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diver 第一部 第五話

【 1 夏休み 】

 学校が夏休みに入った。関東にはまだ梅雨明け宣言が出ていない。時々遠くに走る稲妻が見える夕方。今日の仕事を終えようかと一息つくと、相談所の電話が鳴った。

 「はい! 泉心理相談所です」

 「あのう、、いじめの相談はやっていますか?」

 「はい。お役に立てるのなら」

 「今からお願いできますか?」

 「初回はじっくり時間をかけてお話をうかがいますので。明日の午前はいかがですか?」

 「わかりました。では是非、明日の午前で」

 「お母さんお一人で来られますか?」

 「主人と二人で行きます」

 「わかりました。明日は木曜日ですが、お父さんのお仕事のほうは……」

 「仕事を休んでお邪魔します」

 「では10時から始めましょう。お名前を教えていただけますか?」

 「はい、田中ミチヨといいます」

 「簡単でいいので、相談内容を教えていただけますか?」

 「息子のいじめです」

 「それは大変ですね。何年生ですか?」

 「中学2年生です。男です」

 予約の電話が終わった。中学のいじめなんだなぁ、と僕は大きく息を吐いた。最近、いじめ自殺の問題がマスコミを賑わせている。この問題に向かうには学校や教委の協力体制も重要になってくるので、スムーズに連携ができればいいな、と考えていた。

 2階のベランダの看板は、シンブルなものに書き換えてから、落ちなくなった。しかし4日おきの睡眠時遊行症は生じているようだ。僕とマリさんが靴収納棚を毎日チェックすることで、看板落下を阻止できていのかもしれない。表示を変えたことが理由なのか、はっきりわからないのだった。

 翌日、この両親がやってきた。相談申込書には「長男のいじめ被害について相談をお願いします」と記されていた。父親は田中コウジ、母親はミチヨ。長男の名は田中ツヨシ。次男が小6のケンジという4人家族だった。両親はかなり切羽詰まっているようだった。

 父「一学期に入ってすぐに、息子へのいじめが始まりました」

 母「そうなんです。始業式の日から」

 父「そう、始業式の帰りに、息子の靴が隠されていたんです。それから毎日のように、息子の持ち物が無くなったり、隠されたりするようになりました」

 「それはご両親としては胸が痛みますね」

 母「はい、もう眠れない日が続いて」

 「今でも続いているんですか? 夏休みに入りましたが」

 父「ええ、部活で学校に行くものですから」

 「なるほど。ツヨシ君の精神的な状態が気になります」

 母「はい、ツヨシはつらいだろうなって(涙ぐむ)。それでも学校は休まないで通ってるので……」

 「いじめが終わらないなら、学校を休むということも考えられますが」

 ここで父親の表情が一瞬固くなった。僕は父親の目を見て、潜入した。

― それだけは、できない。人からどう思われるか…… —

 「お父さん、ご職業は?」

 父「は、はい。えー、一応、教師です」

 「なるほど、お子さんが学校に行かなくなると、立場的にもおつらいですね」

 父「い、いや。そういうことはありません。やはり息子の気持ちが一番大切ですからね」

 母「あなた……。ツヨシが休みたいって言ったのを、いじめに負けるな、って言ってたわよね」

 父「そんなこと言ったか?」

 母「ええ、何度も聞きました」

 父「そ、そうか。将来、厳しい社会に立ち向かっていくために、今、耐える力をつけるのが大事だから、それに近いようなこと言ったもしれないな」

 母「また、とぼけてるわね」

 「それはそうと、学校には相談していないんですか?」

 父「もちろんしています。誰がやっているかも判明しているんです」


【 2 いじめの加害生徒 】

 「誰がいじめているか、わかっている。けれども収まらない……」

 父「厳しく指導してもらっているんですけどねぇ。その生徒、精神的に重大な問題を抱えているとしか考えられない」

 「どんな指導をしてもらっているんですか?」

 父「学年主任と担任が注意していますね。やめないから、毎日叱ってもらっている状態です」

 「なるほど。精神的に問題を抱えているというのは、どうしてわかったのですか?」

 父「これだけ注意してもらってもやめないので、何らかの問題を抱えているとしか考えられないのです」

 母「あなた、学校に行ったとき、その子に会ったんですよね?」

 父「あ、そうですね。ゴールデンウィーク明けに一度」

 「会って、どうでしたか?」

 父「それがですね。何も言わないんですよ。謝りもしない」

 母「あなたがすごい剣幕で怒るから、反発しちゃったんじゃないの?」

 父「そんなにきつく言っていないぞ。目も合わせようとしなかった。目を見なさい、って言ったら、私のほうを睨みつけましたね。元々反抗的な子じゃあないかな」

 「お父さん、そのときのその生徒の目を思い浮かべていただけますか?」

 父「はい、いいですけれど」

 「ではお願いします」

 父親は、思い出しているようだった。僕はこの父の目を介して、その加害生徒のこころへの潜入を試みた。暗い蒼だ……。深い蒼だ……。見つけにくい……。ようやく狐色に光る「それ」を右手にとってみた。

