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diver 第一部 第十話

【 1 沈滞 】

…………

<(低い男の声)さて、読者の諸君。そろそろこの物語に隠された、ある真実の秘密が見えてきた頃かな。「いやいや、理屈では説明のつかないことがある、ぐらいしかわかりません」といった声が聞こえてきそうだ。そんなに難しいかな。決定的に重大な、ある真実を見抜くのは>

 <この物語は誰が書いている? 「僕」と呼んでいる書き手は誰だったかな? 泉海(いずみかい)じゃないかって? そうだった。では、諸君は、泉海のことをどれだけ知っている。本名は? 年齢は? 出身は? 家族関係は? なぜこの仕事をしている? 今はどうしている? ふむ、名前は泉海で、年齢は33歳か……。「僕」なる者がそう書いていたからな。あとは「僕」自身に記憶がないからわからない、と。そういうわけか>

<人間が生きるのは、物質的世界だけではないということが重要だ。それとは別に精神的世界が広がっているということだ。泉海と称する「僕」が書いているものが、精神的世界だとしたら。「僕」にも気づかれることなく。それも物質的世界とは隔絶され展開されているものだとしたら、諸君の捉え方は変わるかな? この物語の作者は泉海と認識している「僕」であることに間違いはない。さあ、続きを知りたい読者は、この後も読むがいい。いかなる奇想天外に出逢っても、彼の精神が欲しているのだと理解しておくことが大切になろう。そうでなければ、諸君も無限の精神世界のブラックホールに吸い込まれて抜け出せなくなるかもしれないからな>

<一つ書き忘れていた。この物語が7月4日に始まって以来、これまで一日たりとも更新されなかった日はない。初めてのことだ。「僕」という存在が2日間も書かなかったこと、いや書けなかったことは。精神活動にも物質と同じようなエネルギーが必要なのだ。足りなくなれば補給が必要なのは言うまでもない。そこはまあ、勘弁してやってほしい>

…………

 僕は天井を仰ぎながら寝転んでいた。湿ったベッドのシーツの感触がする。ここ数日、何をしていたのだろう。視界に入るのは天井の染み。濃くなったり大きくなったり、形が変容したりして、アメーバの映画を観ているようだ。音のない世界。

 音がなければ、人間はどれだけ生きやすいだろう。怒鳴り合うこともない、ヘイトスピーチもない、悲しみの声もない。いや、言葉も邪魔なのかもしれない。活字があるから、それを人にぶつけられる。言葉がなければ、内言は存在せず、人はここまで悩まなくてもよかったかもしれない。言葉を操れない魂が、下手に言葉を手にしたことによって失われたユートピア……。以心伝心で十分だったのに。伝承は、言葉でなくとも可能だった。

 ふと我に返ると、僕は水にいた。潜ってはいない。力なく、水の流れに任せて浮遊している。もはやイルカどころではない。難破船から剥がれた一つの木片と化している。泳ぎたくない。潜りたくない。もう疲れた。

 覚えている。そういえば、数日前の家田ユリのことがあった。もう一人、タイムスリップして会っていた山下ユリのことがあった。この喪失感が今の僕を分厚く覆っている。救えなかった側に残るこころの傷について、人は関心を寄せようとしないな。

 枕の傍には、無造作に置かれた写真週刊誌があった。「マンデー」……。あっ、そうだ。最近、見せられたのだ。これは誰から見せられた? 誰だった? とっても重大なことを忘れてしまったような気がする。付箋が付けられたページをめくると、僕の写真がたくさん載っていた。

― 自称心理カウンセラー、泉海の…… —

 書いてあることなんて、どうだってよかった。自分の写真、顔に目をやる。これ、誰の顔なんだろう? 望遠レンズで遠くからとったせいだろうか、ややぼやけたモノクロ写真の人物が、自分のような気がしない。この人間、表情がない。自分ではない。一緒に映った人々も、よくわからない。車の中で眠る女性……。赤外線カメラで撮ったのだろうか。この人は誰なんだ? 

 神社のような場所で撮られた写真。僕の足も、老人の足も、膝から下が透明になっているじゃないか……。他の写真は? 同じだ。足が映ったものは、どれも透明だ。僕の中の大切なものがすべて消えかかっている。二の次でよかった自分の足元さえ、もう見えていない。雑誌を投げ出して、今度はベッドに臥せった。

 うつぶせの状態で海面を漂った。海水は濁り、蒼緑色に阻まれて底は見えない。どこを見渡しても、視界の中に何者も会いに来てくれない。間近の濁りに焦点を合わせると、小さな粒がわかる。動き回っているものがたくさんある。これは植物性プランクトンだ! こんなところにも命はあるんだ。たったそれだけのことなのに、涙が溢れてきた。そしてその涙は、水と混じることなく、生き物のように四方八方へと広がっていく。誰かのところに届くのだろうか。泳いでもいいのなら泳いでみたい……。ふと、そう思った。

 「泉くん?」

 おや、誰かが誰かを呼んでいる。

 「泉くん?」

 泉くん……って。これは僕の名前? 呼んでいる声は、女性のようだ。誰だろう……。

 「泉くん?」

 はっきりと生の声を捉えた。懐かしいな。僕は少しの間、夢を見ていたのかな。


【 2 再始動 】

 誰かが僕の背中を軽く叩いている。誰かの名を呼びながら。名前は、アイデンティティを構成する要素として重要だ。名前を失ったものは、自分を見失ったも同然。

 「泉くん?」

 僕はベッドに伏したまま、声のするほうへ顔を向けた。心配そうに覗き込んでいる顔があった。なぜか懐かしい声のこの持ち主は、誰なんだろう……。

 「泉くん、大丈夫?」

 泉くんと呼ばれる僕は、気遣われているのか……。もう泳げなくなったこんな僕でも。潜れなくなったこんな僕でも。ただ浮いていることしかできない無能な木片人間。優しく覗き込むこの人は、もしかして僕のお母さん? お母さんのことは忘れてしまっていてわからない。いたんだよね、僕のお母さん。

 「泉くん、大丈夫じゃないわね。無理して動かなくても、喋らなくてもいいわ」

 そうなのか……。動かなくても、話さなくてもいいんだ……。無理しなくていいんだ。今まで、何かを目指し、闘い続けていたような疲れの感覚が、心身のあちこちに感じる。しなくていいなんて、こんなことを今まで言ってくれる人はいなかった。みんな「頑張れ」「努力しろ」と言う。みんなが頼ってきた。自分がとるに足らない存在だと思っているから、その分をカバーしなきゃいけないと、もがいてきた。僕はもう、闘わなくていいんだね。このまま横たわり、水に浮いていてもいいんだね。

 「泉くん、汗をかいているみたい。水をもってくるわ」

 そう言うと、その人はいったん視界から消えた。僕はまた目を瞑った。そして暗いマクロ・コスモスを俯瞰した。これはどこまで続いているのだろう、中心はどこにあるのだろう……。

 「さあ、これで汗を拭きましょ」

 僕の額、顔、首を拭いている、冷たく気持ちのいいタオル。その冷たさに反応して、脳内がモゾモゾと動き出した。

 「さあ、ちょっと起きましょ。冷たい水を飲みましょ」

 その柔らかい手に手伝ってもらい、姿勢を変え、上体を起こした。近づいてきたコップに口をつけ、一口飲んだ。おいしい! 何なのだ、この優しさは……。

 「泉くん。とっても疲れたわね。いろいろあり過ぎたもの。もう少し飲んだほうがいいわ」

 この人は、言わなくてもわかっている。僕が何を欲しているか、どんな言葉を求めているか。なつかしいこの顔と声。誰だったかな? 促されるように、また横になった。身も心も疲れ果てていた。老体にはとても堪える。自分の魂は老体に宿っているんだな。

