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妹と過ごした1年半と3歳半の私の気持ち

少しだけ幼少期の話を

前に書いた記事では、原体験の話をした。

記事を執筆中に、googleで白山を調べようと検索枠に「白山登山」を入力してクリックを押した。クリックした先には「白山は日本三大霊山の一つ」と書かれていて、思いのほか心が震えてしまった。

幼少時期のことを少しだけ話そうと思う。私には2つ違いの妹がいる。正確には「いた」だ。障害を持っていた。どんな障害だったのか、未だに何となく両親にも聞けずにいる。とにかく毎日のように自宅でのリハビリが必要で、実家にはリハビリ用のベッドがあった。2~3歳のころの私は、そのベッドの下で、リハビリを施している父と母と祖母にちょっかいを出していたらしい。また時折、金沢市にある病院に通わなくてはならなくて、車で1時間程度かけてその病院に行くときには「行きたくない」と駄々をこねたこともあるらしい。ここらへんの記憶は何となく淡く残っている。

リハビリの邪魔をしたり、駄々をこねたりした私を見かねたのだろう。そのころから祖父は私をよく公園に連れて行ってくれた。近所の公園は祖父との想い出がいっぱいある。(祖父のことはこれまた別の記事に書きたいと思う。)

妹は1歳半で亡くなった。クリスマスイブの前日だった。鮮明に覚えているのは救急車のサイレン。3歳半の私は、その年どんなクリスマスを過ごしたのか全く覚えていない。その次の記憶はお葬式になる。

妹を亡くしたのは辛い経験ではなかった

私にはもう一人、5歳違いの妹がいるので「結構、年が離れているね」言われることがある。その流れで「その間に2つ違いの妹がいて、小さいころに亡くなったんだ」と話すこともある。「辛かったんだね」「大変だったね」と言われるのだが「私自身はあまり辛くなかったんだよね」と心の中で答えていた。

誤解を恐れずに言おう。妹が亡くなったとき3歳半の私は、寂しさよりも「ようやく自分に注目してくれる」という嬉しさのような気持ちがあった。どんなタイミングだったのかは思えていないのだが、そのことに気付いたとき、そうだったんだ!と自分の中での違和感がすっと消えたのだ。

唯一あるお葬式の記憶。弔問で来てくれた親戚から言われた言葉を覚えている。「けいこちゃん、小さいのによく頑張ったね」お葬式の風景や両親・祖父母の悲しむ顔の記憶はほとんどない。なぜだろう、とずっと思っていた。なので、そのときの気持ちに気付いたとき、この記憶が残っていることと繋がってすとーんと腑に落ちた。

共通の体験でも見えるものや感じるものは違うこと

もちろん、妹を亡くしてしまったことは悲しい気持ちもあった。家族としても大きな悲しみだった。だけど、その経験を通じて家族それぞれに見えるものや感じるものは多少違っていた。父は「あのことがなかったら自分には驕ったまま生きていただろう」とも振り返ったし、祖母は未だに「3姉妹の中で一番美人に育ったと思う」と言う。当時3歳半だった私は、3歳半なりに感じることが多かったのだと思う。

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話を元に戻すと、前の記事を執筆中に、白山が霊峰だと知ったとき、あぁ、父や母は亡くなった娘に会いに登っていたんだな、とさらに深いところで繋がった。毎年毎年の登山は、一番天天国に近いところに行ける手段だったのだなぁと。重ねて、毎年のように2日目の早朝は晴天で、御来光を拝めていたのは妹からのギフトだったのかもしれないとも思う。

今年の春、父母と私たち家族と河口湖付近で富士山を見る機会があった。とっても晴れやかな日で、雄大な富士山を眺めることができた。私は富士山がとっても好きで(そういえば、小学校の時に富士山と日本人のと関係を国語の自由研究で調べたっけ、とも思い出した)まだ登っていないのだけども、家族でいつか登りたいと話している。

*今日の写真は家族で行った河口湖付近からの富士山を自分で撮ったものです*



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