― 誰も信用できない。何を言っても聴いてくれない。いいんだ、俺はこれで。もう諦めた。 —

 この生徒の不信は相当に強いな。なぜここまで頑ななんだろう。普通の指導では効果は期待できない。

 「ところで、スクールカウンセラーは、その生徒のカウンセリングをしているんですか?」

 父「はい。毎週やってもらっています」

 「スクールカウンセラーからは、どんな意見や助言をもらっていますか?」

 父「時間がかかりそうです、と」

 「カウンセラーには、認めているんでしょうか?」

 父「いいえ、カウンセラーにも肝心なことは話していないみたいです」

 「カウンセラーは、その生徒が加害者だと思っているのですか?」

 父「はい」

 「それは、なぜ?」

 父「えっ? 当然というか……、学年主任から依頼されたから、です」

 「どんな依頼?」

 父「いじめ加害生徒のカウンセリングを依頼してもらったんです」

 「ということは、お父さんからの要望だったんですね?」

 母「この人、口を出し過ぎるんです」

 父「当たり前じゃないか。うちの子がいじめに遭っているんだぞ!」

 「カウンセラーは、その生徒がいじめ加害者だと言っていたのですか?」

 父「はっきりは言ってませんが、なかなかいじめを認めてくれない、っていうようなことを言ってましたね」

 「そのスクールカウンセラー、何歳くらいで、性別は?」

 母「まだ若い女性の方です。今年からみえたばかりの先生です」

 「そうですかぁ。一つ疑問があるんです。本人が認めていないのに、どうしてその生徒がやっているとわかったのでしょう?」

 父「はい。ゴールデンウィークに入る前、2年全員にアンケート調査をしてもらったんです。その中で、複数の子が、その生徒がうちの子の物を持っているのを見た、と書いていたんです」

 「だから、書かれた生徒がやったということですね。けれど本人は認めていない……」

 父「はい。客観的な証拠があるのですが」

 「客観的とは?」

 父「うちの子の物を持っているところを見た生徒が、複数いるということです」

 「うーーん……」

 母「先生、どうかされましたか?」

 「私がその生徒に、外部カウンセラーとして会うことは可能ですか?」

 父「それはもう。会っていただけるのですか?」

 「学校の許可がいりますね。学校で会いたいので」

 父「私から言えば、できるはずです」

 「どうしてですか?」

 父「被害者の保護者の要望ですから」


【 3 学校で 】

 週明けの月曜日の午後3時、僕は文京区内にある区立中学校へ行った。本郷三丁目から水道橋方面へ歩いたところにあった。近くには多くの大学が並び、西には東京ドームも見える。

 校長室へ案内されると、すでに父親と教頭、学年主任が待っていた。教頭が言った。

 「わざわざありがとうございます。デリケートな事案ですので、どうかよろしくお願いします」

 デリケートだから? だから何をお願いされたのだろう……。

 「ええ、問題の本質を解決したいと思っています。それでよければ、尽力させてもらいます」

 教頭「いじめの問題ですから……、まあ、穏便にまとまるようにお願いします」

 「穏便、ですか……。穏便よりも真実を求めましょうよ」

 教頭「え、えぇ。真実は、もちろんのことで……」

 僕は、この空気は懐かしいなぁ、と感じていた。僕が中学生だった頃に味わったのかなぁ。

 ツヨシをいじめていた生徒は、相談室で待っていた。そこまで3人が着いてきた。相談室に入ると、他の3人も入ろうとしたので驚いた。

 「皆さんは、校長室で待機していてください。1時間で戻りますから」

 教頭「同席のつもりでしたが……」

 「それでは大きな支障をきたします。どうか1対1で。スクールカウンセリングのときも、1対1ですよね?」

 教頭「そうですが……。先生は、学校の職員ではないので……、ちょっと」

 「お父さん。では、無理ですね。帰らせていただいていいですか?」

 父「いやいや。教頭先生、先生の言うとおりにお願いしますよ」

 教頭「ではーー、わかりました。1時間、待っております」

 この生徒へのカウンセリング、教師や被害生徒の親たちの前でできるはずがないということがわからないのだな。仕方がないことだが、僕が学校に歓迎されていないことは、言葉や態度のあちこちに醸し出されているのだった。彼の名前はタダシ。

 「タダシくん、座るね」

 彼が座るソファーの正面に座った。間には応接テーブルがあり、どういうわけか灰皿があった……。部屋が少し臭う。たばこ独特のもの。あまり使われないこの部屋を、一部の教員がこっそり喫煙するために使っているのだろう。片づけ忘れるとは。これも含めて穏便に、ということかな。