…………

 どれだけの時間がたったかわからない。僕は自力で起き上がって、ベッドの上で足をくの字にたたんで座った。部屋の様子を見た。まだ若い男性の服が散らかっていた。メモ帳や携帯電話、マグカップ、リモコンなどが無造作に置かれている。しばらく様子を見ていると、小さくトントンと、ドアを叩く音がして、さっきの人が入ってきた。

 「どうかしら、泉くん」

 「泉くん?」

 「そうあなたは、泉くんよ。泉、海」

 「それ、僕の名前ですか?」

 「そうよ」

 「何歳ですか?」

 「泉くんは、33歳。人のこころに潜り込んで、本音を読みとれるカウンセラーよ。これまで何人もの人を助けてきたの」

 「僕は泉海で、33歳のカウンセラー。人のこころに潜り込む……。もっと年をとっているかと思ってました」

 「ええ、33なのよ。現役バリバリのカウンセラー。私は相棒の、マリよ」

 「マリ?」

 「ええ、山下マリよ」

 「マリ、マリ、マリ………。耳鳴りがする」

 「ええ、私はマリよ」

 「マリ」という名を心中で連呼し続けていたら、僕の身体に突如、閃光が走ったような感じがした。いや、閃光のトンネルをくぐったような感じに近い。すると全身に瑞々しいエネルギーが漲(みなぎ)った。不思議な体験。頭の霧がみるみる晴れて、自分の脳内を見渡すことができた。なるほど……、わかった! ようやく自分を取り戻せた!

 僕は、ユリを2度に渡って助けられなかった痛手から、一時的に路頭に迷い、いや内界のブラックホールに吸い込まれかけてしまっていた。僕にはまだやらなくちゃいけないことがある。もっともっとやりたい! そして、この人、相棒のマリさんと共に立ち向かうはずだった。

 「マリさん。もう大丈夫です」

 「泉くん?」

 「はい。マリさんは、お母さんのようでもあり、お父さんのようでもあり、けれども頼れる僕の相棒です」

 「そうよ」

 「僕はちょっとだけ、休憩したかったんですね」

 「ええ、そう思うわ」

 「あっ、そうだ。見てもらいたいものがあります。写真週刊誌のマンデー。僕らの写真の足元をよく見てくれますか?」

 「ええ、これね。………。えーー! 写真の足の先のほう。みんな薄くなっているじゃない!」

 「そうなんです。さっき、うなされながら見ていて、気づいたんです」

 「驚いたわ……」

 「はい。どうしてこんなふうに写っているのか、これが何を意味しているのか、わかりません」

 「すべての足がそうなってるから、印刷の問題ではないわね。泉くん、気になる?」

 「いいえ、記事の内容もそうですけど、気にしません。どうせこれは世間という名の張りぼての一環です。トリック写真でもいいし、そうでなくてもいい。それを見て心霊写真だと言う人がいたっていい」

 「同じ! 私も気にしないわ。救いを求めてくるあの人たちのために、泉くんの力を発揮してもらいたいの」

 「はい。世間って所詮、世間。そのようなものに何の実体もないですから」

 「そう。なのに人は世間を気にして、世間に振り回されるのね」

 「はい。僕は世間の正体をほかの人よりは知っている気がします。本当はない、ということを」

 「そうよね。同感だわ」

 「ネットが広がり、世間がバーチャルの世界でも猛威をふるうようになってしまった。人間はバーチャルな世界に怯えなくてはならなくなっいる」

 「本当にそうね」

 「……」

 「動けるようになったら、2階に来てね。そして何か食べましょ。用意するわ」 

 「ありがとうございます。服を着替えてから上がります」

 「じゃあ、またあとで」

 僕はもう一度寝転ぶと、自分の蒼い内界に潜った。そしてイルカになって、フィンを蹴り、両手を伸ばし、自由自在に泳いだ。気持ちがいい。どこまでも蒼く優しく広がる世界だった。僕が住むもう一つの世界、蒼いこころの領域は、健在だった。


【 3 アイデンティティ 】

 潜った。そして左手を遠くへ伸ばしながら、蹴りながら、深みを目指した。今日は調子がいい。どこまでも、どこまでも、底を目指せる感じがした。いつもは右側の世界。右側は救いを求める誰かほかの人の本音。今日は、自分の中の「核」だ。知りたい、知りたい、知りたいんだよーー!

 狐色に光る場所……。見つけたよ。あれは僕が封印していたこころの真実のありかの一つだ。嬉しい。狐色の中に黒褐色のシミが混じった、初めて見るタイプの明かりだ。何かを新しいもの発見できる。僕が追い求めていたものかもしれない。希望に溢れた僕は、それを思い切って掴もうとした間際に、透明な壁に遮られ、派手にぶつかった。

― バット……。黒い金属バット。それを握り仁王立ちする人影。他にも人がいる。バットが振られる……。激しく振られる……。すると目の前の世界がみるみる赤で覆われた。僕はただ、傍観している。透明な壁を隔てた向こう側で展開されている「それ」を、僕は観察している。僕のこころはダラダラと溶けて、緑色のスライムのように形を崩し、下へ垂れていった。それでもスライムは「平気だよ」と笑っていた —

 この幻影は?

 そこにいるのは危険だよと教えられたような気がして、一気に地上へと引き戻されると、ベッドにうつ伏せになっていた。いたって冷静だった。「平気さ、平気さ」と、蒼い世界は笑っていた。そしてしばらく一緒に笑い続けた。

 「泉くん?」

 誰かが呼びに来た。

 「軽い食事を作ったから、2階へ行きましょ」

 誘われるまま、その人についていった。

 「さあ、どうぞ」

 勧められた椅子に座った。テーブルの上には、スクランブル・エッグにベーコン、レタスが盛られた白い皿、ブルーベリーのヨーグルト、ロールパン、そしてコーヒーが置いてあった。2人分だ。

 「これ、食べていいのですか?」

 「ええ、どうぞ。食べれるものだけでいいわよ」

 「ではいただきます」

 空腹かどうかはわからないが、勧められたので食べ始めた。味覚はない。「味はどう?」と訊かれたので、社交辞令のように「おいしいです」と答えた。さっきの黒いバッドと赤色のことが気になっていた。そういえば、前にもチラッと遭遇したことがあるアイテムだ。

 「ねえ、泉くん」

 「泉くんって、誰ですか?」

 目の前の人は、驚いたように手を止め、こちらの顔を見た。すぐに気を取り直して話し始めた。

 「いくつか、質問してもいいかしら?」

 「はい」

 「今日は何月かしら?」

 「8月です」

 「元号はわかる?」

 「令和です」

 「この家があるのはどこかしら?」

 「神田紺屋町です」

 「あのドアについている鈴は、どこのものかわかる?」

 「比沼麻奈為神社のものです」

 「では、あなたの名前は?」

 「知りません」

 「私の名前は?」

 「マリさんじゃないかと思います」

 「ここはどんな仕事をするところかしら?」

 「カウンセリングです」

 「あなたのお仕事は?」

 「わかりません」

 「あなたの年齢は?」

 「わかりません」

 「あなたのいた大学はわかる?」

 「いいえ、わかりません」

 「じゃあ、たなたの性別は?」

 「わかりません」

 少し考えたあと、マリさんという人は深刻そうに言った。

 「あなたは今、自分のアイデンティティに関わることを、忘れてしまったようだわ。ユリちゃんのこと以外に、もしかしたら昔、なにか精神的にショックなことがあったのかもしれないわね」

