しかし,日本に限らず世界中の多くの国が西洋音楽を受容する過程で,この儀式の不思議さに対する疑念はきれいさっぱりと濾過されてしまった。端的に言えば,我々がコンサートという場に参与するとき,その行動は伝統的儀式によって規定されており,そのことに多くの人は自覚的ではない,ということだ。スモールは,我々がいつの間にか所与のものとして受け入れてしまっていたコンサートの「場の力」の存在を詳細に描いた。

 言うまでもないことだが,コンサートホールにそのような「場の力」が存在していること自体を批難することはできない。我々の行動は多かれ少なかれ場に支配されている。あらゆる状況に対して自律的な「純粋自由意志」のようなものを想定するのは,現代においてあまりにナイーブだと言っていいだろう。我々の意思や行動は,コンサートホールに限らず,ショッピングモールのような商業施設であれ,大規模なロックフェスのようなイベントであれ,その場の物理的構造とそれらがもつ社会的意味によって律されているのである。自宅にさえ「場の力」は存在する,と考えるべきだろう。したがって,場にコントロールされること自体に問題を見出すのはナンセンスである。我々は,そのような「場の力」を理解したうえで,参与すべき場を自ら選択することができる。我々消費者に許可されているのは,各地に存在する「場の力」を解体する自由ではなく,「場の力」を選択する自由なのである。海に行って紫外線にケチをつけるくらいなら,海に行くのを辞めるか,あるいは遮光性の高いパラソルを自ら準備すべきなのだ。

 そのような前提を踏まえたうえで,私はコンサートにおける「場の力」にさらされることに次第に疲れてしまっていた。自分自身が西洋音楽を専門的に学び,また半専門家として演奏していたときには,そのような「場の力」には無自覚だった。あるいは,「場の力」に曝されてなおその場を選択することのできる自分のハイソな資質をむしろ誇るような,スノッブな自尊心があったのかもしれない。しかし,曲がりなりにも音楽教育学という学問を探求し,音楽の公共性について論考する中で,私はコンサート会場に存在する「場の力」に対して良くも悪くも省察的になってしまったのである。

- 聴衆の役割

 自分が「場の力」に曝されていることを自覚してから,コンサート会場で見える景色は大きく変容した。コンサートとは,聴衆のために音楽が奏でられる場でありながら,同時に演奏家の自己実現のための場でもある。物々しい雰囲気でステージに立つ演奏家を見ると,聴衆として客席に座っている私は,自分が「演奏家の自己実現を邪魔してはいけない(間違っても緩徐楽章で咳き込んではいけない)」,という強迫観念に駆られていることに気づく。私は,コンサートホールにおいて自分の聴取経験よりも演奏家の自己実現を尊重せずにはいられないような視点を内面化していた。そして演奏家の向こう側には偉大な作曲家の思想がちらついていてる。演奏家は,自身の自己実現を目指しながら眼の前にいる聴衆にも貢献しようと試み,さらに作曲家にも気を配る,という非常に難しい調整作業を行っている。そのような調整作業に取り組む演奏家の立ち振舞いには独特の緊張感がある。そしてその緊張感は演奏家の技術が熟達したくらいでは決して消えることはないだろう。先述したように,コンサートにおけるこの緊張感は,演奏される作品やホールの構造,コンサートのタイムテーブル等によって生み出される儀式によって下支えされている。演奏家がMCでニッコリ笑いながら「どうぞリラックスしてお聴きください」といったところで,儀式そのものが解体されるわけでも,緊張感が消失するわけでもない。冷静に会場を見渡してみると,多くの人が自覚していないだけで,「場の力」は聴衆に対して確かに支配的に機能している。スモールの指摘の重要性が思い起こされた。