 タダシは前かがみに座り、ひざの上で組んだ自分の手を見ていた。僕はタダシの世界に潜った。

― 誰も僕の言うことを信じない。誰に言っても無駄。警戒を忘れるな。もう死にたい —

 僕は、ゆっくりと、自分に言い聞かせるように、呟いた。

 「タダシくん、いじめの犯人にされてしまったみたいだね。ひどい話しだ」

 「……」

 「僕は知っている。君は何もしていないことをね」

 「……」

 「だけど、僕に何も話さなくていいんだよ。君はいじめの犯人にされて、人を信じられなくなっている。話さないほうが、当たり前」

 タダシの目から溢れる涙が、ズボンに落ちた。ポタポタと。

 「もう終わりにしよう。十分だ。何が起きているか、僕が本当のことを明らかにするように踏ん張ってみる。タダシくんの濡れ衣を晴らしたい」

 そう言って立つと、タダシは顔を上げ、僕のほうを見た。

 「夏休みが終わるまでには何とかしたい。それまで待っていて。邪魔が入らないといいんだけど、ね」

 部屋の出口で振り返ると、タダシは左手を僕のほうに伸ばしていた。僕の腕をつかんで「待って」と言いたいようだった。

 「もし君が僕に会いたいとか、喋りたいと思ったら、僕の相談所においで。ここは学校だから……」 

 タダシは少し頷いたように見えた。そして泣きながら一言、口にした。

 「ぼく、死のうと思ってた……」

 「うん、死ななくて、間に合って、よかったよ」

 そう言い残し、相談室を出て校長室に戻った。

 父「先生、早かったですね。30分も経っていないじゃないですか」

 「いやぁ、穏便に済ませてきましたよ」

 教頭「それで、どうでしたか?」

 「ツヨシくんのいじめアンケートの用紙を、見せてください」

 教頭「はぁ、構いませんが。これは内密にお願いします」

 「はい、他言はしません」

 教頭が、校長室内のロッカーから用紙を取り出し、応接机の上に置いた。記名式だった。

 「この6枚に、目撃が書いてあります」

 質問は「2年A組の田中ツヨシくんの物がなくなっています。ツヨシくんの物なら何でもいいですので、他の人が持っているのを見たことがある人は、記入してください」とし、「物」と「人」、そして「日時」を書く欄が設けてあった。タダシの名が書かれたものが上に重ねてあり、物としては「靴」「上靴」「運動靴」「体育館シューズ」「靴、鉛筆ケース」「靴、消しゴム、下敷き、ラケット、ハンカチ」が書いてあった。日時はバラバラだった。

 「ラケットとは、なんですか?」

 父「ああ、卓球部なので、そのラケットではないかと」

 「ラケットがなくなっていたこと、お父さん知っていましたか?」

 父「いいえ、聞いていません」

 「先生方は?」

 教頭「私たちは聞いていませんね」

 「あと、部室の鍵収納庫を見せていただけませんか?」

 隣の職員室の一角、壁に取り付けられた金属製の収納庫を開けて中を見た。そして、校長室に戻った。

 「これは不可解なことだらけです。この6枚目を書いた佐々木アイコという生徒は、どんな子ですか?」

 教頭「学級委員をしている、真面目な子ですよ」

 「同じクラスですか?」

 教頭「いいえ、C組だったはずですが」

 「このアイコさんに会いたいと思います。お父さん、手配をお願いします。一応、確認しますが、教頭先生、学校へ呼んでもらい、私と1対1で話すことは難しいでしょうね?」

 父「教頭先生、なんとかお願いしますよ」

 教頭「校長と相談して、明日にでもお返事ということでよろしいでしょうか?」

 「はい、ありがとうございます」

 父「教頭、うちの子のいじめのことなんです。前向きに、なんとか」

 こうして、この日、学校を後にした。部活動に励む生徒たちの声が響いていた。


【 4 学級委員長 】

 なぜ疑問に思わないのだろう。6人は全員女子だ。運動部は男女別であることが、鍵収納庫の部室名からわかる。違うクラスの生徒が、文房具を誰の物かここまで識別できるのだろうか。他の生徒が1つか2つの物を書いたのに対し、この生徒だけ5つも書いている。それに字がとても丁寧で分かりやすい。