 「さっき、下のベッドで臥せっていたとき、とても気になるものを見たんです」

 「よかったら教えてもらえないかしら」

 「はい、もちろんです。黒いバットが見えたんです。誰かが持っているようで、振っている感じ。そのあと赤色が広がるんです」

 「それはいいイメージなの?」

 「いいえ。そこから離れなくちゃいけない感じが付きまとっていました」

 「泉くんの大きなトラウマかもしれないわね。泉くんは、元々高校生からの記憶しかなかったのよ。その原因じゃないかしら。バットと赤色は。それに触れてしまったから、今の自分のことも忘れてしまったのでは」

 「理論的には整合性がありますね。そうすると、トラウマケアをしなくてはならなくなる」

 「どうやってやるの?」

 「事実に向き合い、受け入れるということですが、その前提として強い自我を持たなくてはならない」

 「なぜ今頃、それに触れたのかしら?」

 「僕は最近、何か力のようなものを手にする経験をしましたか?」

 「ええ、京丹後市の比沼麻奈為神社へ行って、神主と話して、特別な古い鈴をもらっていたわ」

 「それが、僕の自我に力を注いだ可能性がありますね」

 「バットは、どこにあったの?」

 「こころの世界に潜っていった、ずっと先です」

 「方向は?」

 「左の下のほうです」

 「やっぱりそうね。左側は、泉くんにとって自分のこころを意味しているの。今までは右のほうにある他の人のこころを探ってばかりだったの。今日は、初めて自分で自分のこころの大切なものを掴んだのね」

 「あっ、そういえば、左手で掴もうとして、透明な壁にぶつかり跳ね返されました」

 「左手ね。そして跳ね返されて届かなかったのね」

 「ということは……」

 「そうね。そのバットや赤色をしっかり掴んで、謎を解き明かさないと」

 「痛みを伴う大変な作業になりそうです」

 「自分を取り戻すための」

 「はい、やってみます」


【 4 過去に挑む 】

 食事を終えた。一時間ほど休憩をとってから、2階のこの部屋で自分のこころに潜入することにした。マリさんという人が、万一に備えて付き添ってくれることになった。今まで自分のことを「僕」と呼んでいたらしいが、こうなってからは何と呼んでいいのかわからない。

 部屋にあったテーブルを隅に運び、敷布団と枕を置いてくれた。その他に、タオルや冷却材、洗面器、それに体温計も。もう一つ大切なアイテムは、比沼麻奈為神社の鈴だった。それは左手に握ることにした。

 時間がきた。邪魔にならないよう、電話と玄関チャイムは鳴らないようにした。布団に仰向けになり、呼吸を整えた。マリさんという人は、少し離れた椅子に腰をかけ、見守っていた。

 蒼い世界に潜入した。左方向を目指し、下へ下へと降りていく。この辺りは順調に進める。底近くになって、例の「核」らしきもの、狐色の中に黒褐色のシミが混じった明かりを見つけた。ここから慎重に泳ごう。透明の壁に当たって元に戻ってしまわないように。目を凝らすと、透明なアクリル板の破片のようなものが、たくさん散らばっている。それらを避けながら、ゆっくりと「核」に近づく。やがて黒いバットのイメージが濃くなった。

 仁王立ちした人が持ち、振っている……。それに注意を奪われず、障害を避けて、核を掴まなくちゃ! 身体をくねりながら、ようやくすぐそこという場所まで辿り着いた。両手を、ゆっくりと核、明かりを包むように差し出した。ダイバーズ・ウォッチは、1998年を表示している。今から21年前。

 思い切って、優しくも強く、それを丸ごと、両手で包み込んだ!

 全身に筆舌にし難いほどの衝撃。水の中でコマの様に激しく回転する「それ」。絶対に離さない!

 しばらく辛抱していると、周囲は穏やかになった。そしてある部屋にいた。クローゼットの陰から部屋の中を覗いている。小柄な男が、黒い金属バットを持ち、中年の男女に向かって怒鳴っている。男は益々興奮し、バットを振り回した。まず男性の頭部を殴り、何度も、何度も……。その度に鈍い音がする。次に、電話をかけようとしていた女性の方を見て、バットを振り下ろした。何度も、何度も……。淡いベージュの絨毯が、みるみる赤色に染まった。

 男は急に大人しくなると、無表情で「やったぁ!」と言った。のそのそと歩き回った後に部屋を出ていった。クローゼットの中で全身が固まってしまい、声も出せない。どれだけ経ったかわからないが、急に堰を切ったかのように涙が溢れだし、そして気を失った。

 気づいたときには、病院のベッドの中にいた。病院のカウンセラーのような女性の先生と話し、そこに警察官が加わった。見たことを話した、かもしれない……。カウンセラーの先生に、「治ったら、新しいお家に引っ越すよ」と言われた。警察官は確か「施設」と言っていたように思う。

 そこまでくると、周囲は再び水で満ち、無限の泡に包まれ、激しい渦に吸い込まれてしまった。下半身はイルカだったが、うまく泳げない。流され、流され、遠くまできて、やっと穏やかな蒼の世界に戻ることができた。泳いで岸まで辿り着き、砂浜に立った。

 「見えました……」

 「苦しそうだったわ。それに悲しそうだった」

 今見てきたものをすべて、マリさんという人に説明した。

 「言っていいのかどうかわからないけど……」

 「いいですよ。多分同じことを考えていると思います」

 「場所は泉くんの昔の自宅で、この人たちは両親じゃないかしら」

 「はい」

 「被害の現場を見ていたのね」

 「はい」

 「黒い金属バットと赤色のイメージは、そういうことだったのね」

 「はい」

 「今、耐えられる?」

 「きついですけれど、僕の閉ざされていた過去が開かれて、未来に繋がっていくような気もしています」

 「肯定的に捉えているの?」

 「はい」

 「1998年は、泉くんが12歳の時……。小学校6年生」

 「はい。この時のショックで、逆行性の解離性健忘が起き、それ以前の記憶を失ったと考えています」

 「そのようね。両親は亡くなったのかしら。施設って言ってたわ」

 「そうかもしれません」

 「1998年に何か事件が起きていなかったどうか、検索して調べてみるわ」

 「ニュースになっていますかね?」

 「えーーーーと。あっ! これじゃない?」

― 1998年5月22日金曜日午後6時過ぎ、茨城県土浦市桜町2丁目の古泉優斗さん(42歳)方に14歳の少年が押し入り、優斗さんと妻の幸恵さん(38歳)を金属バットで殴打し、殺害した。この日は長男の海都くん(12歳)の誕生日で、お祝いの準備をしている最中だった。6時半頃、バットを持ち歩いている少年を見かけた近隣住民が不信に感じ警察に通報し、駆けつけた警察官によって補導され、「人を殺してみたかった」と供述したことから殺人容疑で逮捕された。海都くんはクローゼットに隠れていたため、無事だった —

 「ぴったりだ。僕の名は泉海(いずみ かい)ではなく、古泉海都(こいずみ かいと)……。12歳の誕生日に両親を殺され、その後、児童養護施設で生活していたのですね……」

 「なんてこと……。とっても悲しいわ!」

 「マリさん……、っていう名前も、思い出しました。つっかえていた棒が外れました。今の僕のこともわかります。調べてくれてありがとうございます。少しだけ、僕自身の謎に迫ることができました」