 このような緊張感がたまらなく好きだ,という人も当然いるだろう。むしろ,このピリッとした非日常を味わうためにコンサートに足を運んでいる人も少なくないのかもしれない。ホラー映画やジェットコースター,激辛料理を愛好する人がいるように,コンサートという儀式が醸し出す緊張感を愛好する人がいても何も不思議ではない。そして,この緊張感は聴衆が味わおうと個人で意志しても実現するものではない。演奏家と個々人の聴衆がそれぞれ儀式のマナーに則ってコンサートに参与することが,この経験を創出する契機となる。だからこそ,コンサートを提供する側は,そのような協働的的儀式としての秩序を維持するために「演奏中はお静かにお願いします」「演奏中の出入りはお控えください」等のアナウンスをしなければならない。現状の多くのコンサートは,このような緊張感さえも聴取経験のスパイスとして(あるいは聴取経験の本質として)味わってもらうことを前提にデザインされている,といっていいだろう。激辛料理は美味しいだけでは不十分であり,そこには辛さが求められる。恐怖のないホラー映画は,そのストーリーが素晴らしかったとしても良いホラー映画だとは評価されない。スピードのでないジェットコースターなんて論外だろう。その意味で,コンサートをライブで聴く,とは,単に音響を楽しむことにとどまらない。儀式により生み出される緊張感も,コンサートの聴取体験を構成する重要な要素の一部なのだ。そのような聴取体験を欲するクラシック音楽ファンに対して望まれている体験を真摯に提供する,というコンサート主催者側の営みは至って健全である。

 コンサート主催側が特定の顧客を対象にコンサートをデザインすることが自然であることと同時に,私が「場の力」に支えられる緊張感にちょっとした苦手意識を持つことも自然だろう。私とコンサートの間には,資本主義社会における需要と供給の関係が生み出す分断の線が,薄く,しかし確実に引かれていた。ところが,その線を消すことのできる場の可能性が,突如偶発的に示唆されることになる。神戸市室内管弦楽団・混声合唱団によって実施された「こどもコンサート」である。

- 中と間の緊張関係

2024年度 こどもコンサート「地底探検どんどんどん」のチラシ

 夏休みの時期に子連れの家族が来やすいようにと工夫されたこの「こどもコンサート」は,通常の西洋音楽のコンサートのフォーマットを大幅に改変しながらも,プログラミングや演奏には西洋音楽の専門家たちの矜持が感じられる,という稀有な企画である。私がこの「こどもコンサート」を知ったのは仕事を通してであった。私は昨年度からこのコンサートとセットで企画されている即興合奏ワークショップの講師を依頼されており,それをきっかけにこのコンサートに関わるようになったのである。即席合奏ワークショップの面白さについても力説したいところだが,今回は省略しよう。とにかく私は,このコンサートの存在をもともと知らず,関係者だからという理由でチケットをいただき,客席で演奏を聴くことになったのである。今年は全ての演目を最初から鑑賞することができたので,その感想を以下に語っていきたい。

 この「こどもコンサート」は親子連れや障害のある方等,普段はコンサートに来にくい人々にも来てもらおう,というコンセプトで運営されている。これだけ聞くと,案外よくあるコンサートに思えるかもしれない。オペラのアリアや管弦楽曲の間に童謡なんかを挟みながら,寸劇混じりで《ピーターと狼》のような曲を演奏する子ども向けコンサート。このタイプの催しはおそらく近年増えつつあると言えるだろう。素晴らしいことだ。しかし,運営側はこの「開かれたコンサート」というコンセプトを一段メタに捉えていたようだった。

 コンサートは,団員と思しき人のアナウンスから始まる。彼らはこのコンサートをどんな人にも楽しんでもらいたい,と伝えたうえで,演奏時間が1時間程度であること,演奏中も客席が完全暗転しないこと,曲中であろうが自由に出入りしていいこと,そのために出入り口の扉は常に開放されていること,じっとしている必要すらなく立ち上がったり声を出したりしていいことをハキハキと説明する。まるで「おかあさんといっしょ!」のお兄さん・お姉さんみたいだ。西洋音楽のプロがこんなことまでできるなんて,と驚愕したものだ。