 神田の相談所に戻ると、さっそくツヨシの父親から電話が入った。

 「泉先生! 教頭から連絡があり、明日、C組の学級委員長と学校でお会いしていただけます。午後3時でよろしいですか?」

 「はい、なんとかします。お父さんの熱意が伝わりましたね」

 「ええ、いじめをほかっておくわけにはいきませんから」

 「一つだけ、確認したいことがあるのですが」

 「はい、なんでしょう」

 「今のお務め先はどちらの学校ですか?」

 「台東区内の中学です」

 「役職は?」

 「校長です」

 「前任校は?」

 「いや、文京区教委にいました」

 「ほう、そうですか。部署は?」

 「教育指導課ですが」

 「もしかして、課長とか?」

 「ええ」

 「まだお若いのに」

 「いえ、もう55歳ですよ」

 「いろいろありがとうございます」

 翌日の午後3時、僕は再びこの学校を訪れた。校長室には、ツヨシの父親と教頭、2年C組の担任がいた。

 「校長先生は?」

 教頭「えー、ちょっと体調を崩しまして、終業式の翌日からお休みになっています」

 「なるほど。こちらは佐々木アイコさんの担任の先生ですね?」

 C組担任「はい」

 「アイコさんはどんな生徒ですか?」

 担任「いわゆる優等生です。学業も運動も、性格面も」

 「これまでにトラブルは?」

 担任「聞いたことないです」

 「そうですか。アイコさんの親さんのお仕事は?」

 担任「教師です。今は、確か教育庁にいます」

 「部署はわかりますか?」

 担任「えー、人事部だったと思います……」

 「なるほど。では、場所は昨日の相談室でいいですか?」

 教頭「はい」

 父親「お願いします!」

 相談室に入ると、アイコが待っていた。僕のほうを見て、にこやかに「よろしくお願いします」と挨拶した。今日は灰皿は片づけられていた。

 「わざわざ、ありがとう」

 アイコ「こちらこそ」

 「さあ、座ろうか」

 「はい」

 「アイコさん、嫌いなものはなに?」

 「えーー、特にないですね」

 「そうかぁ。じゃあ、少し嫌いなものは?」

 「な、ないです」

 「そうなんだね。じゃあ、嫌いな人は?」

 「いないです」

 「アイコさんは、何でも好きなんだね」

 「はい、好きです」

 「じゃあ、教師は?」

 「好きです」

 「嫌な教師は?」

 「えっ、好きですけど」

 「酷い教師は?」

 「す、好きです……けど」

 「卑怯な教師は?」

 「みんな嫌いじゃないです」

 「どうしてみんな好きなんだろ?」

 「……。は、はい。嫌いに思えないから」

 「では、自分のことは好きかな?」

 「は、はい」

 「自分の嫌なところは、好き?」

 「……。嫌なとこはないと思います」

 「それはすごいな。僕なんて、嫌なところばかりだよ」

 「では、最後の質問ね」

 「はい」

 「我慢していることを教えて」

 「が、まん? うーん。特にないです」

 僕はアイコと会って、挨拶を交わしたときに彼女のこころに潜入していた。そして、彼女の憎悪が鮮烈に伝わってきていたのだった。彼女があらゆる人のことが好きなのは、意図的に嘘をついているのではなく、反動形成という自動装置が動いていて、ほとんど自覚できないのだった。アイコの目に潜入したとき……。

― みんな嫌い。教師は嫌い。卑怯者だ。偉い人ほど卑怯だ。でも、それよりもっと自分が嫌い。だから私は他の人を嫌いと思わない —

― 痛い。でも嬉しい。私を打って。定規で打って。こんな私なのに関心をもってくれる。私を叱って、打ってくれる父のことが好き。私だけの秘密の楽園 —


【 5 嘘を書いた訳 】

 「アイコさん。今から言うことを聞いていてくれるかな」

 「はい」

 「その前に、これから言うことは、先生たちには言わない。君の家族にも、誰にも言わない」

 「なぜですか?」

 「言っても無駄だから」

 「私に言うのは無駄じゃないんですか?」

 「もちろん! きっと君のこころは求めている」

 「何をですか?」

 「これから言う内容を、誰かに知ってもらうことを」

 「はい。わかりました」

 「じゃあ、長くなるけど聞いてね」

 「はい」

 「4月の終わりにアイコさんが書いたいじめアンケートは、正しくない。では、なぜ書いたかというと、頼まれたから。多分、ある先生に。タダシくんがツヨシくんの持ち物を隠した犯人だと書くように。そう頼まれたんだ。それだけじゃない。他の生徒にも書いてもらってくれ、とも頼まれた。だから、君の親友たちに頼んだ。そしてその中の5人が書いてくれた。君の友達は勉強のできる子たちが多かった。だから先生たちは、アンケートに書かれたことを疑わなかった。こうしてタダシくんがいじめの加害者だとされて、指導を受けることになった」

 「……」

 「あと、大事なことを言い忘れた。君は自分のことを嫌っているね。お父さんから叩かれたりするのは、自分がいけないからだと思っている。お父さんは仕事が忙しい。そんなお父さんに構ってもらえるのが、嬉しかったんじゃないかな」

 「……」

 「長く聞いてくれてありがとう」

 「あのぅ、先生は学校の先生ですか?」

 「いいや、違うよ。神田にある泉心理相談所のカウンセラー、泉海(いずみ かい)だよ。学校に雇われていない。孤独な職業だ」

 「やっぱり、そうですよね」

 「どういうこと?」

 「先生なら、こんなに簡単なことでも気づかない」

 「うん、そうだ。学校の先生だから気づかない。同じ意見だ」

 「はい」

 「アンケートに書くよう、君に依頼したのは、……」

 「校長先生です」

 「うん、そうだ。君が断らなかったのは、特に理由がない。強いて言えば、断っても断らなくても、何も変わらないから」

 「はい」

 「お父さんに叩かれ続けたことも、誰にも言わなかった。むしろ嬉しいと思い込んでいたし、言ったところで何も変わらないのを知っていたからだと思う」

 「泉先生」

 「何?」

 「すごいね」

 「いいや、先入観を持たず、こころを見ようとして対話をすれば、簡単に気づくことだよ。教育委員会や学校という機械の中にいる部品には、わからないのさ。その点、君は部品じゃなかったということ」

 「ごめんなさい」

 「これは大人たちの中に溜まった膿の問題だ。今の話は、先生たちには言わない。言いたくないよ」

 「それでいいのですか?」

 「うん。このいじめ問題の根源にメスを入れられれば、それが一番いいんだ。きっと、大きな圧力がかかって、僕が潰されてしまうかもしれないけれど、学校関係者じゃないから、それでいいのさ」