 「いいえ、泉くん。ごめんなさい。こんな悲しい出来事を教えるつもりはなかったの……」

 「いいんです。僕にとって必要な作業だから。まだすべては終わっていないと思います」

 マリさんは「泉くーーん!」と叫ぶと、僕のところに駆け寄り、泣きながら抱きしめた。「ごめんなさい、ごめんなさい」と小声で何度もつぶやいていた。

 

【 5 新しいクライエント 】

 マリさんは、落ち着きを取り戻すと、涙を拭い、電話とインターホンを元に戻した。そして事務室で2人でしばらくまどろんだ。僕は冷めたコーヒーを飲んで、深いため息をついた。妙に落ち着いている自分がいた。

 電話が鳴った。その音に驚いたマリさんが「ひゃっ!」と声を出した。

 「はい、泉心理相談所です」

 「あのう、犯罪加害者の側のカウンセリングもやっていますか?」

 「はい。どんなことでも、お役に立てられるのならお話を伺います」

 「今日でもいいですか?」

 「しばらくお待ちください」

 マリさんは電話を保留にして、僕に言った。

 「泉くん、今日のインテーク希望。犯罪加害者の側のカウンセリングだそうよ。できる?」

 「はい、もちろんやりますよ」

 「わかったわ」

 再び電話の主に向かった。

 「はい、本日でも可能です。何時頃をご希望ですか?」

 「ありがとうございます。これから向かいますので、4時くらいになります」

 「では、4時半開始にしましょうか?」

 「はい、それなら余裕をもって行けます」

 「来られる方は、どなたですか?」

 「14歳の娘のことで、両親でまいります」

 「わかりました。お待ちしています」

 マリさんは電話受付簿と予約表への記入を済ませて、僕のほうを見た。

 「泉くんが心配だわ。14歳の娘さんが起こした事件のようで……」

 「そうなんですね。まったく構いません」

 「泉くんのこころに、これ以上の負担はかけさせたくないなぁ」

 「負担というのは一つの解釈です。本当に負担なのかどうか、誰にもわからないはずです」

 「そうね……」

 僕は1階の自分の部屋に戻って、シャワーを浴びた。シャワーの湯がいつもより優しく身体を打った。僕は、14歳の少年に両親を殺害された子どもだった。そのトラウマからまだ完全に立ち直ってはいない。でもこれだけは言える。この体験が、僕をカウンセラーにさせた一因に違いない、と。

 間もなく会うのは、14歳の少女の両親。この両親の娘は、何をしたのだうろ。被害者側には、事件に絡んだ特段の事由がない場合もある。加害者側には、必ず事件に繋がる何らかの事情がある。両親は、何を求めてカウンセラーの元へ来るのだろう。僕自身の犯罪へ向かう感情を、クライエントとの場に持ち込まないようにしなくてはならない。

 午後4時過ぎに、夫婦がやってきた。マリさんがカウンセリング・ルームへ案内し、相談申込書への記入を促した。

 母親「あの……」

 「はい」

 「書いた内容が人に知られることはないですよね?」

 「はい、ありません。裁判所の開示命令がない限り、誰にも知られることはありませんよ」

 「わかりました。すみません、変なことをお尋ねして……」

 「いえ、疑問な点があったら何でも訊いてください」

 マリさんが、記入された申込書を持ってきた。


― 父親 佐木直忠(警察官)49歳  

  母親 佐木妙美(パート)49歳

  長女 佐木マアヤ(中学2年)14歳

  次女 佐木サアヤ(小学6年)12歳

  父方弟 佐木シンヤ(無職)35歳

 相談内容 長女の事件で家族はこれからどうしていったらいいか

 住所 千葉県習志野市 —


  マリ「長女の事件って、どんなものかしら」

 「もしかしたら、一昨日起きたあの重大事件かもしれませんね」

 「重大事件?」

 「ネットで、次のキーワードで検索してみてください。習志野、14歳、殺害、です」

 「殺人事件なの……」

 マリさんがネットで調べると、飛び出してきたニュースにひどく驚いていた。

― 一昨日の夕方、千葉県習志野市津田沼6丁目の住宅で夫婦が殺害された事件で、習志野署は、今朝、近くに住む中学2年の女子生徒(14歳)を殺人の容疑で緊急逮捕しました —

 「今朝逮捕って書いてあるわ。それですぐにカウンセラーのところに……。どういうことかしら」

 「きっと、家族しか知らない事情があるんだと思います」

 「そうよね。でも事件を起こした娘さんについては、カウンセラーにできることは限られているわ……」

 「そうでもないですよ」

 「えっ?」

 「まず、加害者家族は世間の批判の目に晒されます。そこで精神的ケアが必要です。そして事件本人に、ですよね?」

 「ええ、そうよ」

 「少年事件ですから、捜査が終わったら必ず家庭裁判所に送致されます。検察官の意見付きで」

 「そうなのね」

 「本人はしばらく少年鑑別所で過ごしながら家裁の調査を受け、最終的に審判が出されるんですが、この間、付添人として弁護士と同様に本人に関わることができるんです」

 「付添人? 初めて聞いた言葉だわ」

 「弁護士も、家裁では弁護人と言わずに、付添人って言うんです。本人の更生に資すると裁判所が判断すれば、弁護士以外でも付添人になれます。場合によっては、付添人の活動が家裁の審判結果を左右することも考えられます」

 「家裁の裁判官の考え方に影響するの?」

 「家裁でも、実際に調べに当たるのは調査官で、この人たちは心理職なんです。心理職の人たちの判断に付添人がどんな影響が与えられるか、ここが重要になりますね」

 「でも、まだ14歳だから、選択肢はもう決まっているのよね? 少年院とか」

 「いいえ、少年法が改正されてから14歳と15歳は家裁としても一番悩むところでしょうね。殺人事件の場合、16歳でしたら原則として検察官送致、いわゆる逆送と定められています。14歳以上の場合は、殺人事件などの重大事件で、検察官送致ができるように年齢が引き下げられました」

 「検察官送致……」

 「はい、大人と同じ刑事裁判を受けるということです。検察庁から家裁へ送致されたのを、家裁がまた検察庁に送致し戻すので、逆送って言われるんです」

 「14歳って、まだ子どもだという印象が強いけれど……」

 「1997年に神戸で起きた猟奇的事件以降、世の中を震撼させるような少年犯罪が目立ってきて、16歳から14歳へと変更されました。厳罰化による抑止を狙ったのと、遺族の処罰感情への配慮、この両方が大きいでしょうね」

 「……(涙)」

 「マリさん、どうしました?」

 「……。ごめんなさい。泉くんのご両親のことを思い出してしまって……」

 「あっ、1998年、14歳の少年に、というところですか?」

 「ええ……。泉くん、とてもつらいんじゃないかって……」

 「それとこれとは別ですから。では、時間なので行ってきますね」

 「いってらしっゃい……」


【 6 できること 】

 自分が犯罪被害者の遺族だったとしても、僕は今、カウンセラーという仕事を選んでやっている。選択したことをできる限り尽くす。それ以外に僕自身の主体性を発揮できることはないじゃないか。過去の傷や怨念を長く引きずることは、自分のためにも、世の中のどんな生き物のためにもならない。目の前に来たこの人を、助けたい。それだけだ。