 クラシック音楽にどっぷりと浸かり,なおかつ幸いなことに心身が一定程度健康である私にとって,このアナウンスにはいろいろと気付かされるものがあった。たしかに自分がコンサートの儀式についての知識を持っておらず,なおかつ持病があったりしたら,「真っ暗な中で行われ,いつ終わるかもわからず,どうやら基本的には物音を立てずにじっとしていなきゃいけない催し物」には安心して参加することはできないだろう。急な体調の悪化で席を立てば,隣のお客さんにも迷惑をかけていしまう。ましてや小さなお子さんを抱える保護者の方々は,この手の不安に毎日曝されているのだ。わざわざお金を払ってその不安が強調されるような場に足を運びたいとは思わないだろう。運営側が「開かれたコンサート」というコンセプトを真剣に,真摯に捉えていることが直ちに明らかになっていた。そして,このアナウンスは,コンサートの儀式に十分習熟してきたはずの私にとっても体のこわばりをほぐす効果があったようだった。アナウンスの最中にも関わらずひっきりなしに聴こえてくる夏休みの子どもたちの声は,なぜかとても心地よかった。

 演奏は,会場のざわつきを維持したままメンデルスゾーンのシンフォニーから始まった。演奏終了後には直ちに進行役の2人が現れ,世界観を作り上げていく。今年は「地底探検どんどんどん」というテーマで,地面や地中,そして地球の反対側にあるブラジルを主題とする楽曲が並べられていた。「地中を掘り進めて地球の反対側に行く」ことを目標にした進行役の2人がいろんな人々との出会いを経ながら音楽を聴き,奏でていく,というストーリーである。ヴィラ=ロボスの《ブラジル風バッハ》や《大地讃頌》が一つのストーリーの中に埋め込まれており,シームレスに演奏されていくのを聴くのは非常に興味深い体験だった。各曲は,一つの物語の中に有意味に位置づけらることにより,現代日本の子どもにとっても当事者意識を持ちやすい形に再解釈されていた。

 このようなコンサートの構成を,クラシック音楽をナレーションで繋いでミュージカル風に仕立てている,と説明するのは不十分だろう。私には,このコンサートが意図的に曲間を排除することで会場の緊張感を調整しているように感じられた。より積極的に言えば,この「曲間がない」というコンサートの構成が曲中の聴取体験自体を変容させていたように思われたのである。一般的なコンサートでは曲中と曲間がデジタルに切り替わる。曲中→曲間という切り替わりは,演奏者にとっても聴衆にとっても,緊張状態からリラックス状態への移行を意味する。緊張(曲中),弛緩(曲間),緊張(曲中),弛緩(曲間)……という機能和声にも似た構造は,曲間で聴衆にリラックスする時間を提供しているようで相対的に曲中の緊張感を強調している。曲間があるから曲中に緊張感が生じるのだ,とも言える。しかし,この「こどもコンサート」には曲間がない。どうせ曲間なんてないんだから,曲中に席を立ちたくなっても問題ないし,咳をするタイミングだって自由だ。コンサート冒頭のアナウンスでは「演奏中に移動しても声をだしてもいいですよ」と言われていたが,本当にそれを実行してもよい空気があった。

 結果として,会場が完全な静寂になることはなく,演奏中でも常に子どもが歩いていたり,親子の会話が鳴り響いたりしていた。一般的なクラシック音楽の演奏会ではありえない光景である。当然ながら,聴衆はステージ上で奏でられる音響に排他的に集中することは難しくなる。もしこの会場が静寂だったなら聴こえたかもしれないピアニッシモの繊細な表現は,おそらく私には届いていないだろう。しかし
,そのことは私にとって全くネガティブに作用していなかった。私は,とてもリラックスしながら音響の肌理に触れていた。これまでの演奏会会場で小さな咳払いがあんなに気になっていたのが不思議なくらいだ。むしろ,完全な静寂を目指そうとするあまり,小さなノイズが過度に強調されるような構造になっていたのかもしれない。そもそも完全な静寂を作ること自体が不可能なのにそれをひたすらに目指す,というのはよく考えるとあまりサステナブルではない方法だ。むしろうっすらざわついていた方が聴取体験の安定性は担保される。「客席で生じる非楽音は聴取体験を完全に損ってしまう」というコンサートの一般的前提は大きな幻想だったのではないか,という気さえした。それくらい,私はステージ上でのパフォーマンスを集中して楽しむことが出来た。1時間のパフォーマンスの間,私は子どもの声を知覚しながらもステージ上に釘付けだった。一つのことに集中し続けることがやや難しい私としては,久々になにかに集中できた気がして,それ自体にも驚いた。