 「はい」

 「君と話せてよかった」

 「本当にありがとうございます。あと一つだけ質問していいですか?」

 「いいよ」

 「誰が、ツヨシくんをいじめてたんですか?」

 「目星はついている。君なら想像できると思うけど」

 「はい」

 「君、アイコさんからは何も言わないでおこうよ。今日は、アンケートに書いた目撃現場のことを訊かれた、としておこう」

 「はい、わかりました。先生じゃない先生って、面白いです」

 「では、またいつか!」

 「はい、頑張ってください」


【 6 教頭、スクールカウンセラー 】

 アイコは虐待を受けていた。児相への通報をしなくてはいけない。通報は、する。ただタイミングを少しだけ遅らせてもらうことを容赦してほしい。そうでないと、目前で展開している教育の腐敗に迫ることができなくなってしまう。向こうの組織は命がけで守ろうとするだろう。僕は自分のことを元々「どうなってもいい」と悟っているから、負けてしまってもいい。できるところまで、やればいい!

 校長室に戻った。

 父「泉先生、どうでしたか?」

 「はい、しっかりと説明してくれる子でした」

 教頭「どんなことを説明していましたか?」

 「事実関係ですよ」

 教頭「それで、やっぱり目撃した、と?」

 「さあ、どうでしょうね」

 教頭「どういうことですか?」

 「どうってことないですよ。教頭先生、何か気にかかることでも?」

 教頭「い、いいえ、いいえ、いいえ。何もありません」

 「教頭先生、いいえは一回で、十分伝わりますよ」

 教頭「ええ……」

 父「先生、C組の佐々木さんから話を聴くことは、大事なことだったんですか?」

 「はい、とっても」

 父「どのように役立ったのですか?」

 「それ、あとで教頭先生に訊いてみてください。ところで教頭先生、あのう、校長先生は体調を崩されているそうですが……」

 教頭「は、はい」

 「もしよろしければ、体調はどのような状況なのか、軽く教えていただけませんか?」

 教頭「それは……。一般の方にはお話しできないことと理解していただければよろしいかと」

 父「その情報は、息子のいじめに関係するんですか?」

 「しますが、無理に聞こうとは思いません」

 父「教頭。教えてくださいよ」

 教頭「いやぁ……。それは……」

 父「教頭!」

 教頭「私は知らないので……」

 父「本当ですかぁ。それでは仕方がないですね」

 「ああ、そうだ。教頭先生、昨日僕が出たあと、校長先生と電話され、有意義な打ち合わせはできましたか?」

 教頭「何のことでしょうか……」

 「いやー、帰ろうと外へ出たら、校庭で練習していた陸上の生徒たちがいまして、腰を下ろして練習風景を少し眺めていたんです。懐かしくて。校門とは反対側のほうへ移動して。そうしたら、後ろの部屋から、教頭先生が電話をする声が聞こえてきてしまったんです。校長、って呼ぶ声が何度もしましてね。だからてっきり、お二人で打ち合わせをしていたのかと」

 父「教頭、本当ですか?」

 教頭「あれは……。あっ、電話はかかってきましたが、相手は違う人です」

 「そうですよね。発着信履歴を見せてください、なんてことは言いませんから」

 教頭「それはプライバシー侵害ですからね」

 「それは失礼。昨日、校長とは電話していなかったんですね」

 教頭「はい」

 「私と佐々木アイコさんが学校で話すことを校長と相談していただけると言われたので、てっきりそれかと早とちりしてしまいました」

 教頭「うっ……!」

 「お父さん。この学校のスクールカウンセラーの名前、教えてもらえませんか?」

 父「今わからないので、家にある学校通信を見てお知らせします」

 教頭「あまりむやみに情報を出さないでくださいよ」

 父「何言ってるんですか! うちの子のいじめが止まらないんですよ!」

 教頭「ええ。ですから、加害生徒の出校停止も検討しているところです!」

 小雨の夕闇が迫る頃、ツヨシの父親から電話がかかってきた。この学校のスクールカウンセラーは、日向マキという名だった。心理士名簿で調べると、大学院修士を出て1年目で心理士のライセンスを取得したあとだった。名簿に記載された連絡先に電話をしてみた。