 カウンセリングルームに入った。

 「急なことで大変お困りでしょう」

 父「いや、そんなに困っちゃないよ」

 母「いえいえ、すみません。私、どうしていいか……」

 「ご両親の間で、かなり温度差があるようですね」

 父「娘がしたことは、娘のことだからしょうがないわな」

 母「娘だけに責任を押しつけられません。親ですもの。娘のことも気になりますし、被害に遭われたご関係者の方々のことも気になりますし」

 「まず確認させてください。娘さんの事件は、ニュースで話題になっていた一昨日に起きた件ですか?」

 母「はい、その通りです……」

 「今朝逮捕されたというのは?」

 母「逮捕は今朝ですが、あの日の夜から刑事さんたちが家に来ていました」

 「それで、娘さんのことをいろいろと訊かれたのですね?」

 母「はい。その時から、あの事件はうちの子じゃないかって恐れてました」

 「何か心当たりがあったようですね」

 母「はい。うちの子、前から包丁やナイフに興味持ってて……」

 「集めていたり、何か実験みたいなことをしていていた?」

 母「ええ……。はーーーぁっ!(号泣) こんなことになるなら、もっと早く病院とか施設に頼んでおけばよかったーーぁ!」

 「お母さんの後悔は、とてもよくわかります」

 僕は、母親のこころに潜入していた。

― 私がいけなかった。あのときに私が娘たちを連れて家を出ていれば、こんなことにならなかった。私が世間体を気にしたばっかりに、長女をこんな目に遭わせてしまった。長女ではなく、私がしてしまったのよ。私の中の殺意を、長女が代わりにしてくれただけなの —

 父親のこころは……。

― どうしようもない奴らばかりだ。◇※〇◇□※〇△……※△〇〇◇◎/※ —

 父親のこころが幾何学模様だらけで、読めない……。これは、共鳴できるような思考・感情性に乏しいということなのだろうか。

 「あのう、お父さんはどうしてここに来られたんですか?」

 父「ついて来いって言われたから来ただけですわ」

 「そうなんですね。それでお父さんは特に困っていることはないんですね」

 「ないな」

 「わかりました。ではお母さんと話す間、しばらく待っていていただけますか?」

 「そのつもりですぅ」

 「お母さん、両親に対しても取り調べがあるはずですが?」

 母「ええ。昨日も、逮捕された後も、家で刑事さんにいろいろ訊かれました」

 「今、ここに来られていても大丈夫なのですか?」

 「少し休憩しましょうと言われ、その間に、耐えきれなくなって電話したんです」

 「では、警察には言っていないのですね?」

 「はい」

 「警察の捜査に協力することは大事ですが、ご自身の心身をも守らなくてなりません。その意味で、できることがあればやらせていただきます」

 「ありがとうございます」

 「このカウンセリングが終わりましたら、こちらから経緯を警察に伝えます。そして、今後も捜査と並行して両親のカウンセリングが必要なことを伝えます」

 「それはもう、ありがとうございます!」

 「どれだけ警察が譲歩してくれるかわかりませんが」

 「お気持ちだけでも、ありがたいです」

 「いくつかアドバイスがあります」

 「はい」

 「まず、すぐに引っ越す場所を確保してください。これから、マスコミや野次馬、近所の人々の視線に怯えながら過ごすのは避けたほうがいいです。次女のサアヤさんにとってもですね。マアヤさんが更生して戻ってくるまで、お母さんは自分を保つことが必要です。家庭裁判所の審判のためにも、お母さんには生きていていただかないと」

 「娘は更生できるのでしょうか?」

 「不可能なことはありえません」

 「本当ですかぁ?(涙)」

 「そのために、マアヤさんを理解することが欠かせません」

 「でも、先生がマアヤに会っていただくことはできないので……」

 「お母さんからの情報は役に立ちます。それに、多分会うことはできますよ」

 「会っていただけるのですか?」

 「今すぐ、というのは難しいでしょう。家庭裁判所に送られたら、僕が、付添人になる者、として面会します。そして本人と保護者の了承をとってから、家庭裁判所に申請します。きっと許可が下りると思います」

 「それはありがたいです」

 「弁護士の話は聞いていますか?」

 「いいえ、何も」

 「そうなると、当番弁護士がつく可能性があります。その弁護士が、心理学的なアプローチに関心を示す人だといいんですが。恐縮ですが、経済的にはどんな状況にありますか?」

 「比較的余裕があるほうです」

 「では、私選弁護士を選ぶのがいいかもしれません。お母さん側からの要望に理解してくれる人、です。捜査の段階、つまり勾留期間でも、その弁護士と娘さんが接触する時間はとれるでしょうし、弁護士の働き方によっては、僕が早くから会えるかもしれません」

 「そうなんですか。全然知らなかったもので……」

 「もしよろしければ、私のほうからも弁護士に打診してみることはできますが」

 「是非お願いします」

 「では今日のところは、家に帰る前に、どこか住む場所を決めてください。あまり遠くなく、近過ぎず。千葉県外がいいかもしれません。誰にも見つからないように移動することが大切です」

 「わかりました。家に荷物を取りに帰るのはいいですか?」

 「できればしないほうがいいです。もう待ち伏せされているでしょう。ところで妹さんは?」

 「今日は私の実家に行ってもらっています」

 「どちらでしょう?」

 「同じ習志野市内です」

 「お母さんのご実家も、すぐに知られてしまうでしょうね。今のうちに、みなさんでまったく新しいところに住んだほうが」

 父「わしは行かんよ」

 母「どうしてよ?」

 父「何とも思っちゃないからね」

 母「そんなこと言わないで。あなた、またベラベラと好き勝手に喋っちゃうんでしょ?」

 父「娘のしたことは娘のこと。親は親でいいやろ?」

 「お父さん、お仕事は警察官でしたね?」

 父「万年巡査部長っていうやつですわ。はっはっ。これくらいで細かいこと言ってたら、警察官の仕事は務まりません」

 「わかりました。お父さんには、引っ越したほうがいいとは言いません。娘さんのことも、お母さんと一緒に考えさせてもらっていいですか?」

 父「ええよ」

 「もう一人のご家族は?」

 「わしの弟や。あいつも家でええ」

 「そうなんですね。お母さんもそれでいいですか?」

 母「ええ……。むしろそのほうが……」

 「では、このセッションはこれで区切りをつけます。お父さんと弟さんはご自宅のままで。お母さんは実家にいるサアヤさんを連れて新しく住む場所へ移動してください」

 「はい、ありがとうございます」

 「あっ、ご両親それぞれの携帯電話の番号を登録させてください。この相談所からの電話をそれぞれの携帯に登録してもらえますか?」

 母「はい」

 「そして、登録済の番号以外は着信拒否に設定しておいたほうが無難です。マスコミは、知人の番号を使ってかけてくることも考えられますので、怪しいなと思ったらすぐに拒否をしてくださいね」

 「はい」

 「では、僕も作業を急ぎます」


【 7 立場を超えて 】

 2人が帰ったあと、まず習志野警察署に電話をした。「なぜすぐに警察に連絡をしなかったのか!」と責めらるように言われ、ひと悶着があった。

 「話を聴いてからでないと、どんな事件かすらわからないじゃないですか? 電話による申し込みで、犯罪加害者側のカウンセリングを依頼され、その時点で警察に連絡をするというのは、重大な守秘義務違反ですよ!」

 僕が正論を強く述べると、対応した署員は「それは申し訳なかった。両親がいなくなったと、署内で大騒ぎになっていたので……」と、さっきまでの語気を下げて言った。そして習志野署内に設置された捜査本部に電話を回された。

