漫才を違う角度から観た。
大岩雄典個展「バカンス」関連公演「エクストラバカンス」を北千住BUoYにて観賞。
本公演は、2020年11月〜12月にトーキョーアーツアンドスペース(TOKAS)本郷で開催された美術家・大岩雄典の個展「バカンス」のインスタレーション作品に映像の形で含まれていた、キヨスヨネスク・矢野昌幸による漫才のライブバージョンです。作品に含まれていた2つの漫才「プロローグ」と「バカンス」、その幕間に新作短編「エクストラバカンス」を上演します。
映像で含まれていた2つの漫才はいずれも、大岩の書いた原作を2人が演じたものですが、その収録時間の半分以上は、2人のアドリブで構成されています。2人のアドリブは稽古の時点から、演じるたびに大きく変化し 原作戯曲を繰り返し、しかし毎回異なる形でプレイするように、この漫才は作られました。
大岩のインスタレーション「バカンス」は、どこからか聞こえてくるノイズをモチーフとした作品です。潮騒、幻聴、電話、エウレカ。わたしたちの聴いているわたしたち自身の声は、本当にわたしたちの口から頭の中から発された声だろうか。漫才でボケているのは誰だろうか。ツッコミはどこから聞こえてくるだろうか。
閉じ込められた室内に聞こえてくる声の、信じかたか訝りかたをめぐる上演のような気がしてきました。少なくともそんな声が。
そのたびごとにただ一回きり、ライブ版「バカンス=空虚」をご覧ください。
(↑WEBサイトから参照)
美術家がネタを書き、俳優がその台本を演じる。その過程に、一切芸人が入っていないのが面白いと思った。
盗言器とは、センターマイクのことだと僕は感じた。路上で話している人も、ファミレスで話している人も、前にセンターマイクを置いて、お客さんで囲んだら漫才になる。
ファミレスで他の席の会話をずっと聞いてしまうことがある。あれは盗聴ではなく盗言的な感じがする。人の会話にセンターマイクを置いて、漫才感覚で勝手に楽しむ。今回の公演は、それに近かった。漫才であるならば、観客に話しかけたり、共感を促したりする。しかし、この公演では漫才師役の二人が全く観客には話しかけない。漫才のカタチをとって演じているが、観客と二人は同じレイヤーにはいない。
途中、二人が観客の間を通るが、その時もまるで観客が見えていないかのように歩き回る。
展示としての構造も面白かったが、芸人の僕からすると、俳優さんが漫才をするということに興味がいった。なので、ここからは展示とかコンセプトとか関係なしで漫才という観点だけでの感想を書く。展示としてあえてやっている演出のところもあると思うが、そこは抜きで考えてみる。
まず、他人にやらされている漫才師というのを見たことがない。台本をやらされている二人の俳優というだけでおかしい。
あとは、憑依させて演じるだけでは補いきれない技術というものが露呈していて興味深かった。やはり、アドリブになると根本的なお笑いの技術が必要となってくる。ボケは演技力と瞬発力とセンスがあればなんとかなる。キヨス君は、瞬発力も大喜利力もあって面白かった。矢野君も面白くて器用だったが、アドリブのツッコミというのは難しい。ボケは才能だが、ツッコミは努力だ。経験で得た技術がしっかりと出る。ボケがウケるか、ウケないかはツッコミ次第だ。その点では、全く機能していなかった。ウケることが目的なのかどうかもわからなかったので、それが悪いこととは思わないが、ただ単純にツッコミってやっぱり難しいんだなという再確認に興奮したという話だ。ツッコミは、技術職だ。矢野君が下手なのではなく、やろうとすることに無理がある。下手にやろうとせずに、ただたじろいている時が面白かった。
そう考えると、やはり人柄が出る時が一番笑えた。漫才というのは知っている人がやっていた方が笑える。無名の場合は、どれだけ短時間で身内を作れるかが勝負だ。
今回も、最後には二人のことを好きになっていた。
今、僕がやっている演劇公演は漫才のような強度のものを作ろうとしている。見終わったあとに、役柄ではなく出演者全員本人のことを好きになっているような公演を作る。
その創作過程を劇団のnoteで綴っている。できたばかりのnoteなので是非フォローお願いします。
シームレスに漫才とコントが入れ替わり、言葉が飛び交うコント公演のフォーマットを作っていく実験をしています。過去のその公演をぜひ観てみて下さい。
まとまらないが、とにかく面白い公演だった。どこからどこまでがアドリブかわからないが、おそらく台本があるであろう箇所のくだり全部面白かった。即興の部分も全部面白かった!!
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