 「突然すみません。泉心理相談所の泉です。日向マキさんですか?」

 「はい。お電話かかると思っていました」

 「それはどうして?」

 「教頭先生から連絡があったので」

 「やっぱりそうですか。では、話は早い。口止めですね」

 「はい。私、すごく胸が痛みます」

 「うん。せっかくスクールカウンセラーにチャレンジしたのに、いきなりつらい立場に置かれたね」

 「泉先生、わかるの?」

 「うん、わかるさ」

 「なぜ?」

 「これはあくまで比喩なんだけど、僕は接触した人の心の中に潜ることができる。この電話の君の声はとても解放されていて、すっと入っていけた」

 「面白い比喩ですね」

 「だから、君の言いたいことは大体わかった」

 「私、私……、嘘を言い続けるのが……(涙)」

 「うん。校長と教頭から、毎週タダシくんのカウンセリングをしていることにされている。それも、いじめの加害生徒として。それが被害生徒のためになる、と理由を言われて」

 「はい……」

 「管理職の指示は絶対だからなぁ。特に新人の心理士にとっては」

 「はい。泉先生、それ、誰から聞いたんですか?」

 「君が教えてくれたんだよ」

 「えっ、私詳しく言っていないのに」

 「十分だったよ。ありがとう」

 「私、これからどうしたらいいでしょう?」

 「タダシくんの件は、君には荷が重すぎる。君を必要としているほかの生徒のこころに耳を傾け続けてほしいな」

 「タダシくんは?」

 「僕がなんとかする」

 「すみません。よろしくお願いします」

 「はい、わかりました。日向マキ先生! その胸の軋みを忘れないで。きっと素敵なスクールカウンセラーになれますよ!」


【 7 蓋 】

 出校停止。

 文科省は、学校教育法第26条第40条を根拠に、「公立小学校及び中学校において、学校が最大限の努力をもって指導を行ったにもかかわらず、性行不良であって他の児童生徒の教育の妨げがあると認められる児童生徒があるときは、市町村教育委員会が、その保護者に対して、児童生徒の出席停止を命ずることができる」と通知している。ただし安易な適用をしないよう、慎重さを求めている。

 タダシの場合、ツヨシの物を盗む・隠すといういじめが認められ、学年主任と担任が毎日指導し、スクールカウンセラーが毎週カウンセリングを行っても、改善を見せなかった。学校は最大限の努力をもって指導にあたった。こうして出校停止の期間、その間の指導法など、具体的プランの策定を始めることができた。

 学校は、2学期からの出校停止へ向けた準備を進めると共に、区の教委や都の教育庁との協議を急ぐようになった。そしてその経緯をいじめ被害者ツヨシの両親に伝えていた。ツヨシの父親は歓迎したが、母親には複雑な思いが交錯していた。それで根本的な解決と言えるのだろうか、いずれ復帰する時に再発しないだろうか、と。

 翌日の朝8時過ぎ、ツヨシの母親である田中ミチヨから泉相談所に電話が入った。「一人で相談に来たい」という。今すぐならギリギリ時間が取れることを伝えると、急いでやってきた。

 この日、気象庁が関東地方の梅雨明けを宣言した。途端に猛暑に見舞われていた。

 「泉先生、加害生徒の出校停止で本当の解決になるんでしょうか?」

 「出校停止中にどんなケアがなされるのか、その内容次第でしょう。一般論としてはね」

 「一般論というと?」

 「はい。今回の事案という意味でなく、いじめの加害生徒を出校停止にする場合のことです」

 「うちの子をいじめている生徒のためにはならないかもしれないということですか?」

 「はい、お母さん。実はこの学校の中で、私が信じられる大人は、これまで関わった限りあなただけです」

 「ありがとうございます。ではうちの主人は?」

 「お母さんから見て、何か感じるところはありませんか?」

 「今日急にお願いしたのも、夫のことなんてすが」

 「はい」

 「息子に対する温かみが欠けているように思えるんです。こう言ったら語弊があるかもしれませんけど、心理的虐待をしているんじゃないかって感じるところもあるんです。いじめられている子に接する態度じゃない、っていうか」

 「そうでしたね。いじめられて辛いのに、負けるなと言って休むことを禁じていましたね。今ここで全部お話することはできませんが、中学の教頭が結果的にご主人の言いなりになっている点、教頭と校長が陰で繋がっている点、そしていじめアンケートにはっきり書いているC組の女子生徒ですが、彼女は父親から身体的虐待を受けて育っているのです。この父親というのが東京都の教育庁の人事部にいるんです。みんな教育者だというのは、偶然というには無理があると思いませんか?」

 「そうですね……」

 トゥルルルルーー トゥルルルルーー

 「あっ、主人から電話です。先生、どうしましょう」

 「出てください」

 「はい」「はい、私です……、、、えっ! なに、それ! ええ、わからないわ。ええ、またあとで」

 「何か?」

 「佐々木アイコさんが出校停止になるって……」

 「やはり、そうですか……」

 「泉先生、知っていたのですか?」

 「いや、可能性はあると思ってました。僕が彼女と会ったから。そして……」

 「そして?」

 「僕はもう学校に入れてもらえないかもしれない」

 「なぜ?」

 「触れてはいけない領域に触れてしまったから、です」

 「そんな! 主人のほうから学校に言ってもらいます」

 「無駄だと思いますよ」

 「どういうことですか?」

 「僕、今から学校へ行ってみます。それでわかると思います」

 「私もついていっていいですか?」

 「ご希望なら、どうぞ。その代わり気をしっかりと保っていてください」

 タクシーを呼んだ。2人で乗り、中学校へ急いだ。校門には教頭が立っていた。僕が来るのを予想していたかのように。

 「教頭先生、校長室でお話できますか?」

 教頭「泉先生。先生はもう学校への立ち入りは禁止です。校長の指示です」

 母「そんな! 主人に来てもらいます」

 教頭「ご主人は校長室にいます。ご主人も泉先生の立ち入り禁止には賛成しています」

 母「そんなはずないわ。泉先生、校長室にいきましょう」

 母親に手を引かれて中に入ると、教頭が携帯電話を出し、その場でどこかへ電話をかけた。2人で走りながら校長室に入った。そこには、校長、ツヨシの父親、そして見知らぬ男性がいた。

