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追悼 アルマン・デベルダー

 日本にも輸入されているランビック「ドリーフォンテイネン」を長年手掛けてきたアルマン・デベルダーが亡くなったと、同ブランドの公式発表があった。

https://www.facebook.com/Brouwerij3Fonteinen/posts/7696489833709486

(English version below) Het is met een zwaar gemoed en diepe droefheid dat wij het overlijden van Armand melden. De...

Posted by Brouwerij 3 Fonteinen on Sunday, March 6, 2022

 2021年12月に発売された拙訳『クラフトビールフォアザギークス ブリュードッグ流ビアギーク宣言!』では、デベルダーがクラフトビール文化に対してどんな功績を残してきたのか、3ページにわたって取り上げている。今回、本書の発行元のガイアブックスに特別な許可を得て、この3ページを以下に無料で公開することにした。

第2章 気まぐれで完璧なカルチャークラブ

先駆者たち

アルマン・デベルダー

所在地:ベルギー・ベールセル

功績:ランビックの醸造とブレンド

「木樽と泡が私が聞くもののすべてです」。ブリュッセル近郊の小さなまちにあるブルワリーの外に立つアルマン・デベルダーは、肩をすくめてそう言った。彼の手は地面から腰の高さくらいで握られていた。1953 年に父ガストンが創業した家業を見ながら育った幼少期のことを振り返ってくれた。父の腰くらいの高さに育ってから、アルマンの人生はランビックの醸造、ブレンド、発酵が中心となり、それが彼の幼少期の背景音楽になっていた。

「子供は父親と同じ仕事をしたくないものです」。目的地へ向かうバスを待つ人々がいる、日曜日の午後の駅。そのすぐ向かいにある小さな庭で、太陽の光が降り注ぐなか、彼は言う。

「でも、自分を信じるようになりました。土日は仕事。土曜の夜はいつでも出かけても良かったが、翌朝は9 時から仕事をしなければなりませんでした」。片方の手のひらをもう片方の手で打った。ランビックのブレンドを仕事とする家庭の生き方に、幼いころからどっぷり浸かっていた。

 ドリーフォンテイネンは、その歴史のうちの長い期間、自社のランビックを醸造するのではなく、他のブルワリーがつくるランビックをブレンドするというGeuzestekerij(ヘウゼステケレイ)の役割を担ってきた。ドリーフォンテイネンは、自社の木樽を持たない

 ランビックブルワリーのための貯蔵庫として、ガストン(後のアルマン)という技術を使って他のブルワリーの仕事を保護した。木樽の中でビールを熟成させ、各ブルワリーの仕様に合わせて異なる樽で熟成させたビールをブレンドし続けた。これはベルギーらしい産業だ。世界の他の国には醸造受託ブルワリーがあるが(もちろんベルギーにもある)、彼らは「受託熟成者」だ。

 ベールセルは、町のすぐ西側を流れるセンヌ川がつくった谷の中に位置し、ランビック地域の中心にある。1950 年代には町には14のブレンダーが存在していたが、その後だんだん閉鎖されていき、ドリーフォンテイネンが「地域のブレンダー」と目されるようになった。

「ビールが主役なのであり、私ではない。私は主役にならない」

 アルマンは、事業を引き継いだとき、父親の評判に悩まされていたと認めている。父は、自分の仕事をすべて見下している「ファミリア神父」のような存在だったとアルマンは言う。「父は人生で一度だけ、私を褒めてくれたことがあります。『アルマン、もう自分のやっていることを変える必要はない』と言ってくれたんです。それだけだったけど」。父親にそう認められ、ついにブレンド工程のあらゆる面を習得するに至った。

 息子がいないアルマンは、若いブルワーのミハエル・ブランカールに仕事を引き継ぎ、この「次世代」が日々の操業を続けている。60 代半ばになったアルマンは、妻に説得されてブルワリーの仕事を減らすようになったため、徐々に後ろから見ているようになった。特に、他の人がつくったランビックをブレンドするのではなく、自分たちで醸造するようになってからは(1998 年から醸造開始)。

 しかし、情熱の火はまだ燃え続けている。ビール醸造の巨人ことインベブのことをふと口にすると、魔女のような歯で猫の鳴き声のような音をすぐに立てて、息を吸う。他のブルワリーを買収するという彼らの戦術については、「人生をかけて働いてきた以上、その情熱が消えて名前だけになってしまうのは見るに耐えない」。アルマンは何かを譲ることには明らかに興味がないようだ。他の何でもなく父親のためにも、売り渡すなんてことはしないという印象を受けた。

「続けると約束してくれれば、助けよう」

 しかし、経営は順風満帆というわけではなかった。醸造、ブレンド、貯蔵のための一連の設備があり、2009 年に温度自動調節装置の不具合という小さな問題で事業全体が危機にさらされた。グーズは瓶の中で16〜18℃の温度で二次発酵する。その年の5月には、電気系統の障害によって事前にプログラムされていた倉庫の温度の上限値が削除され、熱風送風機が止まらずに動き続けた。倉庫内の温度は60℃まで上昇し、過熱による圧力の蓄積により1 万3000本の瓶が破裂し、最終的に8 万本のビールが無駄になった。保険に加入していなかったため、他のブルワリーが製造したビールも自社醸造のものと同様に失われ、ドリーフォンテイネンは一夜にして倒産しそうになった。「だけど、みんなが助けてくれたんです」と、アルマンはにやりと笑って語ってくれた。「アルマン、続けると約束してくれるなら、助けよう」と。

 地元のブルワーたちはこの支援に賛同し、一度限りのビールを生産して資金を集めた(「その多くはeBayに出品されてしまいましたが」と彼はため息をつく)。他のブルワーは資金や労働力を寄付した。貯蔵庫に残っていた瓶のビールは蒸留所に送られ、アルコール度数40%の「アルマンスピリッツ」に蒸留された(非常に人気となり、現在でも入手可能)。

 醸造を再開する前の2013 年(ブルワリーが現在の場所に移転したとき)にも、多くの人がドリーフォンテイネンの復活を支援してくれて、彼は支援の強さに純粋に驚いた。それ以来、アルマンと彼のチームは力を付けていった。2016年には、瓶詰めの設備を含む装置の大半を、ベールセルから西に3km 離れたロットというまちにある、新しい倉庫に移転した。

 アルマンは浮き沈みを繰り返しながらも、何が本当に最も重要であるかを見失うことはなかった。あらゆるものが同じままであることだ。「ビールが主役」と彼はオーク樽を指差しながら飾らずに言う。「私たちではない。みんなは私に主役になってほしいと言うけど、私じゃないんです。私は主役になりません」。

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