 「捜査本部長の神山です。両親がそちらへ行っていたと?」

 「本部長さんが直々に。これはご苦労様です」

 「両親は今どこに?」

 「ここを出たらすぐに警察の捜査に協力するようにと、アドバイスしましたが」

 「携帯に電話をかけても出ないんですよね」

 「間もなく母親のほうから電話がいくと思います」

 「そうですか」

 「他にいろいろと話を聞きましたか?」

 「ええ、いろいろと」

 「娘のことも?」

 「はい、ほぼ把握できました」

 「動機は?」

 「はい、だいたい把握しています」

 「詳しく聞かせてもらえませんかね?」

 「もちろん事件解明に協力しますが。動機などは本人から聞けばいいんじゃないですか?」

 「それが、何にも言わないんで……」

 「何も話さない。なるほど」

 「この件は、外に出さないでもらえますか?」

 「ええ、もちろんです」

 「署まで来ていただくか、そちらに署員を向かわせるかしますので、お話聞かせてもらえませんかね?」

 「構いませんが、僕のほうも急いでやらなくちゃならないことがあるので、少し待ってもらう必要があります」

 「どれくらい時間かかりますかか?」

 「一時間くらいですかね」

 「急いで迎えの車を回します」

 「習志野から?」

 「そうです」

 「わかりました。あのぅ……」

 「なんでしょう?」

 「逮捕容疑は、殺人ですか?」

 「そうですが」

 「それだけですか?」

 「……と言いますと?」

 「事件現場を知れば、それだけだとは思えないはずなんですけど……」

 「現場のことは未公表です。どうしてそう思うんですか?」

 「それは、いろいろ把握しましたからね」

 「ではのちほど、よろしくお願いします」

 「はい。わかりました」

 電話のやりとりを聞いていたマリさんが心配そうに言った。

 「また警察に協力するの?」

 「そうなるかもしれませんね」

 「前みたいに、利用されるだけかもしれないわ」

 「解決できればいいんです。今回は、少女に未来が残せればいいんです」

 「泉くんも遺族よ。それでいいの?」

 「僕はいいです。少女は殺人犯になりたくてなったんじゃありませんからね」

 心理学に強い関心を持つ知人の弁護士に連絡をとった。状況を簡単に伝えるだけで、弁護人、いずれは付添人となることを引き受けてくれた。保護者との間で正式な契約を交わしてもらわなくてはならないが、弁護人予定者として弁護活動を開始できる。

 母親の携帯に電話した。

 「はい……」

 「泉です。警察から電話がかかってますか?」

 「かかってきます。でも怖くて出られなくて……」

 「そうなんですね。今は?」

 「タクシーの中です。とりあえず今夜はホテルを予約します」

 「わかりました。ご主人は?」

 「電車で帰るって言って、別行動です」

 「下の娘さんは?」

 「もうすぐ実家で、着いたらタクシーに乗せます」

 「実家のご家族は、知っていますか?」

 「たぶん知らないと思います」

 「それがいいかも。ところで、弁護士さんを紹介しようと思い電話しました」

 「はい、ありがとうございます」

 「名前は、水島あかねといいます。僕と同じ33歳。とても信頼できる人ですよ」

 「女性の弁護士さんなんですね」

 「はい」

 「彼女の携帯電話の番号を言いますから、メモしてもらえますか?」

 「はい」

 「登録して、この番号からかかったらなるべく出るようにしてください。あとで書面で契約してもらいますが、水島さんを私選弁護人ということでよろしいですか?」

 「はい。泉先生に緊急に連絡したいときはどうすればいいですか?」

 「相談所にかけてください。僕が留守の場合でも、事務の山下さんが出て、僕につないでくれますから」

 「はい」

 「あっ、訊き忘れるところでした。警察の捜査に協力しても構いませんか? 依頼されているんです」

 「はい……。それは娘のためになりますか?」

 「きっとなると思ってます」

 「はい、お任せします」

 「もう一つ……。ご主人は警察官ですよね?」

 「はい。しばらくは無理して会わなくてもいいと思いました」

 「……(涙)。はいっ……。会いたくありません……」


【 8 警察署で 】

 警察の車で習志野署に着いた。署の前は多くの記者たちが詰めかけており、テレビカメラも数台あった。中に入ると、取り調べ室ではなく、応接室のような部屋に通された。すぐに署長が挨拶に来た。 

 「署長の吉山です。以前、バスジャック事件の際には、大変お世話になりました」

 「あの件をご存知で?」

 「ええ、まぁ。今回も、ご協力を是非お願いします」

 「できる範囲内でさせてもらいますよ」

 「間もなく、この事件の捜査本部長とその部下が来ます。詳しくは彼らに」

 「はい」

 二人が入ってきた。入れ違うように署長は出ていった。

 「神山です。こちらは捜査員の下山です」

 「ご苦労様です」

 「さっそくですが、被疑少年のことで」

 「その前に、お願いがあるのですが」

 「何でしょう?」

 「まず、母親ですが、私のカウンセリングのクライエントです。私に会いたいと言ってきと時には、自由にさせてあげてください」

 「それはわかりました」

 「今、引っ越し先を探しています。居場所をわからないようにしてあげてください。気が動転しています。自宅での取り調べも必要でしょうが、移動の際はマスコミ等の追跡に気をつけてください」

 「わかりました。その母親なんですが、電話をかけても出ないんですよね。逃亡しているわけではないんですね?」

 「違います。警察の聴取にひどく怯えているのです」

 「ではいずれ電話はつながるということですね」

 「私選弁護人をつけました。弁護士を仲介して連絡をとってもらうのが理想的ですね」

 「それは早いですね」

 「ええ、あとから弁護士の連絡先を教えます」

 「わかりました」

 「あと、父親は警察官ですが、できればしばらく自宅に戻らないで、当直の仕事を継続させることはできませんか?」

 「それはまた、どうして?」

 「マスコミに対して、遺族感情を逆なでるようなことを言ってしまうと思われるので」

 「やはり、そうですか……」

 「やはり、というと?」

 「以前から、いろいろトラブルを起こしておりまして」

 「なるほど」

 「ただね、泉先生。同居している弟を一人にさせておくわけにはいかんのですよ」

 「なるほど。弟さんも同様ということですか?」

 「ん……。いろいろと厄介なことを抱えておりまして、ね」

 「何かありそうですね」

 「二人とも一時的に警察関連の施設に住まわせるという方向で検討してみます」

 「それはいいですね」

 「ところで、あの子はなぜ喋らないんでしょう?」

 「現段階の想像ですが、喋れなくなっている可能性がありますね」

 「喋れない……。それはまたなぜ?」

 「いわゆるパニックのような状態にあるのではないかと」

 「それは元に戻りますか?」

 「戻りますが、取り調べの環境も影響しますね」

 「どうすればいいんでしょう?」

 「今から、いつくか条件を言いますので、しっかりメモしてください」

 「わかりました」

 「まず、なるべく普通の部屋へ移動してください。取調室はよくない。彼女が今まで馴染んだことがあるような雰囲気の部屋だといいです。そこで一定時間過ごすと、落ち着いてくるでしょう」