 母「あなた!」

 「あなたは?」(僕が見知らぬ男性に尋ねた)

 「私は、佐々木です。アイコの父です」

 「教育庁人事部の……。あなたの娘さんが出校停止に?」

 佐々木「はい、それで仕方ないでしょう」

 「なぜ?」

 佐々木「アンケートに嘘の記述をしただけでなく、友人にも強制させた。その結果、関係のない生徒がいじめの加害者にされて毎日叱責を受けることになった。彼が被ったこころの傷は計り知れない。その罪に対する指導を徹底するためです。娘と言えど、甘い対処は許されないわけです」

 「そういう理屈ですね。そして校長、あなたは体調が悪いのでは?」

 校長「いや、何も問題はないです」

 間もなく警察の緊急車両の音がした。想定通りといえば、そうだ。3人の警官が足早に入ってくると、校長が僕を指さし「この人です」と言った。

 警察官「不法侵入の疑いで署まで来ていただきます!」

 ツヨシの母親の「泉先生ーー!」と叫ぶ声が聞こえた。僕は2人の警察官に両脇を抱えられ、警察車両に乗せられると、所轄の本富士警察署へと連れていかれたのだった。


【 8 隠ぺいの背景 】

 実のところ僕は、ツヨシの父親、教頭、校長、佐々木(アイコの父親)に接触する度に、彼らのこころに潜入していた。この心的ダイブは、体験を重ねるにつれ、自然に、頻繁に起きるようになっていた。また、誰かと対面するだけでなく、既知の人のことを考えると、その人の本音がこころの声として言葉で聞こえてくる。常に誰かのこころを感じているのが当たり前のような状態になっていた。そして、この営みが僕自身にとって大きな負担であり、疲労が毒となり徐々に蓄積し、心身を蝕んでいることには鈍感になっていった。

 さて、この中学校の「いじめ事件」に関わる大人たちについて、把握できたことがある。

 この4人はあるグループに属していた。そのグループの横の繋がりが明るみに出されることは、彼らには非常に都合が悪い。それに加えて佐々木にはさらに恐れていることがあった。そう、幼い頃から娘のアイコにしていた虐待の発覚だ。それを防ぐために、娘のアイコを嘘つきに仕立てることを思いつき、急遽、スケープゴートをタダシからアイコに変えたのだ。僕が秘密に触れてしまったから……。

 彼らは2年前の夏休みに、当時のこの中学校のPTA会長、会計担当の2名に加え、タダシの父親であった元区教委の井戸を加えた7人で、PTA会費を用いてイギリスへ視察旅行に出かけたのだった。この中学を国際的感覚を養う英語特別教育学校にする準備のため、姉妹校候補との協議を行う名目だった。しかし実際には現地の学校には一切寄らず、単なる観光旅行に終わった。そして公費流用が発覚しないよう、虚偽の視察報告書の作成を任されたのが、井戸、すなわちタダシの父親だったのだ。

 井戸は報告書の作成が捗らなかった。逆に、良心の呵責に耐えきれなくなって「もう書けない」と音を上げた。人事部にいた佐々木は、そんな井戸に叱咤した。そして井戸は、去年の春に遺書を残して自ら命を絶ってしまったのだった。

 遺書には「ただの観光旅行でした。PTAのお金を無駄遣いして申し訳ありません」と記されていた。東京都の教育庁は、参加した残りの6名を降格と減給の処分にしたが、この事実を公表することはなかった。去年の暮れのことだ。

 亡くなった井戸を恨んだ佐々木は、井戸の息子のタダシに恨みを転嫁した。そして校長、教頭、ツヨシの父親と相談し、ツヨシの物を隠し続け、そのいじめの犯人をタダシに仕立てようとする復讐に出たのだ。隠したのは、校長と教頭である。いじめの被害を誇張する役を、ツヨシの父親が買って出た。校長の指示でいじめのアンケート調査を行い、あらかじめ仕込んでおいた佐々木の娘、優等生のアイコらが嘘を記入したのだった。

 これが、ツヨシへのいじめの発覚、タダシをいじめ加害者とする認定、指導効果がなく長期化する「いじめ問題」を作り出していたからくりだ。生徒たちには一片の非もない。教育関係者である大人たちの軽い私欲に始まり、大事になるや隠蔽で収めようとする習性が、本質だったのだ。

 歪(いびつ)な負の感情を抱える人々が集まると、個だけでは起こりえないグループダイナミクスが作用して、とんでもない発想が生まれたり、行動の暴走化を招いたりすることがある。ストッパー役を誰が担うのか。それは大抵、身近な弱者の純粋な思いであり、問題行動である。今回は、タダシの母親が、学校の取り組みにもかかわらず息子へのいじめがなくならないのを心配し、僕の相談所を訪れたことである。父親が同席したのは、秘密を悟られないよう監視するためだった。

 僕が学校へ足を運び、当該教師や生徒に接触する様子に、関係者は徐々に脅威を強めていった。限界を突破されかかり、最終的に校長の権限を使い、警察の力を借りて止めさせようとしたのだった。パトカーのサイレンで近隣の注目を浴びた学校は、「学校への不法侵入を繰り返した男が警察に連行された」とのアナウンスを出して、生贄を際立たせることで自分たちの正当性をアピールしようとした。一部の地方版とスポーツ新聞がそれを報じた。