- 「透明な塀」と味集中カウンター

 演奏中に,楽団員がダンスを踊るシーンがあった。進行役の2人とともに合唱団のメンバーや一部のオーケストラの団員がステージ上で身体運動を披露する。そして,「みんなもご一緒に!体を動かそう!」というアナウンスが入る。

 私は,客席で体を動かすのがそもそもあまり好きではない。コンサートのアンコールで演者に手拍子を煽られると私はいつもちょっと気恥ずかしい気持ちになってしまう。コンサートにおける「場の力」は聴衆全員にステージを排他的に注視するよう要求している。コンサートを成立させるために聴衆は全員で儀式に参与しなければならないが,その結果得られる聴取経験は協働的というより個人的だ。聴衆は,全員で儀式に没入することでむしろ隣の人とのコミュニケーションや関係性を遮断し,音と自分との一対一関係を構築することになる。コンサートにおける「場の力」とは,いわばラーメンチェーン店の一蘭に設置されている味集中カウンターのようなものだ。味集中カウンターは,客同士のコミュニケーションを塀によって遮断することでラーメンの味に集中させるための装置である。ここには「ラーメンの味に集中するうえでコミュニケーションはノイズとなる」という前提がある。客同士の関係性を切断することが,ラーメンの味への集中を一段高める,という発想だ。その意味で,開演前の「演奏中の私語はお控えください」というアナウンスや完全暗転の会場は,客席を仕切る透明の塀である。そのような状況で2時間弱個人的に演奏を味わい続けた後,アンコールで「みんなで手拍子しましょう」と言われ客席が明転すると,私は突如として客席間の塀が取り払われたかのような驚きを覚えてしまう。「これまであんなに排他的・個人的にステージに注目していたのに,今度は周りの人と一緒になにかをするの?気持ちが追いつかない」という感情だ。私は,アンコールで手拍子を要求されるたびに,主人公に合わせていきなり街の人が踊りだすインド映画や,プロポーズのために仕組まれたちょっと気まずいフラッシュモブを思い出していた。

 一方,今回の子どもコンサートで,私はその違和感に直面しなかった。ステージから手拍子を煽るアナウンスがあり,周囲の親子連れはそれに応じて手拍子をしていたにも関わらず,普段のコンサートで私が感じる「味集中カウンターの塀が突如取り除かれた感じの気まずさ」を覚えなかったのはなぜだろうか。おそらく,このコンサートでは聴衆同士を仕切る塀がはじめから丁寧に取り除かれていた,ということなのだと思う。演奏中に音を出してもいいし移動してもいい,というルールはコンサートという場における社会的弱者への配慮にとどまらない。聴衆同士がお互いを尊重し合う場作りそのものになっていたのである。この場においては,泣き始めてしまった乳児を攻める気にすらならないし,うっかり咳き込んでしまった大人にトラウマを植え付けることもない。聴衆は相互に許し合う。インクルーシブとはこういうことをいうのだろう。私は結局いつものように手拍子をほとんどしなかったが,その行動も許されているように感じられた。それでいて,周りの人々の手拍子や子どもの歌声はとても心地よかった。そのような状況は私にナイトクラブを思い起こさせた。クラブには音楽を聴く人もいれば酒を飲む人もいる。ナンパしている人だっているだろう。そこには音楽が意味深く存在しているが,その活用方法は自由だ。行動様式が参加主体に開かれていることの心地よさをクラシックのコンサートで体験できる,というのは新鮮だった。