 「この部屋のような応接室のほうがいいのですか?」

 「ええ、そうですね。大きなワンウェイ・ミラーが見えるような部屋は、よくないです」

 「他には?」

 「話を聞くのは、女性がいいでしょう」

 「思春期の子だから?」

 「そういう理由からでなく、身内の男性から暴行を受けているかもしれないからです」

 「そういうことがあったと……」

 「いや、まだ確証を得てはいませんが」

 「電話で、殺人以外の容疑、と言われてましたが?」

 「ああ、あれですね。遺体損壊もあったのではないかと思ったので」

 「……ふぅ……。実はその点はまだ公表していないんです。あまり騒がせたくないものですから」

 「同感です」

 「どうしてそのような想像を?」

 「彼女は、刃物への関心があり、収集していて、それを使った実験にも興味があったようなんです」

 「実験ですか……」

 「刃物を使った実験となると、損壊に繋がりやすいです」

 「確かに被害者の遺体は、一部切られていました」

 「彼女の自室から、猟奇的犯罪や刃物に関する資料、そうですね、本とか映像データなどは見つかっていますか?」

 「ええ……、少しは。まだ捜索中です」

 「遺体損壊のものも?」

 「ええ、海外の事件や日本の少年Aのものなど」

 「それらの刺激に反応してしまったんでしょうね」

 「あのう……、たくさんお尋ねしたいことがあるのですが、ちょっと中断させていただいていいですか?」

 「ええ」

 「今夜は何時までよろしいですか?」

 「何時でも」

 「これから母親に連絡とってみます」

 「ではこの弁護士を通して、やってみてください」

 「水島あかね先生……。お知り合いですか?」

 「はい。すでに母親と連絡を取り合っていると思います」

 「連絡してみます」

 「本部長!」

 「なんですか?」

 「普通は無理なことを承知でお願いするのですが、本人に少しの時間でいいので、会わせてもらえませんか?」

 「それは、さすがに……」

 「でしょうね。言っても無駄でした。事件の解明には早いんですがね」

 「これは検討事項ということで預からせてください」

 「わかりました」

 「では、のちほど」

 そう言って2人は出て行くと、別の警察官が来て、食事の用意を広げてくれた。そして「しばらくこの部屋で待っていてください。お飲み物等はご自由にどうぞ。トイレは廊下を出てすぐ左側にあります」と言い、出ていった。

 また長い夜になりそうだ。僕の目標は、事件が迅速に正しく理解されること、被害者遺族に鞭打つような情報が届かないこと、加害者家族が追い詰められないこと、そしてもちろん、彼女の更生に資する手筈を整えること、だった。


【 9 異例中の異例 】

 一時間ほど経って、下山捜査員が部屋に戻ってきた。

 「本件については極秘でお願いします」

 「もちろんです」

 「今から別室へ移動していただけますか? 本部長らが待機しています。そこに本人もいます」

 「そういう判断をされたんですね」

 「はい。実は私、大学で心理学を専攻していました。本部長に強く推しました。今までの取り調べではうまくいかないと思う、と」

 「そうだったんですか」

 「一昨日から本人に会っているのですが、まったく喋らなくて。というか、喋られない状態のように見えます。住民の不安を軽くするためにも、状況証拠だけで緊急逮捕しましたが。殺人に加えて遺体損壊を加えても勾留期間は限られていて、今のまま無言を貫かれると、我々としても困ります。これは異例中の異例だとご理解ください。是非、ご協力をお願いします」

 「状況は察しています。裁判所から認められた勾留期間は10日間、延長してもさらに10日が限度。遺体損壊で再逮捕すれば伸びますが、少年事件で無理に伸ばすのも……、ですよね」

 「はぁ、恐縮です」

 廊下を移動する途中、窓から外が見えた。夜も遅いのに、照明が見え、テレビの中継車も来ているようだった。3階へ上がると、刑事課の表示があった。特別な取調室のような部屋の前には複数の警官が立っていた。僕たちが着くと、下山さんがノックをして中でひそひそ話すと、神山本部長が出てきた。

 「ここに彼女はいます。少し会っていただけますか?」

 「もちろんです。制限時間は?」

 「あまり長くならなければ、時間はお任せします。我々も立ち合わせていただきすが?」

 「立ち会っていただいたほうが好都合です。説明を省けますからね」

 「ではお願いします」

 中に入ると、普通の事務机があり、その奥にマアヤは座っていた。左側に男性、右側に女性の捜査員が立っていた。ドアの入り口にももう一人女性が。本部長から、正面の椅子に座るよう促された。

 「どうぞ」

 「いえ、椅子に座る必要はないと思います」

 マアヤはうつむいていたので、椅子に座ると垂れた前髪で隠れた彼女の顔を見ることはできない。机に近づき、しゃがんだ。まだ視線が届かない。こちら側にあった椅子をどかして、そこに腰を下ろした。そして視線を交差させた。マアヤの視線は一点を見据えて逸れない。眼球は小刻みに震え続けていた。そしてすぐに彼女のこころに潜入した……。

― ◇◎☆△※◇…… 嘘 □※嬉しい ◇◇※●※大好き ◇/×汚い △●◎※好き ◇※☆×痛い ◇※●※ごめんなさい ◇△●◎◇※愛情 ◇●※×怖い △☆□◇◆◆※ありがとう 〇◇×やめて …□/〇………×逃げたい □…おじさん ※★※言うとおりにする □■×吐きそう …◎×切らないで ◇●※いい子? ☆◇\●×死にたい …×殺して ※◇・●◇※楽しい ■◎×◇/※切っていいの? ※☆◎※嫌じゃない 混乱 ◎□◇×助けて □/◎※私も △※やさしい 秘密 —

 その混沌世界に窒息しそうになって、僕はいったん戻った。

 「今、どれくらいの時間が経ちましたか?」

 「1、2分ですが」

 「いやー、ものすごい混乱状態で、彼女の脳は、矛盾した感情の嵐が吹き荒れています」

 「というのは?」

 「パニックが起きています。そこに過去のフラッシュバックも入り込んでいますね」

 「フラッシュバック?」

 「かなり酷い虐待を受けていて、それが事件の誘因となっているのは間違いないですね」

 「その内容は、詳しくはわからないですよね……」

 「今から言うキーワードを、記してもらえますか? それをAとしてください」

 「はい」

 「嘘 混乱 秘密」

 「書きました」

 「次に、これから言う言葉を別の紙に記してください。それがDです」

 「はい」

 「嬉しい 大好き 好き ごめんなさい 愛情 ありがとう 言うとおりにする いい子? 楽しい 切っていいの? 嫌じゃない 私も 優しい」

 「書きました」

 「次は最後の紙です。Tとしてください」

 「汚い 怖い 痛い やめて 逃げたい 吐きそう 切らないで 死にたい 殺して 助けて」

 「3枚の紙に意味があるのですか?」

 「ここから謎解きです。もう一つのキーワードは、おじさん、です」

 ここで、マアヤが突然「いやーーーーー!」と小さな声を出した。捜査官は一様に驚いた。初めての声だっのだから。

 「話を続けます。彼女のこころは交錯して捉えにくいのですが、混乱の中から法則性を拾い上げたのです。Dの紙の言葉は、歪められた認識、というか思い込まされたことに関するものです。Dは否認という防衛機制のディナイアルの頭文字。彼女の思考の中で、無機質な記号の羅列の※のあとに付帯していた」

 「ということは、虐待か何かによって誤って植え付けられた部分という理解でいいですか?」

 「ええ、さすが心理学を学ばれた下山さんですね」

 「そうするとTというのは……」

 「予想していると思いますが、本音に近い部分です。記号の×のあとに続いていた認識や感情です。Dは、種に虐げた人の前で見せていたこころ。Tは、隠さなくてはならなかったこころ。そう考察していいのではないでしょうか」

 神山本部長「これは本人の前で話してもいいことですか?」

 「本人に、もうあの世界は終わったんだ、解放されるんたということを知ってもらうためには。長引くパニックから抜け出てもらわないと。そのあと、少しは話せるようになるかもしれません。もちろんこれはマアヤさんにとって越えなくてはならない試練になります」