 本富士警察署は、東京大学の南側に隣接している。着くなり、僕はカウンセリングの予約について説明し、キャンセルの連絡をする必要性を理解してもらった。すぐさまマリさんに電話をかけ、その作業を依頼した。僕の部屋とカルテ保管庫の鍵のスペアーの隠し場所を教え、スケジュール票を見てもらい、その日に予約していたクライエントに伝えてもらったのだ。そしてもう一つの依頼をした。「山岡元警部の現在の部署を調べてほしい」と。

 マリさんは電話で「退職したんじゃなかったの?」と訊いてきた。

 「いや。バスジャック事件を、一人のけが人も出さずに解決させた功労により、昇給しているはずです。僕以外にもう一人取り押さえられたというのは、演技だったんです」

 「どうやって見抜いたの?」

 「最後に握手を交わしたとき、すぐに読み取れましたよ。心中謝る声がはっきり聞こえました」

 調べてもらうと、元山岡警部は、警視庁刑事部参事官に特別昇任し、警視正となっていた。僕は本富士警察署の署員に頼んで、山岡警視正に電話をつないでもらおうとした。

 署員「我々が参事官と話すことなどできないですよ」

 「いや、泉海(いずみ かい)から電話だ、と言ってもらえれば、多分出てもらえますよ」

 署員「まあ無理だと思うが、かけてあげますね」

 警視庁は、ここから南方向、皇居を挟んだ霞が関二丁目にある。桜田門と呼ばれることもある。予想通り、僕の名を伝えることで山岡参事官が電話に出た。そして署員は驚いたような表情で受話器を置いた。

 「参事官がすぐこちらにいらっしゃると……」

 「ね? ではそれまで少し待ちましょう」

 冷たいお茶を出してもらい、15分ほど待っていると、山岡参事官が黒塗りの警察車両の後部座席に乗って、やってきた。

 「泉先生。先日はどうも」

 「ついこの間のことですものね。ご栄転おめでとうございます」

 「君には感謝している。そして申し訳ない」

 「いいんですよ。大人の事情、わかっていますから」

 「やはり泉先生らしい。ところで今ここにいるということは、また何らかの厄介な事情に巻き込まれたのでしょうね」

 「今度は、教育界の事情でした」

 「そうか……。お疲れ様です。私に家まで送らせてもらえないですか?」

 「はい、もちろんお願いします」

 山岡参事官が署員に「あとは私が話を聞く」と言ったとき、多くの署員たちが出てきて敬礼をした。いつの間にか本富士警察署長もいて、最前列へ出ると、深々と頭を下げた。

 僕たちは帰り道、黒塗りの車の中で横に並んで話した。

 山岡「泉先生のことをね、家族には全部話したよ。もちろん息子にも、だ」

 「そうなんですね」

 「そうしたら息子が、こう言いだしたんです。僕は大きくなったら心理士になるんだ、って。思わず妻と顔を見合わせて、苦笑いしましたね」

 「頼もしいお子さんで」

 「でしょう?」

 「山岡さん、あなたはどうか公職の中にいて、打たれる杭にならないように、正義を走ってください。僕は在野の一匹狼として、自由に泳ぎ回ります」

 「そうですね。また困ったことがあったら、連絡してきてほしい。これが私の携帯電話の番号です」

 「ありがたく頂戴します」

 相談所の前に到着すると、僕は車を降り、山岡参事官と再び握手を交わした。その瞬間を週刊誌記者に盗撮されているとは、気づかなかった……。

 今回の、東京都教育庁を巻き込んだいじめ捏造問題、PTA会費の流用と職員の自殺という一連の不祥事につて、僕は一切の公表を避けた。守秘義務を貫くためでもあったが、公表したところで、世間は氷山だけを見ては好き勝手な批判を声高にするだけで、その下に沈むもっと大きな土台を見ようとしない、そんな諦念のほうが大きかったからだろう。

 佐々木アイコへの虐待については、児相の虐待緊急ダイヤル「189」に通報し、アイコはすぐに一時保護となった。

 この一件以降、僕と東京都教育関係者との関係は「デリケート」なものとなった。僕が首を突っ込むと嫌がられるだろうが、僕はそれで構わない。助けが必要なクライエントのために動く。

 玄関に入ると、その音を聞きつけてマリさんが下りてきた。

 「泉くん。またまたご苦労さまでした!」

 「マリさん、ありがとう」

 「何が?」

 「いやぁ、この家で待っていてくれたことかな」

 「そうね。どういたしまして」

 「中学校から東京ドームが見えたんです。白く膨れ上がったドームの丸屋根が。みんなには大きくて立派に見えるかもしれないけれど、あの中は空間なんですよね」

 「そうよね。空洞よね」

 「マリさんもそう思いますか?」

 「ええ。あっ、そうだ。私、お願いがあるの」

 「なんでしょう?」

 「私を、相談所の事務員にしてもらえないかしら。職員じゃない人にクライエントさんの電話番号とか教えられないでしょ?」

 

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