 そして,そのような場において,ステージ上の演奏者たちはむしろいきいきとパフォーマンスをしているように見えた。客席の自然なざわつきは演奏家のパフォーマンスを邪魔していないし,演奏家側も会場の様子をむしろ肯定的に捉えてリラックスして演奏しているようだった。演奏家による演奏は,プロがきちんと準備をしたクオリティの高いものでありながら,「完璧な演奏をしなければならない」というプレッシャーからは解放されているようにも見えた。いや,そのようなプレッシャーがない場だったからこそ,あるいは会場にオープンな雰囲気があったからこそ,素晴らしいパフォーマンスにつながったのかもしれない。演奏家の素晴らしいパフォーマンスと楽しそうな表情は,まさに自己実現的に音楽する姿を体現しているように思われた。この場において自分が演奏家の音楽を邪魔することはない。そのような前提も,私が音楽に集中する契機となった。気がついたら1時間のプログラムはあっという間に終わっていた。儀式的なアンコールもなく,演奏者に必要十分な拍手が送られた後,コンサートは軽やかに終了した。そのさっぱりとした終わり方も,どこか感慨深かった。

おわりに:コンサートにおけるソーシャル・インクルージョン

 さて,ここまでつらつらと語ってきたがそろそろまとめよう。私が経験した神戸市室内管弦楽団・混声合唱団による「こどもコンサート」は,西洋音楽の伝統を確かに継承しながらコンサートのフォーマットそのものを問い直すものだった。その問い直しは,コンサートにおける「場の力」を積極的に抑止すること,そしてそれにより聴取経験を民主化し,聴衆の間に緩やかな横の関係性を構築することにつながっていた。私はこのようなコンサートのあり方に心から感銘をうけるとともに,自分がまだ西洋音楽をライブで経験したいと願っていたことを自覚した。私はやはり西洋音楽が相変わらずとても好きなのだと思う。

 一方で,従来型の静寂を要するコンサートが悪いわけではまったくない。味集中カウンターを用いることでしか得ることの出来ない聴取経験ももちろん存在するだろうし,先述したように,「場の力」が生み出す緊張感こそがコンサートの重要な要素である場合もある。それらは今後もコンサート文化の中で洗練され,継続されていくべきだろう。私も今後そのような場に参与し,日常では得難い経験をし,喜びを感じるのだろう。しかし,「クラシック音楽を多くの人に開いていく」ことがこの業界の最重要課題であることは疑いようがなく,多くの人にとっての参加のハードルが「場の力」であることも確認されなければならない。

 「場の力」は,それに耐えることのできる人を選別することで,自己充足的にその力を強めている。一方,日本におけるクラシック音楽の未来を考えるうえでは,参与者を選別するのではなく,むしろ若手の仲間を迎え入れるようなフォーマットを生み出さなけばならない。「こどもコンサート」はそのひとつのモデルになってたはずだ。そして,このようなフォーマットのコンサートは,私のようなクラシック音楽の愛好家にとっても西洋音楽観・コンサート観のパラダイムシフトをもたらしてくれた。客席を黙らせなくても音の肌理に触れることはできるし,私達は客席でお互いの行動を許し合うことができる。西洋音楽にはまだいろいろな可能性が残されている。

 最後にもうひとつ,「開かれたコンサート」に対する真摯さを感じたエピソードを加えておこう。コンサートの前日に,神戸市室内管弦楽団と混声合唱団のXアカウントでは,最寄り駅からコンサートホール会場までの歩き方を解説した動画がシェアされていた。会場は駅の真隣で,解説動画をわざわざ作るほどのこともないような好立地である。手のかかることをするなぁと素朴に感心していたのだが,よく見るとその動画は車椅子やベビーカーが通れるような段差のない通路を案内するためのものだった。この酷暑に車椅子やベビーカーで会場に入ることを考えるとこの解説の重要性がよく理解できる。このコンサートは単に社会的なポーズでインクルーシブを目指しているわけではないのだな,としみじみ感じたのであった。こういう小さな積み重ねが,「開かれたコンサート」をつくるのだろう。

 コンサートというのはある種の共同体形成であり,そこには不可避的に排他性が内包される。そこに目を背けてはいけないのだろう。未来のコンサートに求められるのは,コンサートに存在する「透明な塀」を丁寧に掬い上げ,「これは今回の企画に必要だろうか」と一つ一つ問うていくことなのかもしれない。

参考:昨年度(2023年度)のこどもコンサートの様子
「不思議な森への大遠足」神戸市混声合唱団・神戸市室内管弦楽団
https://youtu.be/M9xrc-M-N9k?si=HpRl9wrln2Z45o7s


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