【 10 修羅場への潜入 】

 「捜査のためにも更生のためにも、その試練は必要なのですね」

 「ええ。そういうことです。もう一つ前提としてお伝えしておきたいのが、彼女の家系がもつ遺伝的な傾向です」

 「というと?」

 「父親と似ているところがあるのを感じるんです」

 「父親ですか。警察官の」

 「ええ。記憶を除き、感情や思考などこころの機能の波長が、僕とは合いにくい。2人のこころを読み取ろうとすると、理解不能の幾何学模様に見舞われるんです」

 「それは何を意味するのでしょう?」

 「共感力に著しい低下が見られるためかもしれません」

 「それは成育環境のためでなく?」

 「はい。先天性のものを感じますね」

 「さっきは虐待の影響だと?」

 「それらが複雑に絡み合っているようです。この分析が、事件を解く鍵になるのでは」

 「もう少し試みていただけますか?」

 「はい、もちろん。万一彼女が激しく混乱したら、医務室等で休養をお願いしますね。自傷や自殺企図は止めてください。それから、下手な精神科医に今は見せないでください。薬で鎮静されられるだけかもしれませんので」

 「わかりました」

 「彼女の身の安全だけは、是非ともお願いします」

 「はい、約束します」

 こうして、再度マアヤのこころへの潜入を試みた。意図して、僕自身の蒼い内界の痛みを感じながら……。

― おじさん おじさん おじさん おじさん…… それ何? 知らない。気持ち悪いよ。やめて、お願いだから。嫌だ。痛いよ。汚い…… ……ううん、何でもない…… 私いい子でしょ? 大丈夫だよ。できるよ。好きだよ。優しいね。可愛がってね……嬉しいよ —

 吐き気を催すような世界だった。時系列がはっきりした。

 「もう一度トライします」

― おじさん おじさん…… 怖い。持ってこないで。私を切らないで。おじさんも切らないで。血が出るよ…… 痛い!…… …うん、言うこときく。マアヤもできるよ…… いい子にするからね…… もう見れるよ 血は綺麗だね…… 誰にも言わないから…… おじさんのこと大好きだから…… —

 マアヤのこころから脱出すると、僕は息をするのも苦しい状態だった。手にはかなりの汗を握っていた。自覚以上に負担がかかったようだ。

 「大体、わかりました……」

 「事件の動機ですか?」

 「まあ……。その前に、叔父が同居した時期はわかりますか?」

 下山捜査員「早くても、11年前だということはわかっています」

 「彼女が3歳以降……。明確な時期はわかりますか?」

 下山「11年前から習志野市内に住んでいたのは確かですが、同居を始めた正確な時期はわかりません」

 「ちょっと確認したいので、電話を使います」

 神山「この場で?」

 「はい、すぐ終わります」

 僕は携帯でマリさんにメールを送った。

― マアヤの母親に次のことを問い合わせて、結果をメールで教えてください。「叔父が同居を始めたのは、マアヤが何歳の時ですか? それまで叔父はどこに住んでいましたか? マアヤと叔父との関係で気になったことはありませんか? 事件の直前にマアヤと叔父の間で何か起こりませんでしたか?」 —

 「運がよければ、もうすぐわかる筈です。それまでちょっと休憩させてもらえますか?」

 神山「ああ、気づかず申し訳ない。どうぞ休憩をとってください」

 机の前から立ち上がったとき、マアヤが喋った!

 「行かないでください。行かないでください。行かないでください。置き去りにしないで。お願い、お願い~。行かないで! なんでも言うこときくからーー!」

 立ち上がった僕の顔を見た。涙が流れていた。

 「トイレに行って、10分以内に戻ってくるから。ほら、あの壁の時計で、9時時15分までに戻るから。長い針が3のところに来るまでに。そしたら、またお話の続きをするよ」

 マアヤは大人しくなり、再びうつむいた。

…………

 応接室にあったコーヒーを飲み、休憩から戻ると、マアヤはまた口を閉ざしていた。

 「さあ、戻った」

 マアヤ「……」

 下山「情報は届きましたか?」

 「もうちょっと待ってください。父親の弟を指す四文字言葉には反応過敏ですから、皆さんもご注意お願いします」

 「はい、そのようですね」

 「今、連絡が届きました」

 「どうでしたか?」

 「わかったことを順を追って説明しますね」

 下山「本人はいないほうがいいのでは?」

 「いや。乗り越えてもらったほうがいい。他の人も理解していることが、伝わったほうがいい。そう思います」

 神山「では、そのままで」

 「3歳のときに、叔父が市内のアパートにやってきた。しかし管理人や他の住人とのトラブルが絶えず、7歳、つまり小学1年生のときから、佐木家で面倒を見ることになった」

 下山「7歳ですか……」

 「両親が仕事に出て、妹が保育園にいる間、叔父と彼女が2人きりになることが度々あった。叔父は、はじめは刃物を使って脅し、刃物で自分の腕に傷をつけるなどして見せて快感を満たしていた。しばらくして性的虐待も始まった」

 「それは酷い……」

 「彼女は、元々フリーズしてしまうようなパニックを起こしやすい傾向を持っていた。フリーズといっても、傍からはそう見えるだけで、脳内では激しい化学現象が起きているんです」

 「そのパニックが、逮捕後も起きていたということですか? それで喋らなかった、いや喋れなかった……」

 「恐らく事件直前からでしょうね。続きですが、日々繰り返される過程で、自分本来の好き嫌いといった意思を放棄して、叔父の機嫌を損ねないような心的防衛が強くなっていく。それはまさしく、おじの世界を自分の中に取り込むことにほかならない。共感が十分に育っていない子どもの中には、後から吹き込まれた考え方を受容しやすかったり、侵襲的経験によって被るダメージが大きいことがわかっています」

 「それが事件を起こした理由だと?」

 「ええ。母親は、少し前に刃物のコレクションや、刃物を使った実験のこと、たとえば昆虫に対して使うことを知り、不安に思っていました。しかしそれ以前に、叔父から性虐待を受けているのではないかと疑い、夫と言い合いになっていました」

 「言い合い?」

 「叔父を別居させないなら、娘2人を連れて家を出る、と言い張った。しかし夫は力ずくでそれを阻止したんです」

 下山「もっと早く警察に相談してくれていれば……」

 「本当にそうですか? その時点で警察は何ができましたか?」

 下山「叔父を検挙できます」

 「それは、叔父の行為を把握できた場合ですよね。阻止、口止めをしたのは父親です。警察官の。当時の母親は、やはり対応が難しい夫の機嫌を損ねないことで必死だった。夫=警察に対する不信もあった。警察が、警察官の不祥事解明に率先して取り組むとは思えなかったのは、僕は理解できますね」

 「そうかもしれないですね」

 「そこで事件のきっかけですが……。犯行当日の夕方、母親が帰宅すると、入れ違いのように本人が外へ飛び出していったそうです。自宅の浴室には猫の死体があったそうです。誰がやったのか確認をとっていませんが、叔父がするところを見せられた可能性がある。それでパニックに陥り、混乱し、しかしそれまでに備えてしまった叔父への同一化が生じ、一気に行動に走ったのではないかな」

 下山「それで近くの家へ行き、その住人に対して同じ行為を再現したということですか」

 「そうなります。多分、あちこちの記憶が欠落しているでしょうね。被害者の家の状態がどうだったのかは、僕にはまだわかりません」

 一同がマアヤのほうを見ると、彼女は顔を上げていた。呆気にとられたような表情をして、僕たちの方を見ていた。


< 第十話 完  第十一話へ続く >


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